夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

水仙  其のにほひ 桃より白し水仙花

2009年04月04日 22時26分37秒 |  気になる詩、言葉


其のにほひ 桃より白し水仙花
        松尾芭蕉  



以前、 加賀千代女の

水仙の香やこぼれても雪の上

をご紹介しましたよね。

水仙や、紫露草のように茎が長くって葉っぱもすっと伸びている花って好きなのですね。そのなかでも、水仙は一番きりっとした、凛とした姿で素晴らしいと思います。
原産(?)の中国(少なくとも平安時代ころに中国から渡来したって聞いていますので)でも水の仙人と呼ばれているのも、よく分かります。
早咲きのものは、寒い中で花をつけますので、よけいにそう感じるのかもしれません。上の加賀千代女の句も水仙と雪ですけど、芭蕉の句にも

初雪や 水仙の葉のたはむまで

というのもあります。寒中に凛として咲き誇る水仙に詩人たちの目が行くのはよく分かります。



ところで、今年になって多摩川の水仙をご紹介したことがあったと思います。多分3月になってからのことで、そんな前ではないのですけど、そのなかに水仙の匂いに無頓着だったって、恥をさらしていました。

水仙は好き、でも今まで実家は別として、水仙を庭に植えたことはありませんでした。どうもあれを活けるのが苦手。もちろん活花はやったことがありませんので、あの袴をはずして、また着けてあげるなんて、下世話なことなんぞまったく知らないのです。距離を置いて見ているだけなので、匂いを感じなかったのですね。
水仙の匂いは十分堪能しました。
自分の無知さへの反省で、今日の句を引っ張り出しました。

桃は実家に原種に近いような桃がありました。緑の桃で、肉ががじがじ、硬いのですけど、その匂いや味のまろやかさ、今でも忘れられません。
桃は花の時期だけでなく、木(葉?)全体が匂うような気がしていました。だって、桃の葉っぱをお風呂に入れると桃の匂いがしますよね。
さっぱりとした、すっきり感のある匂い、これも好きな匂いの一つでしたけど、それよりも白い匂いってはて何を言っているのでしょうか?

なんだか、無知を反省するっていいながら、さらに恥の上塗りをした日記になりました。





山吹 二つ目  かはづ鳴くかみなび河にかげ見えて  万葉集

2009年04月04日 21時16分54秒 |  気になる詩、言葉


またまた山吹の特売ですよ、、、
山吹って、好きなんです。
申し訳ないけど、お付き合いくださいね。


かはづ鳴くかみなび河にかげ見えて
       いまや咲くらん山吹の花
             厚見王
             万葉集 8-1435

同じ詩が新古今集(2-161)にも出ています。

今、いすみでは、蛙の合唱が響いています。
窓を開けるとちょっと肌寒いので、窓を閉め切っていますけど、それでも春のしっとりとした夜の香りと一緒に、一人居の私の机までしのんできます。
でも、一つ残念なことには、こちらの蛙は、この詩の川鹿蛙ではないのですね。
都から遠く離れた文化果てる山里では致し方ないのかもしれません。
なんちゃって、そんなことがあるわきゃないんですけどね~だ。

でも、こんな片田舎でも、そろそろ桜も満開。
農作業にも一段と拍車がかかる時期になりました。

「かみなび河」神様がおわします川。
そして山や野、木や花、、、全てに神様がいらっしゃる。
現代的な一神論の立場からすれば、原始宗教のなんたらかんたらが始まるのでしょうし、進歩していない人々の持つ宗教ということで片付けられてしまうのでしょうけど。
昔の人にとって、自然はもっと大きな意味を持つ、影響を持つ存在。それにたいしての、自然な尊敬の現われと考えれば、今でも十分に通じるものを持っているはずですよね。

私には、理論的で冷たい一神論の世界よりも、素朴で暖かいこの自然に対する尊敬の念を、尊いと思えてなりません。


  
ところで、嫌がられる蛇の足

新古今集から二つ

「やへながら色もかはらぬ山吹の
      などここのへにさかずなりにし」
           実方朝臣 (16-1478)
「ここのへにあらでやへさく山吹の
      いはぬ色をばしる人もなし」
           円融院御歌 (16-1479)

