夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

知覚の衰え

2007年04月12日 15時33分11秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
母と一緒の生活をしてみて、改めて感じたことがある。

それは母の耳が聞こえなくなっているということ。
全体が聞こえないのではなく、高い音が聞こえないようだ。

家の中にはさまざまな電化製品がある、電話機やファックスなどもそうだけど、台所にも炊飯器やレンジ、ポット、そのほか洗濯機、掃除機そのたもろもろ、それにガスや煙の検知器などもある。
これらの多くが高い警告音とか確認の音をいろんなステップで出す。ご飯が炊けたとか、レンジの加熱が終わったとか、、、例のピッ、ピッですよね。

隣の部屋にいて仕事をしていて、その音が聞こえていってみると、その部屋にいる母には聞こえていないのに気がつく。

母がテレビを見ているときには普通の音量で聞いているし、話をするときにも特に声を上げる必要はない。だからこちらは母には耳の衰えがないのかと思っているから、それにちょっと吃驚したり、いらいらしたりする。

それより怖いのは、母が自分の聴覚の衰えに気がついていない。
普通に聞こえているから、一部の音が聞こえなくなっているのには気がつきにくいのはわかる。

以前、どこかのテレビで、自転車のベルの音が老人には聞き取りにくいということで老人が聞こえるような音を再現していたけど、ベルの音は本当に聞こえなかった。
だから頭では理解していたはずなのに、自分の目の前の母がそうだとはわからなかった。普通に話をしているのだし。
一部の家電メーカーではこのことに対応した製品を作っているようだけど、母の様子を見ていると家にある製品でこれに対処したものはないようだ。

車を運転していて、案内標識や、信号の(特に)矢印が見えにくい。これはすぐに自覚できるけど、視野角が狭まっている、見ているものが意味のある信号として脳に伝えられていない(赤信号や道の端を走る自転車を目には入れていても、そのまま走ってしまう)こんなことは実は自覚するのが非常に難しい。

あるいはこんな場面で衰えが顕著ですという話を聞いて頭に入れていても、それが必要な場面ではそんなことは頭の隅から消えている。それが高齢者の衰退。

呆けも全体できて、後戻りしないで進行するのであれば、対処はまだやりやすいかもしれないけど、全体的には問題ないように見えて、あるとき、ある部分が欠落したり、知覚が衰えたり、その分野も進行状況もまだらになって、あるときには正常になっていたりする。

京都の認知症の母親を殺したケースでも、母親が生きていけないのだから殺して頂戴って言ったというのを、認知症の人がそんなことを言えるわけがないという反論があった。でも認知症でもその部分は正常かもしれないし、あるいはそのときには正常に判断できたかもしれない。そこが問題なのですね。

高齢者の割合がどんどん増えていく、そうした社会でこれらの自覚されにくい知覚の衰え、運動機能の衰えに、社会がどう対応していくべきかもっと考えられてもいいのじゃないかと、母の後を追いながら考えている。



戦争の、そして武器の恐ろしさ

2007年04月12日 14時31分47秒 | 日記
被爆者の一人としてあえて話をすれば、長崎や広島の原爆反対の動きは、原爆が悲惨なものだからよしましょうというPRの方式をずっと変えるつもりはないようで、これではいつまで核兵器反対を唱えてもそんなに効果があるとは思えない。
私はむしろ、場合によっては逆効果、原爆投下を肯定する感情を植えつけているかもしれないと思っている。

このようなときに私がいつも口にするのは、アメリカ人はあのときの原爆投下をこれ以上の犠牲を防ぐための必要悪として肯定しているし、武器を使用するのだから、味方の損傷を少なくして、相手により大きな殺傷力を与えたのであれば、正しい選択であったとしか考えていないということ。アメリカで生活をした人なら、このような考え方が彼らの底流にあることはいろんなところで感じたはずだと思う。

日本の反対論者たちも、原爆展をスミソニアンで開催しようとしても、在郷軍人会などからの反対で出来なかったことなどを見れば、このような考えがアメリカ国民の感情の底辺には流れ続けていることを知っているはずだと思う。

自分が苦しい思い、悲しい思いをして、だからそれさえ訴えれば、皆が判ってくれるだろうと思うのはあまりにも甘すぎる考えだと思う。

武器という点だけで見れば、自分の危険を極力少なくして相手により大きなダメージを与えるものが優秀な武器なのだから。
だからこそ、生物兵器やその他の化学兵器が毎日研究され、生産され、軍隊にベターな武器として供給されているのだ。
原爆の恐ろしさだけを訴えることは、むしろ相手にとって自分は効果的な武器を使用したとの思いを新たにするだけだろう。

武器は手段であって、戦争とそれによって起こされる国民感情そのものが非人道的な行為を肯定したり、否定したりもする。
もっと違った観点から、感情論ではなく、もっと理性に訴えられる核兵器や大量破壊兵器反対の動きはないのだろうか。





国連でヒロシマCGを上映 「日常」と「地獄」再現の映画(共同通信) - goo ニュース

家の子のことが心配で、心配で

2007年04月12日 12時24分20秒 |  写真
センセ、聞いてください。家の子、ご飯を食べにも降りてこないで、寝床に入ったままこちらを見ているばかりなんです。赤ちゃんでもできたのかしら?



