夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

片手のピアニスト

2005年12月16日 08時49分43秒 | 芸術・文化
仕事をしていたときには、毎朝その日にやるべきことをリストしてプリントアウトすると項目だけを書き出しても10ページを超えていた。
そのうちからどうしてもやらなければならないことを絞り込み、こなしていくのだけど、本来は会って話すべき事も、電話やメールで済ませてしまう。
毎朝、仕事を減らさなければ、雑な仕事しかできないって反省するのだけど、その日のうちにまた面白そうな話や、いい作家の作品に触れたりすると、なんとかやって見ましょうってことになり、また項目が増えていく。
そんな日々を送ってきて、さて「毎日が日曜日」、たくさん自分の時間があり、会社に縛られず好きな仕事ができるだろうって思っていると、意外や意外、結構忙しい。
引越しなどがあった事もあるけど、定年後に企画していた仕事の多くを問題ができて止めてしまった割には、毎日朝から何かをしている。途中時間が空いたときに入れる掃除などの日常の些事がこなせないほど。
何にも書かれていない空白のスケジュール帳を見ながら、何でこんなに時間がないのか不思議で仕方がない。

仕事をしているときには、机の上の書類の山を見ながら、やりたい、やらなければって強い意志があれば、乗り越えられるって自分に言い聞かせてきたけど。その意思が希薄になってきて、さまざまなことが時間がかかるのだろうか。それとも今まで雑にこなしてきたことは、本当はこのようテンポでやるべきだったのだろうか、、、考えてもわからない。

普通の意味での全力を尽くすってことでは自分なりに精一杯やってきたと思っている。でも私の協力を必要としながら私が取り上げなかった作家や作品などは、その何十倍にもなるのだと何時も心に痛みを感じていた。

目がかすんできた画家、音が聞こえなくなってきた音楽家。でもこれらはまだ普通の努力だと思う。晩年、目が悪くなった画家はたくさんいる。難聴になった音楽家もたくさんいる。でも彼らはそれを努力で克服してきた。

でも身体が麻痺して動けなくなってから、あるいは手がなくなる、使えなくなるといった普通では考えられなくなるような状況でも復活してくる人々もいる。
世の中には超人的な努力をする人々もたくさんいるのだと思う。

例えば舘野泉。脳溢血で麻痺、やっと片手の演奏ができるまでに回復し、片手での演奏会を開いている。知っている人に演奏会のリハーサル中にピアノの蓋で手をつぶしたピアニストがいた、その人のその後を知っているので彼の努力にはとても感動する。
私の友人にも芸大を将来を嘱望されながらでて、やはり脳溢血で全身麻痺になり、10年以上のリハビリの結果、少しづつ声を取り戻し、身体の機能を取り戻し、そして演奏会をもてるようになったフルーティストもいる。
確かに現在の演奏にはハンディキャップがあるのかもしれない。
でも挫折の中で、身体的な障害を乗り越え、克服してきた彼らの努力、そして周りの人々の努力が彼らの音の中には現実に存在し、聴衆を魅了する。

私が舘野泉のピアノを最初に聴いて、凄いと思ったとき、私は彼が片手でしか弾けないピアニストであることを知らなかった。
障害を克服してきたことを知っていて感動したのではなく、彼の音楽へ対する純粋な傾倒、思い入れを感じたのだと思う。

演奏家にとっての音、美術作家にとっての色や形などは単なる作家のメッセージ、内面性を表現する道具だと言い切る作家もたくさんいる。もちろんどんなアーティストであっても技術が一番と言い切る人はいないし、当然なことだと思う。でもそれならそれらのアーティストに、自分の人生、自分の心、そして人を見る目、そういったものにどれだけ真摯に取り組んでいるのだろうって聞きたい。それがなくて、あるいはそれが幼稚なものでしかなくて、内面性を表してもどうにもならないのではってね。
内面性重視、それは結構。なら技術よりも、もっと自分を高める作業が必要。そうでなければ薄っぺらい貴方の内面なぞ見たくもないよって思うのだけど。

