日本とオランダの関係は古くかつ中身が濃い。徳川300年の鎖国の間も、オランダとは様々なつながりを持ち多くのものを学んでで来た。その最初の接触はオランダの一帆船が日本に漂着したことに始まる。慶長五(1600)年4月のことである。
その帆船の名は「デ・リーフデ(慈愛)号」、2年間に及ぶ漂流の末、わが故郷である大分県臼杵市――当時の豊後の国臼杵藩の佐志生というに漂着した。オランダのロッテルダム港を出発したときは110名の乗組員がいたというが、漂着時の生存者は24名、うち歩けるものは6名に過ぎなかったという。
当時の臼杵城主は大友宗麟の二代あと、青年武将太田一吉であった。太田は漂着者を帆船ともども丁重に扱い徳川家康に報告、家康も生存者を取り立てて活用した。その中の二人が貿易顧問として活躍、日本が海外に目を開く上で大きな役割を果たした。
一人がイギリス人航海士ウィリアム・アダムスで後の三浦按針、他がオランダ人パオロットのヤン・ヨーステンで、日本名を耶揚子(ヤ・ヨース)と名乗り和田蔵門外の堀端に住んだ。その地は彼の名に因んで八重洲と呼ばれるようになり現在に至っている。
16世紀、海洋国として発展したオランダは世界の富を求め、はからずもその一帆船が日本に漂着した。その帆船「慈愛号」は二人の人材を日本に送り込み、その名の通り、富の蓄積とは別のもの――「大きな慈愛」を日本に残した。その発端が故郷臼杵であったことに、私はささやかの誇りを抱いている。
1999年4月、400年前の感慨を胸に私はオランダを旅した。そして、絵画を中心とした豊富な芸術とともに、長く培われた自立性、寛容性、多様性に裏打ちされた「分厚い文化」に触れて、21世紀を生きる糧を得たのであった。 (以上、『旅のプラズマ』第二話「オランダに授かった慈愛」の要約)