多摩川河川敷の土鳩もこんな行動をするのがいたのですけど、でもあちらさんは大勢で生活しているでしょう?いろいろありますよね。



でも、家の子に限って、品行方正、何時も一人でいたのですよ、、、
どうしたんでしょうね~



公子行  劉廷芝

2007年04月12日 01時50分46秒 |  漢詩を長崎弁で
さっき久しぶりで漢詩を長崎弁で訳していたら、何となく疼いてきて、もっとやりたくなってきた。「公子行」(劉廷芝)の前半部分。ここまでが男のパートじゃもんね。


公子行
   劉廷芝(劉希夷)
天津橋下陽春水
天津橋上繁華子
馬聲廻合青雲外
人影搖動波裏
波蕩漾玉爲砂
青雲離披錦作霞
可憐楊柳傷心樹
可憐桃李斷腸花
此日遨遊邀美女
此時歌舞入娼家

                       
天津橋下 陽春の水
天津橋上 繁華の子
馬聲廻合す 青雲の外
人影搖動す 波の裏
波蕩漾(たうやう)として 玉を砂と爲し
青雲離披(りひ)として 錦を霞と作す
憐む可し 楊柳傷心の樹
憐む可し 桃李斷腸の花
此の日 遨遊して 美女を邀(むか)へ
此の時 歌舞して 娼家に入る

橋の下には春の水が流れ
橋の上には貴公子の姿
馬のいななきは天まで届き
緑の波に人の影が揺れる
緑の波はゆらゆら、川辺の砂は宝石のように輝いている
青雲は広がり霞は錦のよう
柳の新緑は春の思いを揺さぶる
春の花は心を動かす
たまらんばい。姉ちゃんを探して
姉ちゃんと歌い踊りに繰り出そう



昔は良かったね~
今じゃそんな元気はなかとばい~ (泣)

田家春望   高適 

2007年04月12日 00時56分53秒 |  漢詩を長崎弁で
さっき、Mixiで李白の詩を引用されたので、お返しに私の現状として、これを返しました。


田家春望           
    高適 


出門何所見
春色滿平蕪
可歎無知己
高陽一酒徒

田家の春望    
門を出でて何の見る所ぞ
春色平蕪に滿つ
歎ず可し知己無きを
高陽の一酒徒


門を出たら何が見ゆる?
あたり一面春の色
この辺じゃわしんことをしっちょるもんはだ~れもおらん
ただの高陽の酒飲みたい

ボクちゃん親切
高陽、、、ある軍師が高祖に会いに行ったと、そしたら取次ぎの人が儒者には会わんと言ったとよ。それで「わしは高陽の酒飲みたい」って言ったそうな。

国家というもの、、、安直に考えすぎるのでは?

2007年04月12日 00時11分48秒 | 日記

以前、政治学って言うのは権威を巡る力関係を分析する学問で、対象は団体や個人だって書いたことがありましたよね。
そのとき、国家というのは政治学的には単なる団体の一つであるとも書きました。
でも、本当は国家というのはある種特別な権力を持つ団体なのです。国家はその構成員である国民の生殺与奪の権利さえ持つのですから。
国家は領土と、国民そしてそれをコントロールする政府から成り立ちます。領土はどうにも仕様がない。増やそうと思えば干拓するか、戦争するしかないのですね。政府は国民がいればイヤでも生えてくる、、
では国民はというと、これが国によって何が国民なのかという考え方が違う。
アメリカみたいにアメリカで生まれれば、アメリカ国民だっていうところもあれば、日本みたいに両親が日本人なら、アメリカで生まれようが日本人だよっていう国もある。
国民がいて始めて国が存在するというのであれば、国籍法、戸籍法というのはちっぽけな法律だけど、国の根幹をなす法律であるのです。
科学や制度、社会通念の変化でいろんな事態が引き起こされている。それになかなかこの辺の法律が追いつかないのは、実はこの辺が国の存在に関わる基本的な部分だからなんです。
今回のケースのように代理出産も、自然分娩を基本とする考え方からすれば、これを認めるにはもっともっと時間がかかるでしょう。
あるいは他の国であるような、同性愛者の結婚を認めたけど、その子供は自然に二人の子供として認めるのかどうかなんて、今回のケースとは反対のケースで混迷している国もあるのですね。
今話題になっている100日規制もやはり、自然な誕生を主とする場合には、必然的に起こる規制でしょうし、全く話は違うけど、安楽死なども国民の一人一人に自分の生を断つ権利を国が与えられるかという問題が底にあるのですよね。

でも、科学や制度、社会通念はどんどんと変化していく。
それにどこかであわせなければならないのでしょうけど、
仕入れが上がったから、卸値を上げるというような簡便なものではないことをもう少し理解して行動すべきだったのかもしれませんね。



代理出産の向井亜紀さん夫妻が会見 日本国籍取得を断念(朝日新聞) - goo ニュース