でも今の自分などは身体の障害などではなく、単に白い目で見られる社会に入りたくないというような些細な好き嫌いで仕事を放り出している。人に言うのは簡単なのですよね。

頑張らなきゃ。
頑張れる?
頑張れるかな~
???
普通の人間だものね。

郷愁

2005年12月15日 23時29分58秒 |  あなたの鼓動、華
私の育った家は高台にあり、家の中から遠くの山まで見渡せた。家の下は当時は畑が続いていて、その中に家が点在していた。

土地柄なのか、昔はどこでもそうだったのか、近所の子供が家の敷地で遊んでいても誰も文句を言う人はいなかった。家も平地の家は極めてオープン。道路と家の敷地の境界なんてどこにあるのか誰にも判らない。石垣で区切られていても、それが非常に高い石垣ではない場合は殆ど仕切りの生垣などもなく、ただ地面のレベルがそこなので、土盛りしているというような感じで、閉鎖的なものではなかった。
そんな家ではその家の人とであっても、おやつを振舞われるというようなこともない代わりに、どこで遊んでいても変な目で見られることもなかった。まるでその辺の猫が紛れ込んでいるというような感じだったろう。

ただ子供心にこの家は入っては駄目というような家があり、それは四方を生垣や、高い石垣で仕切られた家。なんとなくその家の結界の意図を感じて、出入り口がどんなに開放的に見えても、そのような家には足を踏み入れなかった。

今でも不思議なのは、裏山の木や花はあまりにも雑多すぎて覚え切れなかったけど、家の前に広がる遊び場になっている家の庭に植えられている木の名前や、木の実がいつなって、食べられるのかどうか、そして好きな花がいつ、どこに咲いているのか全部知っていたこと。祖母や母に教えてもらったわけではない。いったい誰がいつ教えてくれたのか、ほんとうに記憶にないのだ。

椎の木のことはこの前に書いた。山茶花の大木。家にはない薮椿の大きな木。枇杷の木、蜜柑の木、、、、

そして気に入った木や花は、挿し木をしたり、種を取ってきて植えたりしていたけど、そんなこともいったい誰が私に教えたのだろう。


今そんな環境が無性に懐かしい。郷愁を感じている。
でも今そこへ行けば普通の田舎の町が広がっているのを見るだけだろうし、私が当時と同じくらいの年の子供であっても、排他的な人の目を感じるだけだろう。

人生の終わりに

2005年12月14日 23時18分16秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
DATE: 12/14/2005 13:47:16

12月7日の「年回り」って記事の一部はお玉という人のブログに触発されたもの。
この人は介護の仕事をしていてその患者さんの危篤の報を聞いてこの記事を書かれていた。
http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/02c3c90ebe50e77da079082aa4e2f67b

私のその記事へのトラックバックが「年回り」だったのだけど、
そこには
>>自分の一生、自分の今置かれている環境に「よかった」って感謝しながら、
>>終わりを迎えられるということは人間にとって一番の幸せ。
この患者さんは素晴らしいめぐり合いを感謝しながら人生を終えられ本当に一生が意味のあるものになったのでしょうね。

お玉さんからの返事が今朝来ていた。
このような施設に勤める人の心の痛みが感じられるものだった。

私のそれに対する返事は
>>
死というものは誰にでも訪れるもの。
最後を迎えて相手が幸せなら、その相手の一生はそれで最高の人生ということでは?

