8月16日に岬に来たときに隣りのうちで咲いていた紫陽花をコップに入れ、そのことを名残の紫陽花としてアップしましたね。8月20日にも夏の終わりというタイトルで同じ紫陽花を紹介しています。
今回満月が撮れればと思い、また岬に参りましたが、家を開けてまず迎えてくれたのがいつもの愛しの彼女(トップの人形)と今回のサプライズ、紫陽花でした。
花屋で買う紫陽花は水揚げが難しく、なかなか長持ちしませんが、この紫陽花はもう2週間もあの異常気象ともいえるような夏の暑さを耐えて待っていてくれたのですね。葉っぱもまだまだぱりっとしていて、元気そのもの。もしかしたらこのまま根を出して再生するのじゃないかと期待を抱かせるくらいです。
もちろん、その間ここには一度来ただけで、水も替えてやっていない、健気って褒めてあげたい。

名残って言葉は、死に行くもの、過ぎ行くものへのシンパシーがニュアンスとしてあるのだと思います。だからこその「名残の紫陽花」であり、「夏の終わり」だったわけなのですけど、、、
最近は何事も強く、たくましくなってきたのでしょうか。
私がいろんなものが儚く、脆く、そのなかで涙していた、昔の時代がむしろ懐かしいものとして思い返されるようにな歳になっただけのことなのでしょうか。

久しぶりのような雨、猛暑も終わり、これからはほんとうの秋の訪れとなるとの予報でした。それを聞くと、あのうだるような夏の暑さの中で謳歌し、五月蝿いとさえ感じていた蝉の声も、今はなんとなくいとおしいような感じに聞こえます。儚い命への共感なのでしょうね。
そしてそれはまた、一つの夏が終わったことへの感慨なのでしょうか?
それにしても、残された一里塚が短くなったことへの思いではなく、走りすぎてきた時間への懐かしみであるというところに私の限界を感じて妙にこだわっています。
今回満月が撮れればと思い、また岬に参りましたが、家を開けてまず迎えてくれたのがいつもの愛しの彼女(トップの人形)と今回のサプライズ、紫陽花でした。
花屋で買う紫陽花は水揚げが難しく、なかなか長持ちしませんが、この紫陽花はもう2週間もあの異常気象ともいえるような夏の暑さを耐えて待っていてくれたのですね。葉っぱもまだまだぱりっとしていて、元気そのもの。もしかしたらこのまま根を出して再生するのじゃないかと期待を抱かせるくらいです。
もちろん、その間ここには一度来ただけで、水も替えてやっていない、健気って褒めてあげたい。

名残って言葉は、死に行くもの、過ぎ行くものへのシンパシーがニュアンスとしてあるのだと思います。だからこその「名残の紫陽花」であり、「夏の終わり」だったわけなのですけど、、、
最近は何事も強く、たくましくなってきたのでしょうか。
私がいろんなものが儚く、脆く、そのなかで涙していた、昔の時代がむしろ懐かしいものとして思い返されるようにな歳になっただけのことなのでしょうか。

久しぶりのような雨、猛暑も終わり、これからはほんとうの秋の訪れとなるとの予報でした。それを聞くと、あのうだるような夏の暑さの中で謳歌し、五月蝿いとさえ感じていた蝉の声も、今はなんとなくいとおしいような感じに聞こえます。儚い命への共感なのでしょうね。
そしてそれはまた、一つの夏が終わったことへの感慨なのでしょうか?
それにしても、残された一里塚が短くなったことへの思いではなく、走りすぎてきた時間への懐かしみであるというところに私の限界を感じて妙にこだわっています。