夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

夕焼小焼の 赤とんぼ

2008年08月08日 23時24分07秒 |  気になる詩、言葉


夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小篭(こかご)に摘んだは まぼろしか

十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

    赤とんぼ
    三木 露風(作詞)
    山田 耕筰(作曲)


有名な童謡ですよね。ところがこの曲が知られるようになって来たのは、曲ができてずっと後、戦後のことだそうです。今井正監督の「ここに泉あり」という群馬交響楽団の映画のなかでこの歌が歌われ、それを期にこの曲がヒットしたということです。
映画の一部はなんとなくイメージにあるのです。楽器を負ぶって山の学校へ行っているシーンがあったと思います。
でも私はこの歌が出てきたシーンは覚えていませんでした。


私もそうでしたけど、たくさんの人が、「おわれてみた」を追われて見た、、と解釈してるのですけど、正確には姉やの背中に負ぶされて見たということだそうです。


一つ積んでは父のため

2008年08月08日 14時06分32秒 |  岬な日々


死ぬと三途の川のフェリーで船旅を楽しみ、港には天女さんたちがレイをもって、「天国よいとこ一度はおいで、、」なんてフラダンスで迎えてくれる。
なんて、イメージを持ってはいないでしょうね?
もしあなたがそんな風に考えられていたら、それはとんでもない誤解。
テレビの見すぎです。

死ぬと、あなたは7日ごとに7回の裁判を受け、49日後に6っつある進路(六道)のどれをとり、どこに所属するのを決めることになるのです。天道に行けるのはほんのわずかな確率でしかありません。大変なのですよ。

最初の試練は、死んでから三途の川まで行くこと。
あなたは800里もある死出の山を越えていかなければならないのです。

そしてその山越えが終わったところが、第一回目の裁判の場所。
ここはまあ、予備審問みたいなもの。パスポートコントロールと言ってもいいのかな?

それが終わるとやっと三途の川を渡ります。
ところでなんで三途の川っていうかご存知ですか。
この川の渡り方が三つあるんでそう呼ばれているんです。
善人は橋、軽い罪人は浅瀬、重罪人は濁流ってことで、あなたはせいぜい濁流と戦う力を残しておいてくださいね。

そしてこの川を渡ったところの河原が賽の河原。
やっと今日の日記に入りました。
えっ、その前にトラベルガイドが欲しい?
ミシュランで調べてみましたけど、出ていないようですね。
ググっても、トラベルガイドも、その裁判の問答集も出ていないようです。
きっと、全部がわかってしまっていると死ぬのも面白くないだろうからって出版社の親心だと思います。理解してあげてくださいね。
そして、そのときになったら、旅を楽しんでください。


賽の河原には親より先に死んだ子供たちがいて、父母のために石を積み上げています。
「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」
親より先に死ぬことは親に悲しみを与える重罪なのです。
でも石が積みあがりそうになると鬼が出てきて石を崩してしまいます。
その恐ろしさや、悲しみを慰めてくれるのが地蔵菩薩、つまりお地蔵さまなのですね。


先日の2回目の蓮の写真はいすみ市の飯縄寺(いずなでら)の境内で撮ったものですが、このお寺から湿生植物群落のある和泉海岸のほうへ行く途中にこのお地蔵さまがあります。
いつ行っても、野の花が咲いていて、それ以外にもちゃんと顕花されていたり、お供えがしてあったり、地元の親の子供を思う気持ちがそのなかに浮かび上がってくるようです。

野仏は信州が有名ですね。でも、千葉はお寺も多く、地蔵も多い。
信州のは地蔵だけが安置されているけど、千葉のはちゃんとお家つき、どこのお地蔵様も今もなお、地元の人の尊敬を集め、花や供物が供えられている。
でも祠の中のお地蔵さんは、写真が撮りづらいのです。
これは珍しく、地蔵だけが北風を防ぐように植えられた赤と白の夾竹桃の前に鎮座されています。


野の花をたむけてきました。
明日は長崎の原爆記念日。