旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

オランダに授かった慈愛

2007-04-13 17:52:30 | 

 

 日本とオランダの関係は古くかつ中身が濃い。徳川300年の鎖国の間も、オランダとは様々なつながりを持ち多くのものを学んでで来た。その最初の接触はオランダの一帆船が日本に漂着したことに始まる。慶長五(1600)年4月のことである。
 その帆船の名は「デ・リーフデ(慈愛)号」、2年間に及ぶ漂流の末、わが故郷である大分県臼杵市――当時の豊後の国臼杵藩の佐志生というに漂着した。オランダのロッテルダム港を出発したときは110名の乗組員がいたというが、漂着時の生存者は24名、うち歩けるものは6名に過ぎなかったという。
 当時の臼杵城主は大友宗麟の二代あと、青年武将太田一吉であった。太田は漂着者を帆船ともども丁重に扱い徳川家康に報告、家康も生存者を取り立てて活用した。その中の二人が貿易顧問として活躍、日本が海外に目を開く上で大きな役割を果たした。
 一人がイギリス人航海士ウィリアム・アダムスで後の三浦按針、他がオランダ人パオロットのヤン・ヨーステンで、日本名を耶揚子(ヤ・ヨース)と名乗り和田蔵門外の堀端に住んだ。その地は彼の名に因んで八重洲と呼ばれるようになり現在に至っている。
 16世紀、海洋国として発展したオランダは世界の富を求め、はからずもその一帆船が日本に漂着した。その帆船「慈愛号」は二人の人材を日本に送り込み、その名の通り、富の蓄積とは別のもの――「大きな慈愛」を日本に残した。その発端が故郷臼杵であったことに、私はささやかの誇りを抱いている。

  1999年4月、400年前の感慨を胸に私はオランダを旅した。そして、絵画を中心とした豊富な芸術とともに、長く培われた自立性、寛容性、多様性に裏打ちされた「分厚い文化」に触れて、21世紀を生きる糧を得たのであった。 (以上、『旅のプラズマ』第二話「オランダに授かった慈愛」の要約)
                            


『チューリップを見ながらビールを飲もう』(オランダ・ベルギー紀行)

2007-04-12 21:53:03 | 

 

 『旅のプラズマ』が増刷になったことでもあり、話を旅に戻そう。

 
4月の旅で思い起こすのは「オランダ・ベルギーの旅」である。1999年4月下旬、三井銀行のOB仲間とこの旅に出かけた。近畿ツーリストのツアーであったが、われら11人に一組のご夫婦を加えた13人の小じんまりしたツアーで、実に雰囲気のよい旅であった。
 オランダはチューリップが真っ盛り、加えてゴッホやフェルメールを楽しみ、ベルギーでは古都の趣を味わいながら20種類近い多彩なビールを飲んだ。
 私はこの旅の記録を『チューリップを見ながらビールを飲もう――オランダ・ベルギー紀行』という紀行文にまとめた。この旅には、漫画はプロ級のK先輩が参加しており、随所ににたくさんの挿絵を入れてくれたことから、この紀行文は仲間内では好評であった。
 紀行文はワープロA4版で50枚、資料やビールのラベル頁を加えると60枚を超える分厚いものになったが、『旅のプラズマ』には、「オランダに授かった自愛」と「忘れ得ぬ店 ヘルベルグ・ブリッシング」の2篇しか収録しなかった。前者は400百年前日本に始めて漂着したオランダ船「デ・リーフデ(慈愛)号」への思いを、後者は、ベルギーのブルージュに500年の歴史を誇るビアカフェ「ヘルベルグ・ブリッシング」の言いようのない落ち着いた雰囲気を書いたものだ。しかしこの旅は、実に分厚い内容を持っていたので、まだまだ載せたいものがたくさんあった。

 春、花の季節を迎えて、ベルギービールでも飲みながらチューリップ(オランダ)を想起し、思い出のいくつかを次回からたどることにする。
                             


新入社員を迎える

2007-04-10 21:35:05 | 時局雑感

 

