夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

一里塚で一休み  「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み」

2008年08月23日 16時59分16秒 |  気になる詩、言葉
一里塚に来ました。
ここで、一休み。
来し方の有漏路の方を見てみても、あまりにも混沌としてさだかではありません。



向かう先の無漏路は? はてさて、どこにあるものやら。



有ろじより 無ろじへ帰る 一休み
     雨ふらば降れ 風ふかば吹け
            一休禅師


写真は先日使いましたいすみの「野生の」孔雀です。

胡蝶の夢、、、、 と、卑弥呼伝説(井沢元彦)

2008年08月23日 12時13分31秒 | 日記



昨日の「蝶」へ


栩栩然として、ちょうちょでも幸せ。
遽遽然として、兄者でも幸せ。
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ってコメントをつけてきた方がありました。
胡蝶の夢ですね。

いやですね~、こんな縄文時代の話を蒸し返されても、覚えていないってば。
昨日、ラーメン代を160円借りたのすら覚えてないんですからね。



でも、この話、二つの点でとても面白い。

一つは、この言葉を残した荘子が紀元前300年くらいの人。当時、日本はまだ縄文時代で、弥生時代とか古墳時代にも入っていない時期に、中国はもう春秋時代が終わり、戦国時代なのですね。
原始時代人ってイメージするときに、知能もその程度のものとして考えがちですけど、でも人間としてのキャパは持っていたんでしょうね。
ということはもし、日本の縄文人が生まれたときから中国に育てば、当時の中国人と同じレベルの考え方ができたのでしょうね。
なんて思うのは、ちょうど昨日、井沢元彦の卑弥呼伝説を読んでいて、当時(こちらでは卑弥呼の時代だからもっと後の時代ですね)とその当時の中国の文化レベルの差が何度も出てきたのですね。だからふとそんなことを思いました。

もう一つは、
やはり、「一里塚で一休み」に別な方が「自然体」ってことでコメントをいただきました。「胡蝶の夢」との妙な関連を面白く思いました。

ちなみに「胡蝶の夢」は
昔者、荘周、夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與、不知周也、俄然覚、則遽遽然周也、不知、周之夢為胡蝶與、周與胡蝶 則必有分矣、此之謂物化、

昔者(むかし) 荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たのし)みて心に適うか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則遽遽然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るのか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、即ち必ず分あらん。此れをこれ物化と謂う。

荘周さんが蝶になった夢を見て、それが自分にあっていたのか、自分が周であることさえ気がつかなかった。はっと目が覚めてみると、もちろん自分は周なんですね。でも、果たして、周の夢で自分が蝶になったのか、それとも蝶の夢で自分が周になったのか、周と蝶は絶対に二つのものであるはず、この移行を物化という、、、
            
               斉物論篇 第二・一三


何度も折があると書いていますけど、ブログのタイトルと副題。
「夢幻泡影」と「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」
この「折」がなんとなく、増えてきているような気がします。
この前の日記でも、たまたま「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 、、、」なんて書いていましたけど、あっちが近くなってきたってことでしょうかね?





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