去る6月3日の琉球新報に「沖縄から宇宙飛行士を・・・」という見出しの記事が載った。
この記事を書いた記者がおそらくは生まれる前の37年前、郷土沖縄の大先輩がアメリカの「アポロ11号」宇宙飛行プロジェクトの重要なスタッフとして参加していた事を日本人、いや沖縄県人でさえ知っている人は少ないであろう。
未だ日本人が世界の先進国として胸をはれなかった約40年前、一人の沖縄出身の日本人が当時の世界最先端の技術プロジェクトで活躍していたことを知ると感慨もひとしきりである。
琉球新報 2006年6月3日
沖縄から宇宙飛行士を 「コズミックカレッジ」県内で初開催へ
本格的な宇宙教育プログラム「コズミックカレッジ」の初の沖縄開催がこのほど正式決定し、10月下旬開催で日程調整をしている。親子向けや教員向けのプログラムなどがあり、開催を契機に沖縄で宇宙研究のネットワークを構築し、継続開催も想定している。
「コズミック」は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が毎年全国10カ所ほどで開催。沖縄では「沖縄から宇宙飛行士をプロジェクト」と沖縄仮説実験授業研究会が共催する。
5月31日に宇宙研究の第一人者、JAXA宇宙教育センター長の的川泰宣博士、遠藤純夫参事らが来県。会場などを視察、関係者と内容を詰めている。的川氏は「宇宙は子どもにとって無条件に夢を持つ分野。宇宙を入り口にしていろいろなものに興味を持ってほしい。日本が明るく元気になれば」と話している。
本土ではあまり星を見たことはないものの、知識は豊富な子どもにも接するという的川氏は「沖縄の子からは自然に根差した素朴な疑問や質問が出てくる。非常に健全だ。宇宙に対する興味の芽がもっともっと伸びてほしい」と沖縄の子どもたちに期待を寄せている。
(6/3 16:07)
日本人初の宇宙飛行士というと1992年9月、スペースシャトルに搭乗して日米共同で開発された装置を使って、 材料開発を中心とした日本の実験をした毛利衛さんが有名だ。
その後次々と毛利さんに続く人が出てきて現在、日本の宇宙飛行士は8人いる。
宇宙ステーションが完成してからは、日本人を含めた宇宙飛行士が3~6ヶ月間で交代しながら長期に渡って仕事を進めている。
毛利さんがアメリカの宇宙飛行計画に参加する37年前、アメリカの宇宙飛行プロジェクトの重要な任務に関わった一人の日本人がいた。
後にトム・ハンクス主演で話題になったアメリカ映画「アポロ13号」のモデルになったプロジェクトである。
世界中の注目を浴びた世紀のビッグ・プロジェクトだったにも関わらず、その重要スタッフに関わった日本人の事は当時の日本では全く話題にもならなかった。
その日本人は比嘉良夫さん、紛れもない日本人でありながら沖縄人という但し書きの付く日本人であった。
1969年、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還される3年前の出来事だった。
当時の沖縄人の法的立場は一般的日本国民は勿論、当の沖縄人でさえ正確には理解されていなかった。
その頃日本の大学で勉強した沖縄出身の学生はは大体次のような質問を受けたものだ。
「日本語が上手ですね。 日本に来る前に日本語の特訓を受けたのですか」とか「沖縄では英語で勉強するのですか」とか。
最高学府で学ぶ大学生にして、沖縄はハワイかグアムのようなアメリカの一部だと考えられていた。
それでは沖縄人は正確にはどういう立場だったのか。
米軍統治下の沖縄はアメリカでの一部ではなかった
国籍は日本人、だが、施政権はアメリカが統治すると言った極めて曖昧な立場であった。
当時の日本の政治家先生も良く理解できなかったのか、国会における沖縄の地位についてのやり取りが残っている。
外務委員の滝井氏の質問に答えて当時の外務省の中川条約局長が「潜在主権」という言葉で沖縄の主権は日本が有すると説明している。
質問と答弁は延々と続くが、専門家にしてこの様に簡単に答弁できないところに当時の沖縄の法的地位の複雑さが窺われる。
煩雑を承知で以下に国会答弁の抜粋を転載する。
<◆第040回国会 予算委員会第一分科会 第7号 <昭和三十七年二月二十六日>