 今年の桜は異常気象に惑わされ、咲くことを逡巡してきたようであるが、それだけに一気に咲いて一気に散った感がある。しかし何はともあれ、この季節は新年度の始まりであり、新入社員を迎える時節である。
 わが社も人並みに2名の社員を迎えた。新入社員といっても、一人は、第二の人生をわが社に求めた奇特な人N氏であり、もう一人は子会社から出向してきたU君である。いずれも旧友が来た感がある。
 昨夜、この二人の歓迎会をやった。実によい会であった。全員が二人に歓迎の言葉を述べ、二人はそれに答えた。
 N氏は、俳句を趣味とすることから、会が始まるときに、季題「さくら」で俳句を作るよう全員に求め、答辞の中でそれを披露した。何人が句を詠んだか知らないが、私も生真面目に一句を投じた。しれは

  友来たり 夢咲きにおう桜かな    和弘

 
という句であった。しかし選者のN氏は、「・・・美しく小ぎれいにまとまってはいるが、特に心を打つものはない」とあっさり選外とした。
 私は、一番痛いところを突かれた気がした。このような新入社員は最早新人でないことはもちろんであるが、何とも頼もしく思えて心の安らぐ思いをしたのであった。
                             


「酒は風」回想

2007-04-07 18:41:27 | 

 

 南青山2丁目に「無事庵ほ乃可」という和食とお酒の店がある。小さいお店だが小ぎれいで雰囲気のいい店だ。飲み友達のN氏が、近くにオフィスを持っていることから、ときどき顔を出してゆっくりとしたひと時を過ごしている。
 先日N氏から「ほ乃可のママさんから『酒は風』の書ができたからいらっしゃいという電話があった。久しぶりに一杯やろう」という誘いがあった。思い起こせば大分前に、『酒は風』(英伸三夫妻との共著、大月書店)の話をしたことがあった。京都の版画家井堂雅夫氏が、岩手の酒蔵と酒は風という酒を作り、その画を描いて拙著の出版を祝ってくれた話であった。
 思えば『酒は風』を出して十数年が経つ。6刷までいって昨年絶版になった私の最初の出版物だ。 その話を聞いてくれた「ほ乃可」のママさんが、書家であるお母様に頼んで、酒は風と書いて頂いたというのだ。なんともうれしい話だ。
 早速「ほ乃可」を訪ねてみると、既に掛け軸となって店に飾ってあり、わたし用に色紙が用意されていた。 それは、柔らかい筆遣いの実に斬新な「酒は風」であった。私はまだお母様にお会いしてないが、相当なお年のはずである。しかしお年寄りの書とは思えない斬新な「風」に、私はこのような方々が常に若い精神を持ち続けているのだとつくづく思った。
 実にすがすがしい気分で私はかなりの量を飲んだ。
 頂いた色紙はわが書斎に架けられ、十数年に及ぶ『酒は風』の歴史を回想させてくれている。

                                          

 


乾杯酒に日本酒が使われるのはいつか

2007-04-06 18:49:09 | 

 

 ㈱太鼓センターのレセプションで、乾杯の酒に日本酒(しかも本来の日本酒「純米酒」!)が使われた喜びを書いた。日本で行われる会合で、その初めの乾杯で日本酒が使われるのは、至極当然と思われるが、それは極めて珍しいことで、その機会を得たことは特筆すべき喜びである、というところに異常さがあると思われる。
 日本で行われる殆どの会合の乾杯酒はビールかウィスキーの水割りである。どこの国も乾杯酒によその国の酒を使うのだろうか? 随分前のことであるが、日中国交回復を進めるために訪中した当時の田中角栄首相が、北京の大会場で周恩来首相と腕を絡ませて「カンペイ!」とやった酒は茅台酒と聞いた。当然のことながら使われた酒は、中国の誇り高き名酒であった。
 フランス人など、フランスでやる会合にワイン(ないしはブランデー)以外の酒を使うことなど想像もできない。昔は日本でも、各村々で行われる集まりでは(お祭りであろうが、結婚式であろうが何々の会であろうが)、一升瓶を真ん中に据えて日本酒で乾杯していた。
 いつの日から日本人は国酒を使う習慣を捨てたのだろうか? そして、再び日本酒で乾杯する誇りを取り戻すのはいつの日のことであろうか?
                              


