そもそも、この旅の発端は和辻哲郎の『古寺巡礼』にあった。K先輩は、和辻が同署の中に書いている「宗教心で寺を回るのではない。仏像を中心とした美術、文化を求めて行くのだ」という言葉に共鳴する。K先輩は「私は無神論者だ」と言い切る。百済観音像の前に2時間立ち尽くすのは、宗教心からではなく美と求めてのことだ、と言う。私は、自分を仏教徒だと思っている。寺に行けば賽銭もあげればお祈りもする。しかし熱烈な信仰心は、申し訳ないが持っていない。神頼みはするが神の存在は信じていない。先輩と何がどう違うのだろうか?
それはさておき和辻であるが、私は和辻の『イタリア古寺巡礼』を思い出し、その「シチリアの春」という項にギリシャ神殿について書いていることを話した。アグリジェントのコンコルディア神殿につき、概略次のようなことが書かれてある。
「ギリシャ建築を見てまず第一に受けた印象は、その粛然とした感じである。…それは単純さに起因するが、単に簡単だということではなく、豊かな内容を持ちながらそれに強い統一を与え、その結果結晶してくる単純さである。この粛然とした感じを味わって、それに比べることのできるのは唐招提寺の建築だと思う」
この話をする中で、訪問する寺に唐招提寺が加えられた。当初の予定から薬師寺を外し唐招提寺としたのである。確かに唐招提寺の静謐感は、和辻が「比類なき静寂感」と感じたギリシャ神殿のそれに匹敵するものがあるのであろう。和辻はもう一つ重要なことを言っている。それは両者の同一性(静寂感)と同時に、その差異についてである。概略以下の通り。
「静寂という点で同一性を持つが相違点もある。ギリシャ神殿の屋根は直線、日本の仏寺のそれは曲線…、木材と石材という材料の相違も重要。木材は本来生き物であるので、生き生きした感じを出すのにさほど努力を要しない。石は、材料としてそもそも死んだ感じであるので、それに生命を吹き込まなければならない。ギリシャ建築では、石材を完全に征服して生き物にしている。柱の円み、そこにつけた竪溝(たてみぞ)、軒周りの三条の竪線などで、不思議に石を生き生きしたものにしている」(同署岩波文庫144頁より抜粋)
私は、2005年になるがシチリア訪れ、その時見たセジェスタの神殿の「恐ろしいほどの静寂感」を想起した。セジェスタの神殿は未完成とも言われ、円柱に未だ竪溝は施されていなかった。
セジェスタの神殿。人里離れた丘に忽然と立っていた
唐招提寺の正面の円柱
最後に下世話な話を一つ。
夕食は再び京都に帰り、有名な『わらじや』で雑炊を食べようとコースを予約しておいた。ところが、寺まわりに熱が入ったのと日曜日で車も混み時間が無くなった。新幹線の時間で尻が切られているのでどうにもならない。本来は「う鍋(ウナギ鍋)」、「う雑炊(ウナギ雑炊)」とゆっくり食べていくのだが、全ての料理を一緒に並べさせ、左手で酒をあおり右手で料理をかきこむが、それでも「う雑炊」の半分は食べ残した。有名店だけあってお値段も立派で一人8千円(酒込み)、「8千円雑炊の立ち食い」という有様であったが、まあ、それだけ寺まわりに時間を費やしたのだから、ご利益は大きかったと思うべきであろう。
う鍋
う雑炊
それにしても、京都の寺の紅葉のすばらしさ、奈良の寺の静謐感、いい旅でした。レンタカーによる効率的な旅、本当にありがとうございました。