夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

熊白橿が葉を髻華に挿せ   サイレントキー  

2008年11月10日 11時08分32秒 |  気になる詩、言葉

2006年の9月だったと思います。
いつもの多摩川の散歩から戻る途中に、道に沿っていろんな花を咲かせられているお家を見つけました。
綺麗だなと見てましたら、ゴーヤがなっています。
あれはゴーヤに違いないけど、この時期ゴーヤがなるものかなと不思議に思いながら見ていましたら、家の方が、それはゴーヤですよ。ちょっと珍しい種類で小さいけど、今の時期まで実をつけてくれるし、苦味が少ないんですって教えてくれました。

いろいろ話をしまして、ブログをなさっていることを知り、ブログのアドレスを交換して、家に帰ってみてみましたけど、ご夫婦そろって山登りが趣味で、いろんな山に登られている方。(ヨーロッパの)アルプスにも登られていたりしていました。
多摩川の散歩も私の大先輩。でも時間が朝の5時というようなすごく早い時間に散歩されるので今までお会いしたことはなかったのですね。

ご主人が体調を崩され入院、その後、ご当人の希望で自宅療養ということで自宅を改造して、病室を作られ、そこで余生を送られました。
そして9月の末に永眠。
奥様は49日の間、喪に服されていて、昨日やっとブログを再開されました。

こんなことを書くと不謹慎といわれるかもしれませんが、羨ましい一生の終わり方だったなと思います。
私たちの歳になってくれば、死はいつでも感じているもの、それほど怖いものでもなくなってきます。早い遅いはあっても誰にでも起こること。逃れられないことですから。

生きていること、健康な生活をおくれていることを、ある意味、不思議だ、奇跡だと思って子供のころから生きてきた私にとっては、特にそう思えるのです。
好きなことをして生きてきて、望む形で最愛の人に見送られて、自分のうちで死ねる。周りの人々は大変だったでしょうけど、死に行く人にとってはこんな幸福な幕の閉じ方はないと。

たまたま今テレビで放映している「風のガーデン」では不治の病に犯されながら、同じ病気を持つ患者を治療している医師の父親が、自宅でのターミナルケアを中心に扱う医師で、ドラマの中で同じようなことを言っていました。
この主人公がこの後どうするのかは分かりませんが、今、再放送をしている「白い影」では、同じく不治の病の医師が、不治の病の患者を看ている。この話では医師は自殺しますね。
医師が自殺というのは問題かもしれませんけど、自分がその立場にあれば理解できると感じます。自殺できる人は幸福なのかもしれないとさえ、、、

自分が望んだ形で末期を迎えられる。それは自分の最大のわがままなのでしょうけど、どれほど苦しいことであったとしても、それを許してくれる周りがいる。こんな幸福な、冥利に尽きるものはないですね。

母が言っておりました。身近な人が死ぬということは、ボディブローのようにじわじわとその実感が沸き起こってくる。時がたてば立つほど、それを感じさせられるって。
哀しいことや寂しいことがこれから起こってくるかもしれませんけど、最善を尽くして送ってあげたという気持ちを持たれて、これからに立ち向かわれるといいけど。






倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるはし
                     古事記


(隠れる=こもれる)


先日の「火中に立ちて問ひし君はも」にでてくる倭建が死の病を得て、故郷の国を思い出しながら詠ったとされる詩。「国偲び歌」(くにしのひうた)として知られていますね。
国偲び歌はこの後のもう一つの倭建の詩とセットになっています。

命の全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の
熊白橿(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

生き永らえた者は、平群の山の大きい樫の葉を髪に挿して飾れ。お前たち。 

樫の葉を髪に飾るというのは、大きな樫の生命力を身につけておきなさいということ。死の床で残された仲間の長命を願う詩です。

そして倭建は白鳥になって飛んでいきます。





ご冥福を
そして残された方々に心からのお悔やみを