ワールドカップで老いも若きも連日連夜大騒ぎ。
常日頃サッカーにはそれほど興味を持たなかった人も「世界大会」と冠がつくと熱狂するのはWBC野球大会で証明済み。
メジャーリーグ選手で構成されたアメリカ代表チームを押さえて日本チームが優勝したことは、ある一定以上の年齢の野球ファンにとっては信じられない出来事であった。
一昔前の野球漫画「巨人の星」に出てくる「大リーグボール」でも判るとおりメジャーリーグは遥か雲の上の日本人選手には手の届かない存在であった。
更に時代を遡る。
終戦4年目のの1949年(昭和24年)、戦後初めて来日したメジャーリーグの親善試合を見物する為に地位も名誉も、職業さえも棒に振った熱狂的野球ファンがいた。
その人は前田山英五郎、当時現役の力士で曙、小錦、高見山等の高砂一門の大先輩で第39代横綱である。
http://www.jtng.com/p41/p41-39.html
その年の10月、メジャーリーグのサンフランシスコ・シールズが来日した。
当時の事を記憶していた人の書いた某ブログによると、
「第一戦の相手はその年優勝した三原監督(!)率いる巨人軍(と言わないと当時の感じが出ない)で、この年に南海ホークスから移籍してきた別所が先発したが10対0で負けた。(略)そのあと全日本軍だの何だのが戦ったが、まったく歯が立たなかった。」(引用「上村以和於野球噺」)と、やはり当時のメジャーリーグは雲の上の存在であったようだ。
その野球ファン垂涎のメジャーリグの試合を、折りしも大相撲秋場所中の現役横綱が場所をサボって見物に行ったのだ。
横綱前田山は病気と偽って休場をしたが、横綱が現れたのは病院ではなくシールズの試合が行われた後楽園球場であった。
現在のようにテレビ等のメディアが盛んな時代ではなかったとはいえ、天下の現役横綱である。 しかも本場所中の。
一目を偲んだつもりで帽子でチョンマゲを隠し、馴れぬ洋服と黒メガネを着用したが、並外れた図体では先刻バレバレ。
それだけでも充分アヤシいのに、生来の野球好きのこの横綱、シールズのオドール監督とグラウンドで握手したのを新聞で報じられてしまった。
これが相撲協会の目にとまったからさー大変、「横綱にあるまじき無責任な行為」と問題視された。
14日目の土俵入りと千秋楽の取組出場を希望したが拒絶された上に引退勧告をされ、遂には引退に追い込まれてしまった。
メジャー野球観戦の為に名誉ある横綱の地位を棒に振ってしまったこの横綱、自らプレイングマネージャとしてチームを持つ程の野球好きが仇となってしまった。
日本人にとっては雲の上の存在であったメジャーリーグへの道は、事実上1995年の野茂英雄のロサンゼルス・ドジャース入団によって道がひらける。
だが、野茂のメジャー挑戦の33年前、日米の野球の実力差が天と地ほどあった時代にデトロイト・タイガースを相手にして、殿堂入りの強打者ケーラインを三振に討ち取り、投げた二回をゼロ点に押さえた日本人投手がいた。
しかも驚いた事にその豪腕日本人投手はプロ野球選手ではなくアマチュアの野球選手であった。
「アポロ13号」プロジェクトに参加した沖縄出身の知られざる日本人の事を前に当日記で紹介したが、http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/fb158f152aa1cbd0a78311
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その知られざる日本人と同じく沖縄出身で、メジャーの強打者をキリキリ舞いさせた日本人投手がいた。
その男は、同じく米軍統治下の沖縄で職域野球のエースだった岸本繁夫投手(当時30歳)のことであった。
野茂投手がドジャースに挑戦する33年前、日本のアマチュア投手がデトロイトタイガースの強打者連を二回とはいえ零点に討ち取っていた事を知る日本人は少ない。
沖縄がまだ「日本であって日本でない」時代の、話題にはならなかったが痛快な物語である。
この物語については別稿で紹介したいと思っています。