死が遠いものということではなくなるとそんなことを無理なく自然に思えるようになりました。

最良の最後を飾るときをお手伝いされているお玉さんを素晴らしいと思います。
そしてその相手のために涙されているお玉さんを美しいと思います。

でも辛いですよね。
お察しします。
/>>
ってありふれたものだったけど、ちょっとそれ以上の言葉も見つからなかった。

重い話題などだけど、でも返事にも書いたように「死が遠いもの」でなくなってくると、死への感じ方が違ってくるみたい。
まさか、税金の納入日とまではいかなくても、なんとなく払いたくない約束の日って感じ。ただ問題はそのろうそくの火がいつ消えるのか自分には判らないということ。

ちょうど母親が現実の問題として、残りのお金と自分の死ぬまでの生活費を計算しようとして、「いつ死ぬのか判らないからね」ってこぼしているような。

その「予定日」が彼女と比べると多少遠いだろうとは思いながらも、自分も残りの人生の計算がつかないな~、金の切れ目がこの世との切れ目かなって思ったりして。
当人にはそれほど重い現実ではなくなる。
もっともそれは私が子供のときから「もうすぐ死ぬのかな」って思いで生きてきたからなのかもしれない。ずいぶんとおまけの人生をもらったから。

死んでから人から悪口を言われるのはなんとも思わない。だって私の生きてきた美意識なんてかなり極端なものだから。悪口には慣れっこになっている。
恨みを残して死んだら、化けてでてやればいい。
でも本当に愛している人々を困らせるようなことは残したくない。

身近な人の涙を誘うくらいなら、死という現実の重さで許してもらえるでしょう。
でもそれ以上に愛している人々にさまざまな問題を残すようなら、今は悲しくとも、苦しくとも、思い残すことなく死ねるようにと少しづつ身辺整理をしながら、あのコメントを書いていた。




ファンム・ファタール

2005年12月13日 14時01分47秒 | ファンム・ファタール

今日も東京に雪がちらついた。
雪国の雪ん子よりもほそぼそと。



彼女が家に来てからまもなく、ショップへ聞いた。
「ねぇ、このサイズのスタットレスってあるの?」
「お客さん、この車で雪の中を運転したら、死にますよ」ってありがたいお墨付きをいただいたな。
雨の日も乗らないでください。
カーブではスピードを十分に落として、、、、

じゃぁ、なに。直線だけで走れって言うの?



早い車が好き。
でもいかにもスポーツカーってゴキブリのような車は嫌い。
それが合理的な形であることはわかるけど、
どうもオーナーの「さあ、見てみろ」ってな臭さがして。

どこから見てもセールスマンが乗り回すような車であって欲しい。
普通の、ごく普通の。

ただ周りに人がいないようなときに、悪女に声をかける。
ちょっと行ってみようか。
そしてその真価を垣間見る。
互いに目を交わして、ニヤリ。
なんてね。

その彼女が全身目も当てられないような症状で、
ただひたすら眠りについている。

「イタリアの女なんか駄目だよ。なんて車を買うんだよ」
友人たちの蔑みの言葉と目線。
でも惚れちゃったら、どうしょうもないじゃん。

悪女はそんな魅力があるから悪女なんだ。

それにしても、エンジン載せ換え、ショックアブソーバ、オルタネータ交換、左右のドアのオルタネータ交換、、、、、
本妻号がもう一台買える。


持ち主と心中する気?

