[あらすじ] 自宅から1㎞ほどに神代植物公園が在る。
一帯は1㎞四方あまりの公園地帯で、住宅は移転し、
公園用地や空き地や植木畑が広がる中にドッグランも在る。
毎朝この辺りで犬を散歩させる。
一年あまり前に、この中のある場所で縊死が有った。
朝まだ薄暗い時間に散歩に出た私は、現場から10メートルほどの所を通ったが、
まるで気付かなかった。
次に通った人が第一発見者となった。
都内には、広い公園が所々に有る。
緊急時の避難場所という意味も有る。
広く、夜間は人気も無いので、自死の場所に選ばれがちなのか。
去年の夏に15歳で他界した前の飼い犬が若かった頃にも、
犬の散歩友達Sさんが第一発見者になった。
ある日、散歩していると、向こうの奥の木の下に立っている人がいる。
ところが、次に散歩に行った時に、同じ所に同じようにまだ立っていたのだ。
つまり、立っているのではなかった。
Sさんはその後もまた第一発見者になったことが有る。
とかく、人気が無くて木の有る所なので、こういうことが多いようだ。
※
私が発見しなかった一件は、すぐに犬の散歩仲間の間で話題になった。
会う人会う人、その話になった。
ただ、第一発見者のCさんとだけは、その話をしなかった。
と言うより、Cさんとはしばらく会わなくなった。
思い出してしまうから、いや、とてもイヤな感じがして、
ここに来られないのかもしれない。
一方、私は事件当日の夕方から同じ場所を散歩した。
何事も無かったかのように片付いている。
件の木の下に行って、木の形を見て、
どこの枝に紐を掛けてどこの枝まで登ったのか、理解した。
よく、「木が引く」などと言う。
この時の噂話の中でも聞いた。
とんでもない言いがかりだと思う。
人間のそういう考えのほうが、よっぽどそういう場を作る。
利用された木の幹に触れ、気にすんな、と声を掛けた。
※
噂話は見てきたような話になっている。
ついでに尾鰭が付くのはいつものことだ。
〇歳くらいの男だった。とか、
服装は〇〇だった。とか、
第一発見者の人は顔を見てしまった。とか、
五差路の所の柳の木だった。とか。
そんな噂話の中に、
最初に通った人は気付かなかったらしい。
というのが有った。
これは尾鰭もなんも付いていない。
尾頭付き上等、正味で私のことである。
そうです私が第0号発見者です。
※
現場から10メートルほども近くを通りながら気付かなかった。
まだ薄暗い時間だったし、
木々は黒々と生えているし、死者は当たり前だが声も立てず静かに縦にいる。
第一発見者も、木の根元に立て掛けた自転車に先に気付いた、と言っていた。
人には人の気配というものが有る。
町の中でもふと人と目が合うことが有るが、
気配と気配が感じ合った瞬間である。
そういう気は、生きていてこそ発するものだ
と、あらためて思う。
音としては聞こえないけれど、
生きた人の発する気は人の周囲に在る。
街中などでは、誰もしゃべっていなくても大勢の人がいれば
そこそこ騒々しく感じるのは、
気がそこいらに満ちてざわざわしているのだろう。
※
鬱状態だったことがある。
医者には行っていないので、診断を受けたり、服薬したりしたことは無い。
窓から見える景色は色の無い絵をはめてあるかのように見えた。
それ自体も動かず、それを見る私も動かない。
食べ物は味がしない。味が無いわけではないが、味がしない。
味覚に障害が有るわけではない。
味わうという感覚が動かない。
全てが一枚の膜の外に在るような感じだった。
直接触れるには自分自身が過敏になっていたので、
防御的に鈍麻していたのではないかと思う。
消えてしまいたい、と思った。
けれど、死にたいという言葉では思わなかった。
何か少し、感覚が違った。
自ら死ぬという行動に出ることと、私が持った感覚には
何かの隔たりが有る。
「あなたの命はあなただけのものじゃない」とか
「授かった命」とか
そういう言葉は全く響かない。
葛藤が有るのはそこではないからだ。
生きていると直面する今の事に対処できなくなっている。
とでも言ったらいいのだろうか。
私は自死を否定するものではない。
しかし、死と死のタイミングについて自己決定権が有る、
とまでは思わない。
周囲に迷惑をかけない死に方も、悲しみを与えない消え方も、
たぶん、無い。
そんなことを気にしているうちは、生きている。
一帯は1㎞四方あまりの公園地帯で、住宅は移転し、
