仕事をしていたときには、毎朝その日にやるべきことをリストしてプリントアウトすると項目だけを書き出しても10ページを超えていた。
そのうちからどうしてもやらなければならないことを絞り込み、こなしていくのだけど、本来は会って話すべき事も、電話やメールで済ませてしまう。
毎朝、仕事を減らさなければ、雑な仕事しかできないって反省するのだけど、その日のうちにまた面白そうな話や、いい作家の作品に触れたりすると、なんとかやって見ましょうってことになり、また項目が増えていく。
そんな日々を送ってきて、さて「毎日が日曜日」、たくさん自分の時間があり、会社に縛られず好きな仕事ができるだろうって思っていると、意外や意外、結構忙しい。
引越しなどがあった事もあるけど、定年後に企画していた仕事の多くを問題ができて止めてしまった割には、毎日朝から何かをしている。途中時間が空いたときに入れる掃除などの日常の些事がこなせないほど。
何にも書かれていない空白のスケジュール帳を見ながら、何でこんなに時間がないのか不思議で仕方がない。
仕事をしているときには、机の上の書類の山を見ながら、やりたい、やらなければって強い意志があれば、乗り越えられるって自分に言い聞かせてきたけど。その意思が希薄になってきて、さまざまなことが時間がかかるのだろうか。それとも今まで雑にこなしてきたことは、本当はこのようテンポでやるべきだったのだろうか、、、考えてもわからない。
普通の意味での全力を尽くすってことでは自分なりに精一杯やってきたと思っている。でも私の協力を必要としながら私が取り上げなかった作家や作品などは、その何十倍にもなるのだと何時も心に痛みを感じていた。
目がかすんできた画家、音が聞こえなくなってきた音楽家。でもこれらはまだ普通の努力だと思う。晩年、目が悪くなった画家はたくさんいる。難聴になった音楽家もたくさんいる。でも彼らはそれを努力で克服してきた。
でも身体が麻痺して動けなくなってから、あるいは手がなくなる、使えなくなるといった普通では考えられなくなるような状況でも復活してくる人々もいる。
世の中には超人的な努力をする人々もたくさんいるのだと思う。
例えば舘野泉。脳溢血で麻痺、やっと片手の演奏ができるまでに回復し、片手での演奏会を開いている。知っている人に演奏会のリハーサル中にピアノの蓋で手をつぶしたピアニストがいた、その人のその後を知っているので彼の努力にはとても感動する。
私の友人にも芸大を将来を嘱望されながらでて、やはり脳溢血で全身麻痺になり、10年以上のリハビリの結果、少しづつ声を取り戻し、身体の機能を取り戻し、そして演奏会をもてるようになったフルーティストもいる。
確かに現在の演奏にはハンディキャップがあるのかもしれない。
でも挫折の中で、身体的な障害を乗り越え、克服してきた彼らの努力、そして周りの人々の努力が彼らの音の中には現実に存在し、聴衆を魅了する。
私が舘野泉のピアノを最初に聴いて、凄いと思ったとき、私は彼が片手でしか弾けないピアニストであることを知らなかった。
障害を克服してきたことを知っていて感動したのではなく、彼の音楽へ対する純粋な傾倒、思い入れを感じたのだと思う。
演奏家にとっての音、美術作家にとっての色や形などは単なる作家のメッセージ、内面性を表現する道具だと言い切る作家もたくさんいる。もちろんどんなアーティストであっても技術が一番と言い切る人はいないし、当然なことだと思う。でもそれならそれらのアーティストに、自分の人生、自分の心、そして人を見る目、そういったものにどれだけ真摯に取り組んでいるのだろうって聞きたい。それがなくて、あるいはそれが幼稚なものでしかなくて、内面性を表してもどうにもならないのではってね。
内面性重視、それは結構。なら技術よりも、もっと自分を高める作業が必要。そうでなければ薄っぺらい貴方の内面なぞ見たくもないよって思うのだけど。
でも今の自分などは身体の障害などではなく、単に白い目で見られる社会に入りたくないというような些細な好き嫌いで仕事を放り出している。人に言うのは簡単なのですよね。
頑張らなきゃ。
頑張れる?
