4月3日に「佐倉を訪ねる」と題して書いて、そのままになっている。続きを書こうと思っていたが、前述したように母の死で一週間の空白が出来てそのままになっていたのだ。。
佐倉とオランダとのかかわり、佐倉の文化的遺産の根源は何か?
前回の投稿で、リーフデと呼ばれる風車のことや、川村美術館(写真)がオランダのクローラー・ミューラー美術館を模していることを書いたが、その遠因は、幕末の藩主堀田正睦(まさよし、1810~1864)の先駆的藩政にある。堀田は「蘭癖」と揶揄されながらも蘭学を取り入れ西洋医学に力を入れたという。堀田に招かれた蘭方医佐藤泰然が開いた蘭医学塾兼診療所が「順天堂」で、現在の順天堂病院となった。
このようなことは今度初めて知った。それにつけても、時の為政者の質がその地の将来を決めることを思い知らされる。こうして生み出された進取の気象は、その後も多くの人材を生んでいく。
岩倉使節団の一員としてアメリカにわたった林菫(ただす)は、日米同盟の調印、日英同盟の締結に力を尽くし、外務大臣や逓信大臣を歴任した。津田梅子は日本人初の女子留学生として渡米し、現在の津田塾大学を創設した。この地の生んだ文化人は、他にもたくさんいる。
佐倉はこのような人材を生んできたのだ。まさにインターナショナルな気風を備えた地で、その根源にオランダとのかかわりがあったことが理解できた。
そういえば、印旛沼の桜並木と風車リーフデは実に自然に融合していたし、あかぬけた雰囲気の川村美術館は、オランダに居るような思いを与えてくれた。全ては無理なく溶け合っており、これが歴史というものであろう。
藩にせよ国にせよ、為政者の質がその将来に及ぼす影響は大きい。それを思うにつけ、日本の現今政治家の低劣さが情けなくなるのであるが…。