公園用地や空き地や植木畑が広がる中にドッグランも在る。
毎朝この辺りで犬を散歩させる。
一年あまり前に、この中のある場所で縊死が有った。
朝まだ薄暗い時間に散歩に出た私は、現場から10メートルほどの所を通ったが、
まるで気付かなかった。
次に通った人が第一発見者となった。
都内には、広い公園が所々に有る。
緊急時の避難場所という意味も有る。
広く、夜間は人気も無いので、自死の場所に選ばれがちなのか。
去年の夏に15歳で他界した前の飼い犬が若かった頃にも、
犬の散歩友達Sさんが第一発見者になった。
ある日、散歩していると、向こうの奥の木の下に立っている人がいる。
ところが、次に散歩に行った時に、同じ所に同じようにまだ立っていたのだ。
つまり、立っているのではなかった。
Sさんはその後もまた第一発見者になったことが有る。
とかく、人気が無くて木の有る所なので、こういうことが多いようだ。
※
私が発見しなかった一件は、すぐに犬の散歩仲間の間で話題になった。
会う人会う人、その話になった。
ただ、第一発見者のCさんとだけは、その話をしなかった。
と言うより、Cさんとはしばらく会わなくなった。
思い出してしまうから、いや、とてもイヤな感じがして、
ここに来られないのかもしれない。
一方、私は事件当日の夕方から同じ場所を散歩した。
何事も無かったかのように片付いている。
件の木の下に行って、木の形を見て、
どこの枝に紐を掛けてどこの枝まで登ったのか、理解した。
よく、「木が引く」などと言う。
この時の噂話の中でも聞いた。
とんでもない言いがかりだと思う。
人間のそういう考えのほうが、よっぽどそういう場を作る。
利用された木の幹に触れ、気にすんな、と声を掛けた。
※
噂話は見てきたような話になっている。
ついでに尾鰭が付くのはいつものことだ。
〇歳くらいの男だった。とか、
服装は〇〇だった。とか、
第一発見者の人は顔を見てしまった。とか、
五差路の所の柳の木だった。とか。
そんな噂話の中に、
最初に通った人は気付かなかったらしい。
というのが有った。
これは尾鰭もなんも付いていない。
尾頭付き上等、正味で私のことである。
そうです私が第0号発見者です。
※
現場から10メートルほども近くを通りながら気付かなかった。
まだ薄暗い時間だったし、
木々は黒々と生えているし、死者は当たり前だが声も立てず静かに縦にいる。
第一発見者も、木の根元に立て掛けた自転車に先に気付いた、と言っていた。
人には人の気配というものが有る。
町の中でもふと人と目が合うことが有るが、
気配と気配が感じ合った瞬間である。
そういう気は、生きていてこそ発するものだ
と、あらためて思う。
音としては聞こえないけれど、
生きた人の発する気は人の周囲に在る。
街中などでは、誰もしゃべっていなくても大勢の人がいれば
そこそこ騒々しく感じるのは、
気がそこいらに満ちてざわざわしているのだろう。
※
鬱状態だったことがある。
医者には行っていないので、診断を受けたり、服薬したりしたことは無い。
窓から見える景色は色の無い絵をはめてあるかのように見えた。
それ自体も動かず、それを見る私も動かない。
食べ物は味がしない。味が無いわけではないが、味がしない。
味覚に障害が有るわけではない。
味わうという感覚が動かない。
全てが一枚の膜の外に在るような感じだった。
直接触れるには自分自身が過敏になっていたので、
防御的に鈍麻していたのではないかと思う。
消えてしまいたい、と思った。
けれど、死にたいという言葉では思わなかった。
何か少し、感覚が違った。
自ら死ぬという行動に出ることと、私が持った感覚には
何かの隔たりが有る。
「あなたの命はあなただけのものじゃない」とか
「授かった命」とか
そういう言葉は全く響かない。
葛藤が有るのはそこではないからだ。
生きていると直面する今の事に対処できなくなっている。
とでも言ったらいいのだろうか。
私は自死を否定するものではない。
しかし、死と死のタイミングについて自己決定権が有る、
とまでは思わない。
周囲に迷惑をかけない死に方も、悲しみを与えない消え方も、
たぶん、無い。
そんなことを気にしているうちは、生きている。
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