母と一緒の生活をしてみて、改めて感じたことがある。
それは母の耳が聞こえなくなっているということ。
全体が聞こえないのではなく、高い音が聞こえないようだ。
家の中にはさまざまな電化製品がある、電話機やファックスなどもそうだけど、台所にも炊飯器やレンジ、ポット、そのほか洗濯機、掃除機そのたもろもろ、それにガスや煙の検知器などもある。
これらの多くが高い警告音とか確認の音をいろんなステップで出す。ご飯が炊けたとか、レンジの加熱が終わったとか、、、例のピッ、ピッですよね。
隣の部屋にいて仕事をしていて、その音が聞こえていってみると、その部屋にいる母には聞こえていないのに気がつく。
母がテレビを見ているときには普通の音量で聞いているし、話をするときにも特に声を上げる必要はない。だからこちらは母には耳の衰えがないのかと思っているから、それにちょっと吃驚したり、いらいらしたりする。
それより怖いのは、母が自分の聴覚の衰えに気がついていない。
普通に聞こえているから、一部の音が聞こえなくなっているのには気がつきにくいのはわかる。
以前、どこかのテレビで、自転車のベルの音が老人には聞き取りにくいということで老人が聞こえるような音を再現していたけど、ベルの音は本当に聞こえなかった。
だから頭では理解していたはずなのに、自分の目の前の母がそうだとはわからなかった。普通に話をしているのだし。
一部の家電メーカーではこのことに対応した製品を作っているようだけど、母の様子を見ていると家にある製品でこれに対処したものはないようだ。
車を運転していて、案内標識や、信号の(特に)矢印が見えにくい。これはすぐに自覚できるけど、視野角が狭まっている、見ているものが意味のある信号として脳に伝えられていない(赤信号や道の端を走る自転車を目には入れていても、そのまま走ってしまう)こんなことは実は自覚するのが非常に難しい。
あるいはこんな場面で衰えが顕著ですという話を聞いて頭に入れていても、それが必要な場面ではそんなことは頭の隅から消えている。それが高齢者の衰退。
呆けも全体できて、後戻りしないで進行するのであれば、対処はまだやりやすいかもしれないけど、全体的には問題ないように見えて、あるとき、ある部分が欠落したり、知覚が衰えたり、その分野も進行状況もまだらになって、あるときには正常になっていたりする。
京都の認知症の母親を殺したケースでも、母親が生きていけないのだから殺して頂戴って言ったというのを、認知症の人がそんなことを言えるわけがないという反論があった。でも認知症でもその部分は正常かもしれないし、あるいはそのときには正常に判断できたかもしれない。そこが問題なのですね。
高齢者の割合がどんどん増えていく、そうした社会でこれらの自覚されにくい知覚の衰え、運動機能の衰えに、社会がどう対応していくべきかもっと考えられてもいいのじゃないかと、母の後を追いながら考えている。
それは母の耳が聞こえなくなっているということ。
全体が聞こえないのではなく、高い音が聞こえないようだ。
家の中にはさまざまな電化製品がある、電話機やファックスなどもそうだけど、台所にも炊飯器やレンジ、ポット、そのほか洗濯機、掃除機そのたもろもろ、それにガスや煙の検知器などもある。
これらの多くが高い警告音とか確認の音をいろんなステップで出す。ご飯が炊けたとか、レンジの加熱が終わったとか、、、例のピッ、ピッですよね。
隣の部屋にいて仕事をしていて、その音が聞こえていってみると、その部屋にいる母には聞こえていないのに気がつく。
母がテレビを見ているときには普通の音量で聞いているし、話をするときにも特に声を上げる必要はない。だからこちらは母には耳の衰えがないのかと思っているから、それにちょっと吃驚したり、いらいらしたりする。
それより怖いのは、母が自分の聴覚の衰えに気がついていない。
普通に聞こえているから、一部の音が聞こえなくなっているのには気がつきにくいのはわかる。
以前、どこかのテレビで、自転車のベルの音が老人には聞き取りにくいということで老人が聞こえるような音を再現していたけど、ベルの音は本当に聞こえなかった。
だから頭では理解していたはずなのに、自分の目の前の母がそうだとはわからなかった。普通に話をしているのだし。
一部の家電メーカーではこのことに対応した製品を作っているようだけど、母の様子を見ていると家にある製品でこれに対処したものはないようだ。
車を運転していて、案内標識や、信号の(特に)矢印が見えにくい。これはすぐに自覚できるけど、視野角が狭まっている、見ているものが意味のある信号として脳に伝えられていない(赤信号や道の端を走る自転車を目には入れていても、そのまま走ってしまう)こんなことは実は自覚するのが非常に難しい。
あるいはこんな場面で衰えが顕著ですという話を聞いて頭に入れていても、それが必要な場面ではそんなことは頭の隅から消えている。それが高齢者の衰退。
呆けも全体できて、後戻りしないで進行するのであれば、対処はまだやりやすいかもしれないけど、全体的には問題ないように見えて、あるとき、ある部分が欠落したり、知覚が衰えたり、その分野も進行状況もまだらになって、あるときには正常になっていたりする。
京都の認知症の母親を殺したケースでも、母親が生きていけないのだから殺して頂戴って言ったというのを、認知症の人がそんなことを言えるわけがないという反論があった。でも認知症でもその部分は正常かもしれないし、あるいはそのときには正常に判断できたかもしれない。そこが問題なのですね。
高齢者の割合がどんどん増えていく、そうした社会でこれらの自覚されにくい知覚の衰え、運動機能の衰えに、社会がどう対応していくべきかもっと考えられてもいいのじゃないかと、母の後を追いながら考えている。