黒の光

2005年12月13日 13時43分00秒 | 私も作ってみました
12/13/2005 09:32:28

ふと通りすがりの山の神社で見た大きな黒い石
何かその石に惹かれるような思いで、
そこを通るたびにその石と対座する

石が何かをささやきかける
そして周りの景色が見えなくなり
気がつくと
黒い空間を漂っている

熱くもなく、寒くもなく

そこはまったくの黒い空間なのだけど、遮るものさえない空間のすべてが見渡せる

明かりはない、でも明かりはいらない
そこには私以外は何もない空間だから

手を伸ばしても、どこまでいってもかぎりがないことを知っている
でもどこまでいっても、ちゃんと自分を見守っている目がある

まったくの無音であるはずなのに、何か常に心に響いてくる
まったくの一人であるはずなのに、寂しさもない

嬉しがらせることもないが、心を乱すできごともない

母の胎内であれば、私は望まれた存在なのだろう
でもそこにはそんな懐かしさは感じない

立ち去り難い思いがするけど、
でも私の存在そのものが、そこには無縁のもの

疎まれもしない、でも歓迎もない

久米仙人のブログから


岬への郷愁
今思えば、それは何もない(つまり自分の気持ちをいらだたせ、駆り立てるもの、自分の心を動かすもの)空間に身を置き、自分の最後を飾りたいという気持ちだったのかもしれない
岬の「お気に入りの椅子」それはその空間の見立て


仲間内のブログで岬を売りたいと書いたら、心配した友人たちからたくさんメールをもらった。
心の余裕があれば、彼らの気持ちを有難いと思うだろう
でも今はそんな余裕がない
ただ煩わしいだけ


岬はもう安寧を与えてくれる空間ではなくなった
あまりにもしがらみと思い出が詰まりすぎた

こんどは人に会わなくてもいい山の中か、小さな南の島にしたい
しばらくは山や川とは無縁のものかもしれないけど、
そのうちに受け入れてもらえるだろう
そして山や川の一部になれるだろう


小さな嘘、

2005年12月12日 01時25分29秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
「献身」をちょうど書き終えたときに母からの荷物が届いた。
お茶、お菓子、御節の材料などこまごまとしたものがしっかりとテープされたダンボールに入っていた。

「何かいるものない? 欲しいものない?」電話をかけるときに何時も聞かれる言葉。
「別に、何もないよ。」って何時も答える。
でも母は私が、母に無理をさせたくないと思っていることを知っていて、
「町に出たときに余分に買った」とか、「人からの贈り物だけど私は使えないから」とかさまざまな理由、小さな嘘をついて、送ってくる。

「送料が無駄になるし、使えないから、もう買わないで」とは言うけど、でもあまり強く言うと母の楽しみを奪ってしまうことになる。

自分の食べるものを削っても、子供を喜ばせたい、子供にちゃんとしたものを食べさせたい。私も親だから、その気持ちは痛いほど判る。でも私は母に何をしてやれるのだろう。

だから母からの荷物。何時も嬉しく、そして悲しい。

生きること  東京タワー

2005年12月12日 01時00分34秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
「東京タワー」をやっと購入して、読み終えた。
考えてみるとこの間のおすすめ投稿は「アゲアンタム・ブルー」だった。

東京タワーは母親の死、アゲアンタム・ブルーは恋人の死に面した男の物語だった。

どうしても死という問題は私には大きいのかもしれない。

原爆症を発症して死ぬかもしれない。
それはかなり苦しい死になるかもしれないという恐れを持っていた子供時代には、生きること、どう生きてその死を迎えるのかということは大きな関心だった。
まるで葉隠の世界(武士道とは死ぬことと見つけたり)を小・中学校の子供が生きてきたのだ。
葉隠は戦争が遠く、死が普段の生活から離れてきた時代に武士にいかに生き、その結果としての死を受け入れるかの覚悟を教えている本。
(例えば宮本武蔵の「五輪の書」は死を目前のものとして生きる武芸者のために、いかに生を全うするかを書いた本。)

短いかもしれない自分の命、その間にどう満足した一生を送れるのか。
年端も行かない子供が直面し、考えなければいけない問題としては大きすぎた。

それがもしかしたら原爆症は起こらない、生きていけるかもしれないということになった。
ぎりぎりの自分の生き様をかけたはずの生が、ルーズなものに堕落してきた。

今はもうそろそろ死んでもおかしくないという時期に来た。
でも、それまで、特に生きていく目的もないし、興味もない。
ただ一日「お気に入りの椅子」に腰をかけて、外の世界を見ている。
あるのは母よりも先には死ねないという、たった一つの自分で決めた決まりだけ。

子供のときに死んでいれば、もっと意味のある死に方ができたのだろうか?