円融院は若くして退位し、禁中から去ってしまったのですね。
それで実方の朝臣が
八重だけど、色もまだ変わっていない山吹なのに
なぜ九重に咲かなくなってしまわれたのでしょうか(まだお若いのになぜ禁中からさられたのですか)って詩を贈って、

それに対して円融院は
九重ではなく、八重の山吹のいわない色(くちなし色=黄色=口をつぐんでいる)を誰も知らない(私のやめた理由を誰にも言っていないから、誰も知らないのです)って答えています。

この詩の問答を見ていると、科学技術や理論が進歩することが、人間の心、文化の進歩なのだろうかって疑問が沸き起こって仕方がありません。
もちろん、それが一部の世界であったことは認めるにしても、そして確かにこれは、理性的なもので作られた、セミプロの作品ですけど、それが毎日のメール代わりに機能していた時代もあったのですよね。

片田舎のいすみに来て、こちらでの自然、生活と、大都会で、売る文化、売る文化人のあふれている東京とを比べてみると、どちらが心に響いてくる、心に豊かさを与えてくれるのだろうと、芸術家とか、東京人の高慢な自尊心が可笑しいものに見えて仕方がありません。

古くはアルタミラの洞窟の壁画、あるいは私が展覧会をやろうとしてやれなかったアフリカから南アジアの宗教儀式に使われる品々、そして数多くのそのような祈りの品々。それらを前にすると、芸術作品と呼ばれる、芸術を作ろうとして作られた作品がいかに薄汚れて見えることか。


山吹はあやななさきそ、、、、 古今集

2009年04月04日 17時50分07秒 |  気になる詩、言葉


山吹はあやななさきそ花みんと
  うえけんきみがこよひこなくに
        よみ人しらず
        古今集 2-123

山吹の花は咲いたのに、(一緒に)楽しみましょううねって、この花を植えた人は今宵も来やしない。


宵待ち草の古今集版ですか。
寂しいですね~


まあ、必要ないと思いますけど、「あやな」は無駄に、とか無意味にとかという意味ですよね。

ちなみに
「見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめくらさむ」
                      在原業平 古今集 11-476
この詩の前に、業平は通りすがりの車の車窓からふっと見えたあなたの顔が忘れられなくって、、、、、、って書いています。
そしてこの詩は、「見えたか、見えないかも分からないような、あなたが恋しくって、訳もわからないままにこがれています」って恋の歌。

「知る知らぬ なにかあやなく わきて言はむ 思ひのみこそ しるべなりけれ」
                        よみ人知らず 古今集 11-477
知ろうが、知るまいが、そんなことを悩むのは無駄なこと。恋しいという思いがあるのならば、それがナビをしてくれるでしょう、、、、
ビンゴ! って、業平ちゃんは、相手に思いが伝わっちゃったんですね。

私だっていつも車を運転しながら、通りすがりの女性を見て、綺麗って騒いでいるんだけど、未だに成就したことがない。業平ちゃんはよほどイケメンだったんでしょうね、、、、(って噂は今の世まで残っていますけど)

というのは置いといて、業平の詩の「あやなく今日や」のあやなくは無意味に、無駄にの意味でしょう?
その返しの、「なにかあやなく」もそんなことは無駄なことって意味ですから、もうお分かりになりましたよね。

もしかして、現代でも使いませんでしょうか?
例えば、あなたが私に恋焦がれるのはあやなこと。私は木花咲耶姫にぞっこんで、他の女性は目に入らないの。ごめんね。。。。
なんて、、、、(一度でいいから、言って見たいな~)


ところで、本題に戻りまして、山吹の花。 
日陰で咲いているのは緑の葉に映って柔らかくたおやかな感じですけど、さんさんとふるに日光の下では力強く、輝いて見えますね。

実がないのかどうか、はて、山吹の実は私も見たことがないですけど。
でもきっとあるんでしょうね。

待ってれば、実を結ぶ?
そうあれかし、、、、
アーメン