頑張れるかな~
???
普通の人間だものね。
そのうちからどうしてもやらなければならないことを絞り込み、こなしていくのだけど、本来は会って話すべき事も、電話やメールで済ませてしまう。
毎朝、仕事を減らさなければ、雑な仕事しかできないって反省するのだけど、その日のうちにまた面白そうな話や、いい作家の作品に触れたりすると、なんとかやって見ましょうってことになり、また項目が増えていく。
そんな日々を送ってきて、さて「毎日が日曜日」、たくさん自分の時間があり、会社に縛られず好きな仕事ができるだろうって思っていると、意外や意外、結構忙しい。
引越しなどがあった事もあるけど、定年後に企画していた仕事の多くを問題ができて止めてしまった割には、毎日朝から何かをしている。途中時間が空いたときに入れる掃除などの日常の些事がこなせないほど。
何にも書かれていない空白のスケジュール帳を見ながら、何でこんなに時間がないのか不思議で仕方がない。
仕事をしているときには、机の上の書類の山を見ながら、やりたい、やらなければって強い意志があれば、乗り越えられるって自分に言い聞かせてきたけど。その意思が希薄になってきて、さまざまなことが時間がかかるのだろうか。それとも今まで雑にこなしてきたことは、本当はこのようテンポでやるべきだったのだろうか、、、考えてもわからない。
普通の意味での全力を尽くすってことでは自分なりに精一杯やってきたと思っている。でも私の協力を必要としながら私が取り上げなかった作家や作品などは、その何十倍にもなるのだと何時も心に痛みを感じていた。
目がかすんできた画家、音が聞こえなくなってきた音楽家。でもこれらはまだ普通の努力だと思う。晩年、目が悪くなった画家はたくさんいる。難聴になった音楽家もたくさんいる。でも彼らはそれを努力で克服してきた。
でも身体が麻痺して動けなくなってから、あるいは手がなくなる、使えなくなるといった普通では考えられなくなるような状況でも復活してくる人々もいる。
世の中には超人的な努力をする人々もたくさんいるのだと思う。
例えば舘野泉。脳溢血で麻痺、やっと片手の演奏ができるまでに回復し、片手での演奏会を開いている。知っている人に演奏会のリハーサル中にピアノの蓋で手をつぶしたピアニストがいた、その人のその後を知っているので彼の努力にはとても感動する。
私の友人にも芸大を将来を嘱望されながらでて、やはり脳溢血で全身麻痺になり、10年以上のリハビリの結果、少しづつ声を取り戻し、身体の機能を取り戻し、そして演奏会をもてるようになったフルーティストもいる。
確かに現在の演奏にはハンディキャップがあるのかもしれない。
でも挫折の中で、身体的な障害を乗り越え、克服してきた彼らの努力、そして周りの人々の努力が彼らの音の中には現実に存在し、聴衆を魅了する。
私が舘野泉のピアノを最初に聴いて、凄いと思ったとき、私は彼が片手でしか弾けないピアニストであることを知らなかった。
障害を克服してきたことを知っていて感動したのではなく、彼の音楽へ対する純粋な傾倒、思い入れを感じたのだと思う。
演奏家にとっての音、美術作家にとっての色や形などは単なる作家のメッセージ、内面性を表現する道具だと言い切る作家もたくさんいる。もちろんどんなアーティストであっても技術が一番と言い切る人はいないし、当然なことだと思う。でもそれならそれらのアーティストに、自分の人生、自分の心、そして人を見る目、そういったものにどれだけ真摯に取り組んでいるのだろうって聞きたい。それがなくて、あるいはそれが幼稚なものでしかなくて、内面性を表してもどうにもならないのではってね。
内面性重視、それは結構。なら技術よりも、もっと自分を高める作業が必要。そうでなければ薄っぺらい貴方の内面なぞ見たくもないよって思うのだけど。
でも今の自分などは身体の障害などではなく、単に白い目で見られる社会に入りたくないというような些細な好き嫌いで仕事を放り出している。人に言うのは簡単なのですよね。
頑張らなきゃ。
頑張れる?
頑張れるかな~
???
普通の人間だものね。