東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

扶桑社

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ミー

2005年12月11日 14時39分08秒 |   私の小さな恋人たち
DATE: 12/11/2005 19:49:51

ところで茨城の家にいたミー。
彼女は結局娘の猫で終わった。



膝に乗せれば、乗るし、膝の上で寝るけど。娘以外の家族とは、すべてちょっとした知り合い程度の距離を崩さなかった。

それが一番判るのは獲物をとってきたとき。
茨城に移った当初はミーは板橋生まれの都会の猫。家の周りの野原に行っても何も獲物は取れなかった。
でもしばらくすると環境に慣れたのか、だんだんと獲物を持ってくるようになる。

誇らしげに「ぐるぐる」って低音の喉声を響かせながら家人のいるところを避けて部屋の隅を走って帰ってくる。
家人に獲物を取られるのが心配、でも狩の成功は誇らしく皆に見せたい。そんな気持ちだったのだろう。

「ぐるぐる」この声を聞くと、家の家族は戦々恐々となる。

バッタやカマキリなどの素人さんの狩はすぐ卒業してしまった。
その後はネズミやスズメ、モグラや果ては小さな蛇まで、何でも手当たり次第に持ってきては、家族の前にディスプレイする。
「ぐるぐる、ぐるぐる」
悲鳴を上げるもの、逃げるもの(これは蛇を持ってきたときの私。可愛い、若い女性と蛇だけは私は苦手。)「ぐるぐる」は家の空襲警報になった。

で、獲物を取り上げようとすると、他の猫たちは黙って、取り上げさせるが、ミーはすごく怒る。
「ふぅ~。」って威嚇の声を上げ、獲物を口に挟み逃げようとする。
外に逃げてくれれば、問題ないのだけど、殆どのケースは蛇やネズミを持ったまま家の奥へと逃げようとする。
そうはさせまいとする人間との追跡合戦が毎日繰り広げられていた。



現代アートは判らない

2005年12月10日 00時53分57秒 | 芸術・文化
このようなテーマは今まで久米仙人のブログをメインに書いてきたけど、そちらのブログを削除したので、だんだんこちらに移行して来ることになります。できるだけ愚痴やエッチ系の入らないような書き方を心がけなければって思っていますけど。。。

よく創作系のアーティストから「創作をすることは、産みの苦しみを味わうこと」というような変なプライドを見せ付けられることがある。私は心が優しい人なので、そんな態度を見て、「ふん、」ってあざ笑うことはしないけど。

でもね、苦しいのは誰でも同じ。
普通に芸術って言われるときに、日本では職人芸から、創作活動まで幅広い範囲をさすことが多い。
もっと狭い範囲で考える人も、創作以外にも演奏家や、舞台芸術家など解釈を中心にする人も含めるケースが殆ど。

ところが現代アートの創作をやっている連中に比べて、演奏家などの訓練って言うのは半端ではない。
まず子供のときから訓練を始めないと殆どが使い物にならない。
少し大きくなってから始めたバイオリニストのビブラートは聞く人にはすぐにわかってしまう。バレエも体ができる前に始めないと残っていけない。

またある演奏家が海外のコンクールに参加するのを手伝ったことがあるけど、グランプリを得て、記者会見のときに、練習を一日何時間やっているって聞かれて、彼女は最低でも6時間やらないと今のレベルを保てないって答えていた。

もちろん、才能も必須の条件。

それと比べると現代の若い創作家たちの努力っていうのは、甘い連中が多すぎる。

そして彼らの自分を表現できる創作活動こそが偉大な芸術で、職人芸などは一歩低いものだという思い上がりも、鼻につく。

いい演奏家が他人の曲を弾く。それはその演奏家の心で掴んだ音楽を、演奏家の心で表現していること。キャンバスに自分の心でみた風景を描くこととそれほど違うものではないと私は思う。

