旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

初めて上高地に行った(4)ーー山男の感傷

2007-11-10 15:56:09 | 

 

 上高地シリーズの最初に書いたように、この旅は義兄(ワイフの次兄)の計画によった。そしてこの義兄は正真正銘の山男であることも書いた。
 だから義兄は、上高地などは何十回も歩いている。ただ、これまでの義兄のアルプス登山にとって、上高地や河童橋などは単なる通過点に過ぎず、そのようなところで時間をとるなど頭になく、時間があれば一刻も早く頂上を目指す、正に通過点であったようだ。今回初めて、私のような軟弱な男の旅に付き合うために、上高地一帯だけを歩き回る計画を立ててくれたのだ。
 「いやあ…、初めて上高地でゆっくりした。そしてこんなにきれいな所であったのかと再発見した…」
 これが、初日の宿で義兄のつぶやいた言葉であった。つまり私にとっての「初めての上高地」は、何十回もそこを踏みしめた男にとっても、別の意味で「初めての上高地」であったのだ。

 義兄にとって「初めて」の経験は、単に「ゆっくりと上高地の美しさに触れた」だけではなかった。実は、初日の宿「上高地温泉ホテル」は一度は泊まってみたい、ある意味では夢のホテルであったらしい。もう一つ、帝国ホテルで、たとえ泊まらなくてもお茶の一杯ぐらいは飲んでみたいという思いが、かねてからあったという。
 これには少々驚いた。いわゆる山男たちは、「帝国ホテルなんかに入っていられるか!」ぐらいの生き方をしているものと思っていたが、やはり普通の人の感情を持っていたのだ。当然のことではあろうが。
 義兄は、山に来てかつて経験したことのない高級ホテルで寛ぎ、翌日は念願(?)の帝国ホテルで、ケーキを食べながらコーヒーをすすったのだ。それは、軟弱な私に付き合うことにより実現したこととはいえ、長年の夢の実現でもあったのだ。
 義兄は上高地温泉ホテルの豪華な夕食の中で、正調『安曇節』を歌った。私だけでなく実の妹のワイフでさえほとんど聞いたことがなかったという。
 私は、その張りのあるゆったりした歌声の中に、長いあいだ思い繋いだ「山男の感傷」を聞く思いがした。
 そういえば写真で見る義兄の顔は、なんとも穏やかでいい顔をしている。
 「…お兄ちゃん嬉しかったのね。いい顔してるわ。」とワイフも写真を見ながら言っていたが、兄をよく知る妹にとっても、ある種の感慨をもよおす旅であったのかもしれない。
                            


初めて上高地に行った(3)

2007-11-08 16:00:15 | 

 

 上高地をはじめ北アルプスの魅力を広く世界に知らしめたのが、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンであることは私も知っていた。(彼の名著と聞く『日本アルプスの登山と探検』を未だ読んではいないが) しかし今回いろいろと読んだり聞いたりして、もっと古い歴史があることを知った。義兄の話や、『るるぶ「上高地、乗鞍、高山、奥飛騨」』などによれば
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最古のアルプス登頂記録は、文政111828)年で、富山の僧侶播隆上人。彼はもちろん信仰のためで、阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三体を槍ケ岳に祀った。
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外人ではウェストンの15年も前(明治10年、1877)にウィリアム・ガウランドという英国人冶金技師が槍ケ岳に登った。
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日本人としてはじめて穂高に登ったのは鵜殿正雄・・・などなど       (同書68ページより)
 
そして何よりも、これらの人たちの大半を案内したのは、上条嘉門次という猟師で、これが大変な名ガイドであったということだ。明神池のそばに嘉門次小屋としてその名が残り、その栄誉をたたえてレリーフも立てられている。嘉門次小屋で名物と聞く「岩魚の塩焼き」を食べたかったがその時間がなかったし、この人物については不思議な魅力を感じるので、やがて義兄に詳細を聞き出すつもりだ。
 
加えて驚いたことは、昭和101935)年(私の生まれた年)には、河童橋までバスが乗り入れられたこと、それより前の昭和8(1933)年には「上高地帝国ホテル」が開業しているという。帝国ホテルさんもやるもんですなあ。
 
