狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

クダラナイ話

2006-06-08 18:08:11 | 県知事選

当日記を読んで下さっている友人知人から時々お叱りを受ける。

「話がカタクて面白くも何とも無い」と。

それではと、気を取り直して精一杯の話題転換を試みると、今度は「話がヤワラか過ぎて、おまけに下品で読むに耐えない」と。

そして最後に留めの一発が入る。

「クダラナイ!」。

どうやらアクセルとブレーキの力加減を知らない老モウ・ドライバーの境地に至ったらしい。

老モウ・ドライバーは危険だが、老魔人の日記には危険を伴わないので今暫く書き続けたい。

ちなみに「クダラナイ」は下らないと書く。

現代では東京(江戸)に行くのは「上り」で東京を発つのは「下り」である。

狼魔人が東京に行くと「おのぼりさん」になる。

しかし江戸時代は「のぼり」と「くだり」が逆であった。

勿論御門が住む京都に行くのが「のぼり」で将軍の住む江戸に行くのが「くだり」であった。

「くだらない」とは、つまらないとか程度が低いと言った意味でよく使われる。

語源はこの辺りから来ているらしい。

つまり権威の象徴のお住まいの京都から江戸に「下って」来た物品は、「下り物」として織物でも何でも高級品、上物の代名詞であった。

ところが京都から「下って」こない物はその辺の低級な「くだらない」物でつまらないものの代名詞となった。 

嘘のようだが、これ本当の話。

沖縄では現代でも琉球王朝時代でも北へ旅するのを「上る」と言ったようだ。

「上り口説」という沖縄音楽がある。

首里城を発って薩摩に上る旅の道中の風景を唄ったもので沖縄では今でも良く歌われている。

上り口説

一、旅の出で立ち観音堂千手観音 伏し拝で黄金酌とて立別る

二、袖に降る露おし払ひ大道松原 歩み行く行けば八幡崇元寺

三、美栄地高橋打渡て袖を連ねて 諸人の行くも帰るも中の橋

四、沖の側まで親子兄弟連れて別ゆる 旅衣袖と袖とに露涙

五、船のとも綱とくどくと舟子勇みて 真布引けば風やまともに午未

六、又も廻り逢ふご縁とて招く扇や 三重城残波岬も後に見て

七、伊平屋渡立つ波おし添えて道の島々 見渡せば七島渡中のなだやすく

八、もゆる煙や硫黄が島佐多の岬 はい並でぃエイ あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがう桜島

 

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「ドミニカ棄民」の天罰

2006-06-08 08:08:45 | 県知事選

「少子化」は半世紀前のベビーブーム対策として政府が行った「棄民政策」の天罰だ

1950年代の高成長期の前は、戦後の復員・引き揚げやベビーブームで急激に増えた国内人口のはけ口に「大量送出する」のが政府の方針だった。

日本の移民は国策として推し進められた。

昨日東京地裁で判決が出たドミニカ移民訴訟の原告も、「カリブの楽園」という国の甘言に騙されて不毛の土地に送り込まれた。

そこで待っていたのは「カリブの楽園」どころか「不毛の地獄」だった。

今なら祝賀すべき「ベビーブーム」も、半世紀前は国民を欺いてまで「棄民」しなければならない頭痛の種だった事実に歴史の皮肉を感じる。

裁判がどのように判断しようが、時がいかに多く流れようが「ドミニカ移民」の責任が政府に、特に担当官庁である外務省にあることは否めない。

その外務省が中国にだけは土下座して円借款を再開するという。http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/825f636f40d8d9c9de5804680111485f

政府よ、外務省よ、土下座する相手を間違えてはいないのか!

 

6月8日付・読売社説(2)

 [ドミニカ移民]「外務省は率直に責任を認めては」

 外務省は率直に非を認めるべきではないか。

 約50年前、ドミニカ共和国で農業を営もうと、1300人余りの日本人が移住した。だが、彼らを迎えたのは、塩が噴き出し、岩だらけの不毛の地だった。日本政府が確約していた農地の所有権も与えられず、過酷な生活をしいられた。

 そんな移住者たちのうちの170人が国に対し賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は、国側の法的な責任を明確に認定した。

 「カリブ海の楽園」というふれ込みでドミニカへの移民を国策として推進しながら、十分な事前調査をせず、移住希望者らに正確な情報を提供していなかったという理由だ。

 判決はその上で、外務省と農林省(当時)の担当職員や両省の大臣には、「職務上の法的義務違反」があったと認定した。もっともな判断である。

 ただ、不法行為から20年経過すると賠償請求権が自動的に消滅するとの民事訴訟の規定を適用し、賠償請求は退けた。提訴が2000年から01年にかけてで、いかにも遅すぎたためだ。

 ドミニカ移民に関しては、00年末に外交文書が一般公開された。ずさんな事前調査や、移民条件をめぐる募集要項の誤った記載、移民実現に向けた外務省本省の性急な姿勢が、現地大使館との往復文書などから浮かび上がった。

 こうした実態が明らかになって、03年7月には、原告らの訴訟を支援する超党派の国会議員連盟が発足した。小泉首相も04年3月の参院予算委員会で、「外務省に多々反省するべきことがあった」と認めた。

 だが、外務省は「国は移住希望者に必要な支援・援助を行ったに過ぎない」と自らの責任を否定し、ドミニカ移民への積極的な関与を認めようとしなかった。今回の判決は、ドミニカ移民を「国の重要な施策」だったと明確に位置づけた。外務省の完敗である。

 判決について、麻生外相は「厳しい指摘があったことに十分留意」するとの談話を発表した。

 問題は具体的に何をするかだ。外務省はこれまでの批判を受けて、ドミニカ移住者のための交流センター建設などの支援策を打ち出しているが、辛酸をなめた移住者たちへの償いにはならない。

 小泉首相が国会で、「外務省の対応は、ほかの役所と比べるとなっていないという声はよく聞く」と苦言を呈したこともあった。

 ドミニカ移民の問題は半世紀も前のことだが、自らの過ちにふたをしようとする外務省の隠ぺい体質は、今も変わっていない。早急な脱皮が必要だ。 (2006年6月8日1時49分  読売新聞)
  

 

 

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