若い演奏家が、技術的に高いものを持ち、評判になったとしても、彼らが熟年の演奏家に劣るものは、その生活心情、生き様、気持ちが聞いている人に伝わらない、伝わっても薄っぺらいものでしかない。
以前にもホロビッツのさよなら公演のことを書いたけど、ミスタッチはいくつもあった。でもそのミスタッチなんか問題にならないほどにその演奏が素晴らしかった。彼の生き様、気持ち、迫力が伝わってきた演奏だった。
演奏家は確かに創作はしない。弾く物も皆が知っている曲であったりする。でもだからこそ単に技術的な問題では済まされない、自分の生き様が、考えが伝わるのだということを知っている人が多い。
写真家も技術的には制約が多すぎる。でもだからこそそこへ自分をこめる事に必死になる。
制約が多い分野だから、必死なのかもしれない。

創作活動をしている人は、その制約が少ない。だから逆にその辺が安易なのかもしれない。
表面的な事柄に感激し、なぜそれに自分が感激しているのか、何を伝えたいのか、まったくわかりもしないで、ただ薄っぺらい上っ面の感激だけ、技術だけで何かを作っても、それは心のこもった作品とは言い難い。ただ綺麗だね、珍しいねって人を驚かせることはできても、人の心を打つことはできない。でもそんなことも判らない作家というのがあまりにも多すぎる。作家辞めたらって言いたくもなる。

現代アートって年寄りには判らない。





猛女

2005年12月10日 00時25分55秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
昨日「卒業」を書いてから、人に会いに銀座に出た。
結局昼から深夜までのアポになったけど、ほんとにしんどかった。

この人とその仲間たちのことは削除した久米仙人のブログに書いたことがあるけど、本当に人間とは思い難いグループ。
そのグループでは彼女が一番若く、それでも私よりも大分お姉さま。
グループの中核は彼女よりさらに10歳以上。
そしてトップはなんと100歳オーバー。

今回の上京の目的は、彼女の作品を見せることだったけど、前回会ったときは、F1の写真展を彼女が企画して展覧会をやっていた。58でレーシングライセンスをとり、今でもハンググライダーのインストラクターをやれる女性。でも藤間も杵屋も京都の花町でもお師匠さんで通る腕。植物に関しては、私が逆立ちしてもかなわない。
日本の伝統文化に関してはもう、比べることもできないだろうと思う。

上京して5日以上、昼間はお店で作品の額装、夜は朝の4時ころまで作品の選定などをしているという。そのエネルギーには周りの人々がやけどをさせれそう。
お店の担当者が嘆いていた。
「この人は周りの人のエネルギーを吸い込んで、自分のエネルギーにしている。だからこの人が来ると、死に死にになる。」

その彼女からスキーに誘われている。野沢には彼女の家があり、彼女の仲間の山野草の専門家の夫婦がいて、仲間たちがいる。グループの要の人の体調がよくなく、来年の恒例のヨーロッパスキーツアーは取りやめになったそうだけど、白寿の記念にモンブランを滑った人のグループって言えばお分かりになるかな。本当に人間とは思えない人たちの集まり。


彼女に昨日の「卒業」の骨子の話をしたけど、ただ一言「会社辞めたばかりだから、そういう風に感じるのよ。しばらくすればまた変わるわよ。」

この歳でグループの一番の若造。とにかく80近くになってもやれスキーやなんだってアフリカや南米など世界中を飛び回っている集団。

このグループではないけど、この猛女と同じ歳の、女優さんのことも書いたことがありますよね。毎年座頭として自分の舞台を作り、日本中を駆け巡っている人。
ほんと、世の中には恐ろしい人たちがいる。
いや気持ちのどこかでは、あの人たちは人じゃないんだろうって思ってるけど。

ただの人間の私には、とても就いていく自信はない。行けば命はないかも。