このようなことを考えながら、明神池から上高地温泉ホテルまで、右岸の木道を歩いた。左岸に比べ右岸は木道が多く、白樺とだけかんばの黄葉を漏る木漏れ日がその木道に揺らいでいた。実に久しぶりに気持ちよく歩いた。

 上高地温泉ホテルの二階の部屋の窓を開けると、梓川をはさんで「六百山、三本槍、霞沢岳」のごつごつした山並みが眼前に迫る! これは迫力があった。いつまでも見飽きぬ風景に見とれていると、やがて赤焼けたあと暗くなり、驚いたことに、六百山の左肩から十四夜の月が浮かんだ。
 
この絶景を存分に見納め、大風呂に身を浮かべ疲れた足腰を癒す。風呂場には、この宿に泊まった文人たちの短歌や俳句が大きくつづられており、これがまた、都会でささくれ立った心を癒してくれる。その中の一つふたつを…。

 窓さきの青葉洩る日に我が影や湯槽の底に揺れてただよう
                       島木赤彦

 この部屋をうけもつおとめものごしも
           朗らかにして山の話す  斎藤茂吉
                                        


初めて上高地に行った(2)

2007-11-07 21:44:34 | 

 

 旅の好悪は天候によって決まる、と言っても過言ではあるまい。今回のヨーロッパの旅で幸運に恵まれたように、この上高地の旅も快晴に恵まれた。
 
高速道路から松本で降りたまでは、山に靄(もや)がかかり視界が悪く「これは中国から来た黄砂のせいではないか?」などと言っていたが、マイカーの最終点「沢渡(さわんど)」に到着すると、靄はすっかり晴れて視界完璧となった。乗り換えたタクシーの運転手が
 
「お客さん、今日は最高の日に来ましたねえ。上高地の紅葉(実は上高地は黄葉ですが)は最高ですよ」
 
と話してくれた。ヨーロッパ旅行から天気の強運を引き継いでいると思った。

 ところで、私の最大の誤算は「距離感覚」であった。実はガイドブックや写真で見てきた上高地――それは、河童橋や大正池、梓川などが一体となっていたので、全ては一箇所にあって、せいぜい1020分もあれば全て行けると思っていた。
 
ところがどっこい・・・わが宿「上高地温泉ホテル」から明神池までは、左岸を通って約4キロ、右岸では5キロ強、往復4時間近くを要する。翌日の大正池までも往復4~5キロ、一時間半はかかる。
 
「ああ・・・、これが世に言う北アルプスというものなのか・・・」
 
などと思いながら歩いた。
 
そして、これこそが上高地に来た意味であったような気がする。この数時間の歩きが、これまで味わうことの無かった世界を与えてくれた。タクシーの運転手さんが言った「黄葉」を漏る黄色い木漏れ日が、例えようもなく美しかった。

 上高地の池、と言えば大正池の写真だけを想像していたが、それをはるかに上回って明神池が美しかった。穂高神社の奥宮の所有であるので、明神池を見るには拝観料を要したが、それを支払っても十分にその価値があると思った。
 
明神池と明神岳の配置は、神がかり的なものがあるのではないか・・・?

 疲れた体を癒してくれたのは、ホテルの温泉であった。段々に配置された露天風呂と、その合間に置かれた“樽風呂”もなかなかの味わいだ。久しぶりの歩きで痛くなった足腰は、この温泉ですっかり治った。
                     


初めて上高地に行った

2007-11-06 17:03:47 | 

 

 若いころの私はけっこう山が好きであった。大分県臼杵市に生まれ育ち、地元の由布岳、鶴見山はもちろん、九州最高峰の久住山(九重山)などには10回近く登ったのではないか? 阿蘇山にも数回は登り、高岳の岩場では岩登りの真似事までやった。宮崎県の大崩山塊から大分県境を走る祖母山、傾山縦走などは、かなりの水準の登山行であった。
 
そのころ常にあこがれていたのが日本アルプスに登ることであった。というより、いつの日か必ず登るものと信じていた。そしてその際、北アルプスへ登った多くの友人からなん十回も聞いた上高地や河童橋などを歩くものと信じていた。
 
