私は先月23日で80歳になった。あちこちで傘寿のお祝いをしていただき、立派な記念品をいただいて恐縮したりしている。ふり返ればいたずらに齢を重ねたにすぎないが、80年というのはそれなりに長く、逆に言えば、その先の短さを示しているのかもしれない。
気がついてみれば孫がいない。同僚どころか後輩の中でも、「孫が生意気にも医者になりました」というのもいるし、「孫の高校(中学)の入学祝いで…」などという話は日常茶飯事だ。私の子供は3人いるが、独身を貫くものから、結婚しても長く子供の生まれる気配もなく、私も、「それぞれの生き方に委ねる」としてきたので、今日まで特に気にはしてこなかった。
ところが、80歳を迎えた途端、それを待っていたかのように、その20日後に次男のところに子供が生まれた。早速拝見に及ぶと、立派な男児の誕生である。その小さい生命を見て、これまであまり考えなかったが、「俺の命は、この後の世代も生き続けていくのだろう」という不思議な充足感につつまれた。
この充足感には別の意味合いも含まれている。実は、次男はO家の婿養子に入った。従ってこの初孫は私にとっては世にいう外孫であり、わが家系を継ぐことはない。しかし別の大きな期待があるのだ。
O家は、江戸末期から明治に至る時期以降、4代にわたって女系の家系が続いている。すべて婿養子をとって家系を支えてきた。私の次男はその4代目というわけだ。そこに今回、4代、150年を経て男児が生まれた。
私は、天皇家を巡る議論のような男児一系思想など持っていない。事実O家は、150年、4代にわたりたくましく女性が支えてきているのだる。明治、大正、昭和、平成と続いた近代日本史を生き続けた女系家系に、150年ぶりに誕生した男児がいかなる彩を添えるのか…、それを楽しみにしているのである。
今の政治の流れを見ていると、孫たちが大人になるころには、徴兵令の時代がくる可能性もあるなと思い、彼らが大人になって自分で
判断・選択できるようになるまでは、解釈改憲・憲法改訂(改悪)には反対して現憲法を維持する立場で生きることが必要だと思いながら生活中。