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0520/04002260520007a.html
○滝井分科員 (略) 平和条約三条の解釈で、日本は沖縄に対して潜在主権を持っておるということになっております。その潜在主権の実体というものは一体どういうものなのか、御説明を願いたいと思います。
○中川政府委員 平和条約第三条によりまして日本は沖縄におけるアメリカの立法、司法、行政の三権を行使することを認めておるわけであります。
しかしながら、日本の主権そのものは依然として残っておるということは肯定された解釈になっておるわけでございます。
それでは、このいわゆる潜在主権の実体は何であるか。
これは日本の主権が残るのでございますが、その主権の中で一番大きな、いわば実体でありますところの立法、司法、行政の三権というものは、アメリカが欲すればこれを全部沖縄で行ない得るということでございます。
従って、アメリカがその全部を行なうという場合には、主権の実質上の効果であるいわゆる行政、司法、立法の三権は日本には実は一つも残らないわけでございます。
しかしながら、最終的にそれでもどうしても日本に残っておるものは何であるかと申しますれば、いわゆる領土権というふうなのはこれは当然残るわけでございます。
従って、アメリカは平和条約三条の規定を根拠にいたしまして、沖縄というものを第三国に譲渡するというようなことは、これはできないわけでございます。
なお、この潜在主権の現実の現われとしましてもう一つ残っておりますことは、沖縄における従来の住民が日本の国籍を依然として持っておるということでございます。
この日本国籍を持っておるということもアメリカ、日本、双方ともに確認された解釈でございまして、また現実にもそういう解釈に基づいて、いろいろ、日本がたとえば旅券を発給するというようなことが認められておることは御承知の通りでございます。
この沖縄におる人が日本の国籍を依然として持っておるということが第二の潜在主権の現われであると思います。
なお、現実の問題といたしましては、沖縄におきまして日本政府が、たとえば財政的な援助をいたしますとか、あるいは向こうの教員を日本で教育いたしますとか、いろいろ実際上の行政権の作用とも思われる措置を行使しておるのでございます。
これはアメリカとの話し合いによりまして、沖縄でこのような行為を日本政府がすることをアメリカも認めておる、こういう格好になっておるのでございまして、こういうアメリカが容認した限度においては日本がいろいろの主権行為、行政行為を沖縄で行ない得る、かようなことになると思うのでございます。(以下略)>
上記のように外務省条約局長も説明に苦労する米軍占領下の沖縄では、沖縄籍の「日本人」である比嘉良雄氏がアポロ計画に参加していても、一般的には日本人とは見なされず話題にもならなかったのもむべなるかなである。
この情報を引用させてもらったメルマガジン「頂門の一針」の記事を下記に転載させてもらいます。http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
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話題にならなかった大きな話題
━━━━━━━━━━━━━(アポロ11号余話)
石澤 武義
先日、テレビ朝日(チャネル10)で1995年のアメリカ映画「アポロ13」の再放映を観た。1970年4月11日、月へ向かう途中、月まで6分に5のところで司令船の酸素タンクに爆発を起こしたアポロ13号船。
乗組員達が極限状況にありながら決死の対応活動を行って軌跡の生還を果たして世界中を沸かせた。その実話に基づいて描いたトム・ハンクス主演の映画である。
乗組員の苦難もさることながら、NASA(アメリカ航空宇宙局)基地のバックアップ・スタッフの救助の為の活動も凄い。立花 隆氏が「宇宙よりの生還」を書いてベストセラーになった話題でもある。