ところが、72歳になる現在まで、アルプスの山並みはもちろん、麓の上高地にさえ足を踏み入れていなかったのだ。 

 私の義兄(ワイフの次兄)に、これこそ本物の山好きがいる。73歳の今年の夏も、北アルプスのいくつかの峰を縦走してきた。その話を聞いた私は、
「実は私は、上高地にさえ行ったことがないんですよ。死ぬまで一度は行きたいとは思っているんですがね」
とうっかりしゃべった。それを聞いた義兄は、私の命がそう長くないと思ったのか「それはいけない。早速今年の秋に行きましょう」と、早々と段取りをつけて旅館から何から予約して日程表を持ってきた。
 
実は今年の秋は、9月下旬から10月上旬までヨーロッパ旅行を構えていたので、内心では「何も今年でなくてもいいんだが・・・」との思いもあったが、すでに外堀は埋められていた。
 
1024日、義兄夫妻とわが夫婦4人を乗せ、義兄の運転する車は、朝630分に高井戸を出発、一路上高地に向かった。昼過ぎにその日の宿「上高地温泉ホテル」に到着、途中昼飯を挟んで明神池まで往復4時間の行程、翌日は大正池往復(1時間半)をこなして帝国ホテルでお茶をして、それから松本にくだり、松本城、開智小学校などを見て「浅間温泉」にもう一泊、次の日は安曇野でそばを食い、大町の「酒博物館」や「ちひろ美術館」などを見て帰る、というコース・・・

 いやいや、すべてが素晴らしかった。特に二日間雲ひとつない快晴に恵まれた上高地をはじめ、まったく文句のつけようのない旅であった。(続く)
                            


ノイシュヴァンシュタイン城(4)ーー何がこの美を生み出したか

2007-11-04 11:35:00 | 

 

  一点の雲もない快晴!
 アルプスの山ふところに広がるバイエルンの高原は美しかった。
 その山の中腹に立つ城は、この世のものとは思えぬ姿で、紅葉の中に屹立していた。まさに「狂気の人間が建てたに違いない」と思わせるような雰囲気をたたえて・・・・・・。

 前回、精神病に仕立てられたルートヴィヒ二世の非業の顛末を書いたが、彼が正常な、むしろ常人をはるかにしのぐ高潔な人物であったとする記録がたくさんある。彼は帝王学を学ぶこともなく王位に就いたが、それだけに「己に課せられた使命を非常に真剣に受けとめ、一人の君主がなすべき日常の雑務と徹底的に取り組んだのであった」(ユリウス・デージング著『王 ルートヴィヒ』5頁)
 もう一つ、彼がむしろすぐれた君主であったことを示すドイツの宰相ビスマルクの言葉があるので書きとどめておく。ルートヴィヒ二世と親交の深かったビスマルクは『思想と思い出』のなかで次のように書いているという(前著5ペジより)

「・・・私は王がドイツ国家的見解を持った有能な君主であるという印象を常に受けていた」

 ルートヴィヒ二世はあまりにも人間的過ぎたのかもしれない。あまりにも純粋であった。そして彼を取り巻く人々は権謀術策にたけ、権力、利権、私利私欲に走る「いわゆる常人」であった。人を測る物差しは逆転していた。凡人どもが正気とされ、純粋な人間こそ狂気とされた。
 彼は政争を嫌い、戦争を憎み、それらに日常的に係わる周囲の人間どもから逃避していった。シラーの詩を読みワーグナーの音楽を愛した。そして何よりも、彼が唯一信頼したものは南バイエルンの美しい自然であった。自然は決して裏切ることがなかったから。
 彼の死が自殺か他殺か、また事故死かはわからない。ただ、彼が既に死を求めていたことだけは確かではないか?

 それにしてもノイシュヴァンシュタイ城には不思議な魅力がある。そしてそれは、狂気の人にしか作り出せなかったのではないか、と思わせるところに、この城と建設者の悲劇があるのであろう。
                      


ノイシュヴァンシュタイン城(3)--ルートヴィヒは狂気であったか

2007-11-03 17:05:31 | 

 

 ノイシュヴァンシュタイン城を、「異常な世界が生み出した美」と書いた。事実、その城主ルートヴィヒ二世は、バイエルン政府に精神病の宣告を受けて王位を奪われ謎の死を遂げた。
 はたして真実は何であったのか?

