昨日は長崎の原爆の日だった。
そしてそれは父の命日でもある。
原爆投下の翌日、医大で教鞭をとっていた父の安否を知るために、身重だった母に手を引かれて爆心地へと入った。
私にはそのときの記憶はないけど、父と同定できるものは腕時計だけだったという。
祖母に手を引かれて実家に帰った母にも吾に返るまでの数日の間の記憶がまるでないということだった。
母がずっと後に再婚した相手も被爆者で、原爆による奇形を研究した医師だった。
でも、家の中では原爆の話は殆どでたことがない。
祖母や母、義父にはあまりにも生々しい惨劇の記憶であったろうし、私には恐怖の対象でしかなかった。
たくさんの人が投下後何十年経っても原爆症を発症し死んでいっている。
自分もいつかは原爆症を発症して、長く苦しみながら死んでいくのだろうと思っていた。
私が安楽死や自殺に対してポジティブなのも、そんな背景があるからだろう。死が避けられない。そして何年も苦しみながらそのときを迎える。それに対する処置もない。そんな患者を自分の行く末とダブらせている人間にとっては、無為に苦しみを永らえさせることはして欲しくない、そんなときにどう決着をつけるかは自分に決めさせて欲しい。それは切実な問題でもあった。
そして死が遠いものではなく、避けられないものなら、どう死ぬのか、その限られた間をどう生きるのかが私には一番大切な生き様であった。法律、社会のルール、それはどうでもよかった。それはあくまで他人の評価。自分自身が納得する自分の生きし方への評価ではない。
いつ発症するかわからない人生の中で、そのときに自分自身に対して後悔しない生き様をしていること、それが自分に課した最大の任務だった。
幸いなことに今まで原爆症は発症しなかった。
原爆の記憶はない。
でも、原爆症を恐れながら、死を身近なものとしながら生きてきた子供のころからの思いは決して薄れることはないだろう。
被災地の道路には夾竹桃があちこちに植えられている。
原爆の熱風で焼け焦げた木々の中で夾竹桃が一番早く再生し、花をつけたという。