それにつけても、この「アポロ13号」に限らず世界中の宇宙衛星の打ち上げでメカニックのトラブルがどれ程あったことか。その都度テレビで報道されたビッグトラブルの他に、数え切れない多くのトラブルを克服してきているに相違ないのである(社会主義国の場合は厳しい報道管制が敷かれるであろうし)。
日本のちっぽけな無人衛星の打ち上げでトラブルが連発するのを見てもその難しさが分るような気がする。一応、日本も技術先進国であるのに。
それだけに、「アポロ13号」の1年前に人類の夢を乗せて見事あの月面着陸に成功して世界中の話題をさらった「アポロ11号」の打ち上げが思い出される。
今から37年前の1969(昭和44)年7月20日の快挙であった。
まだ沖縄が日本に返還(1972年)される前の計画だったので、このビッグプロジェクトで人の日本人(沖縄出身者)が重要な役割を担って大活躍をしていた事は余り知られていない。
まだ沖縄はアメリカ統治下にあって日本のマスコミも思うように報道できなかった時期、NASAもバックアップ・スタッフの名前までは公表していたかどうか。これが現在であれば日本国中のマスコミが大騒ぎになったであろう。その人は当時、琉球大学で人体衛生学を教えていた比嘉良夫教授である。
野茂投手がアメリカ・メジャーリーグのマウンドに上がった時の騒ぎや、イチロー、松井の比ではなかったと思うし、まして40年近く前のあの世界を巻き込んだ歴史的なイベントだったのだから、この事実が分っていたら、その後の日本人宇宙飛行士の出現以上の話題になったであろう。
比嘉良夫教授まだ40歳台の少壮教授であった。アポロ11号計画スタートと共にNASA基地に招かれて月に向かう宇宙飛行士の健康衛生管理チームのチーフ(弟さんから確か大佐相当官と聞いたような気がするが不詳)として参加し、あの歴史的な大成功の一翼を担った。
このアポロ・プロジェクト終了後間もなく、ニューヨーク市マンハッタンで、絵の修行中の彼の実弟(畏友比嘉良治氏)のアパートをたまたま訪ねていた私は、沖縄への帰途立ち寄られた比嘉教授とお会いする機会に恵まれた。
日本からビジネス出張していた私にとって彼の快挙は始めて耳にしたニュースであった。一晩、アポロ計画にまつわるいろいろなエピソードを物静かに吶々と聞かせていただいたが、その中で次の述懐が強烈な印象として残っている。
「気が遠くなるような遠隔地に到着した宇宙飛行士達の体調を、コンピューターを駆使してチェックし、コントロールする理論は何の不思議も目新しさも無いが、これを理論通り完璧に作動させて、あの距離の遠隔操作を可能にしたメカニズム、機械装置を作り上げたアメリカの技術陣には脱帽せざるを得ず、只ただ驚きだった。」淡々と語っておられた事である。
何しろ40年近くも前なのに、月まで離れた1人ひとりの宇宙飛行士の血圧の変化、コレステロール・ヘモグロビン数値の変動、精神不安定、心悸亢進、睡眠状態、排尿排便状態等を基地(地球)でリアルタイムにキャッチする。
即刻、月面作業中の宇宙服に装着した対症薬品等を飛行士の体内にショット(噴霧注入)するか、服用を指示するかして体調の調整安定を図る作業だから、その精緻と正確なメカニズムの作動が驚異であったろうしまたこのプロジェクトにはそれが不可欠であったことが容易に想像できる。
また、考えようによっては、この作業は地味ではあるがNASA基地チームの中で最も重要な役割の一つであり、かつ神経を擦り減らす大変な作業であったろう事も想像できる。沖縄出身の日本人があの月面の飛行士たちを支えていたと想像するだけでも痛快であった。
余談であるが彼の実弟の比嘉良治氏は現在もニューヨークで大活躍である。
国際的に絵と写真の分野で知られ、96年にはLIU理事会から最高教授賞を受賞したり、ニューヨークの大学教授を退いた後も忙しい。
北米大陸自転車単独横断、ヨーロッパ大陸自転車単独縦断を成功して話題になったり、日米の青少年ろうあ者基金作りに奔走したり、在ニューヨーク沖縄県民間大使を依嘱されたり、本業を離れても忙しい。いつか彼のことも書いてみたい。
兄の義夫氏は那覇市で静かに生活しておられるが、イベントがあって時折沖縄に帰られる実弟良治氏はお兄さんの許を訪ねるのが楽しみだと言う。
アメリカにおける新旧沖縄の顔である。 H・18・6・1