 多くの著述によれば、王の最期は次のように書かれている。
 ルートヴィヒ二世の築城を中心とした浪費を、王の狂気の故とした政府は、多くの医師の診断書により王を精神病と決めつけて逮捕した。しかし、それらの医師は王を直接診断することすらしていなかったという。
 1886年6月12日真夜中、ノイシュバンシュタイン城に滞在していたルートヴィヒ二世は、バイエルン王国政府委員会によって逮捕され、シュタルンベルガー湖畔のベルク城に移される。翌夕刻、「もう一度散歩をしたい」と言う王は、付き添いのグッテン医師と湖に向かい、そのまま帰らぬ人となった。
 深夜、シュタルンベルガー湖で二人の溺死体が発見された。それが自殺であったのか、他殺であったのか、はたまた事故死であったのか永遠の謎とされて現在に至っている。

 ルートヴィヒは極めて豊かな感性の持ち主であったようだ。彼はバイエルンアルプスの自然の中に生き、素朴で誠実な村人たちと交わり、シラーの詩を読み、ワーグナーの音楽に心酔してきたが、幸か不幸か前述したように帝王学の一つも学ぶ機会を与えられなかった。ユリウス・デージングはその著『王 ルートヴィヒ二世』で次のように書いている。

 
「王子の傍には自分の本心やしばしばあふれんばかりの感情を打ち明けられるような助言者がいなかった。そのためすでに若い頃から自分の世界、つまり実生活からかけはなれた自己中心世界を築き上げてしまったのであろう。」

 このように見ると、ルートヴィヒはその類まれな感性のゆえに常人と異なり、正に狂人と紙一重のところにいたように見える。
 しかし彼は狂人ではなかった。それを示す事例が多くの記述に残されている。(長くなったので続きは次回)
                      


ノイシュヴァンシュタイン城(2)--異常な世界が生み出した美

2007-11-01 17:53:12 | 

 

 バイエルン王 ルートヴィヒ二世は、41年という短い生涯の中で三つの城を築いている。山の中腹に立つノイシュヴァンシュタイン城、森に包まれたリンダーホーフ城、そして、(これを私は未だ見てないが)キーム湖に浮かぶ島に築いたヘレンキームゼー城の三つである。
 
生存中に完成したのはリンダーホーフ城のみで、残る二つは未完とされているが、中でもノイシュヴァンシュタイン城は、一番最初(1869年)に着工して彼が非業の死を遂げた1886年まで17年を費やしたが完成をみていない。従って、この城には玉座の間はあるが玉座は置かれていない。彼は、究極の美を求めてひたすら築き続けたが、王としてそこに座ることなく謎の死を遂げたのである。
 
未完ではあっても、後世の人はこれを「世界で一番美しい城」として慕い続ける。それは、その外形が生み出す雰囲気自体が、ルートヴィヒ二世が求めた究極の美を体して、高い完成度を示しているからであろう。

  ルートヴィヒ二世は、当初から「世界一美しい城」を目指してこの築城にとり組んだようだ。築城の計画に当たって心酔する作曲家リヒャルト・ワーグナーに「古来から伝わる純粋なドイツ騎士の居城の様式である…。大切なことは、この世で見られる最も美しい城の一つにすることである…」と伝えている。(パンフレット『ノイシュヴァンシュタイン城とホーエンシュヴァンガウ城』より)。
 
ルートヴィヒ二世は、父マクシミリアン二世の急死に伴い18歳で王位に就いた。それまで彼は大学で政治学を学ぶでもなく、日常の政治の場にかかわることもなく、全く帝王学の課程を経ていなかったという。彼はミュンヘンを遠く離れたアルプスの山ふところホーエンシュバンガウ城で大半を過ごし、シラーを読みふけりワーグナーに心酔して生きてきた。「ドイツ・ロマン主義の一粒の宝石とされているホーンシュヴァンガウ城」(前掲パンフレット)で、彼はロマン主義に耽り、ただ美しいものだけを追い求めて生きてきたのである。
 その延長線上にこのノイシュヴァンシュタイン城があったのであろう。
                             


ヒュッセンの町にて


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