日本酒で乾杯した㈱太鼓センターのパーティ

2007-04-04 14:52:32 | 

 

 ㈱太鼓センターという和太鼓の芸能会社がある。このたび東京青山に「TAIKO LAB青山」をオープン、昨夜その開所レセプションに参加した。
 床のフローリングは木曽檜、大きな墨絵屏風などが架けられたいくつもの広い部屋に、開所にあたって新調したという数十個の和太鼓が並んでいた。床に使用した木曽檜は木曽の山奥からヘリコプターで運び出されたと言う。まさに日本伝来の雰囲気の中から、伝統芸能を世界に発信しようとしている。
 そして何よりも私が嬉しかったのが、パーティ最初の乾杯酒が日本清酒であったことだ。酒は福井の「花垣」純米無濾過生原酒、しかも「30日間、太鼓の音を聞かせながら熟成させた酒だ」と、㈱太鼓センターひがしむねのり社長が誇リ高く披露した。
 私はかねがね、いろんなところで行われるパーティの乾杯酒がビールやウィスキーの水割りであることに不審と不快感を抱いてきた。日本でやるパーティに何故日本酒が使われずよその国の酒が使われるのか? これはよく考えれば実に不思議なことである。ビールは世界中で一番多く飲まれている酒であるのでまだしも(それにアルコール度数からも万人向き)、ウィスキーの水割りなどは、美味しくも何とも無いし、何よりも出ている料理(日本料理が主)に合わない。私はウィスキーを悪い酒と言っているのではない。食後に音楽でも聞きながら、チョコレートなどをつまみ飲む酒はウィスキーに勝るものは無い。もちろん、水割りなどではなくストレートであるが…。
 しかし、日本で開催する、日本料理が主であるパーティでは、せめて乾杯は国酒たる日本酒であろう。
 さすが日本の伝統芸能「和太鼓」の会社だけあり、新設事業所のオープンを日本酒で幕開けをした。実に清々しいパーティであった。
 東社長ありがとう。太鼓センターよ世界にはばたけ!
                            


ニセモノ日本酒の退場--ひとつの戦後史の清算

2007-04-02 18:08:34 | 

 

 昨日の毎日新聞の囲み記事に、「安価アルコール添加 三増酒 『清酒』ダメ」という記事が載った。戦後の米不足の中でアルコールを添加し、薄辛くなった分を水飴を入れ、調味料で味をつけて三倍にも増量したいわゆる『アル添三増酒』……、このニセモノ日本酒がついに清酒市場から追放されることになった。
 実は、昨年五月の酒税法改正で決定されたもので、一年半の猶予期間を経て今年の10月から、清酒として売ることは出来なくなる。終戦直後の米不足の時期ならともかく、米余りのときを迎えても、国は税金政策からか、このニセモノ酒を認めつづけた。アルコールなどの大量添加は、醸造酒としての規定からも外れ、甘ったるくて悪酔いのもとと言われ続けたにもかかわらずである。
 日本酒は、その発祥のときから米と米麹と水で造られてきた。そしてそれが、日本人の食材にもぴったり合うのだ。それこそ国酒と呼ばれるにふさわしい。にもかかわらずこのニセ日本酒が、大手を振って長く酒の社会を支配してきた。しかしさすがに近年は、日本酒離れ(ニセ酒ばなれ)が進み、出荷量はピーク時の半分を下回り、国もその対応を迫られたと言えよう。
 私は2000年に純米酒普及推進委員会の発足に参画、同士五人の委員と及ばずながら「本来の日本酒、純米酒」の普及に努めてきたつもりである。このたびの酒税法改正や前述の新聞記事を、何十年来の思いを込めて喜んだのである。
 しかし、アルコール添加がすべて禁止されたわけではない。まだ「米から出来るアルコールの範囲内の量の添加」は認められている。日本酒を醸造酒と規定するなら、これさえ決して許さるべきではない。いかしまあ、一歩一歩前進するしかあるまい。それにしてもこの戦後の遺物を清算するのに60年近くを要したことを考えれば、ある種の感慨を覚えざるをえない。
 ところで、同じく戦後日本人が手にしたものに世界に冠たる平和憲法がある。私はこれは永久に手放したくないが、「60年も経ったのでそろそろ…」と不穏な動きがある。世の中は難しい。何が良
くて何が悪いか…人は絶えず「ほんものを判別する叡智」を求められているのである。
                            


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