狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

日銀総裁と投資ファンド

2006-06-14 19:36:36 | 県知事選

「金を儲けることは悪い事ですか。 私はメチャメチャ儲けました」。

「儲けすぎたから嫌われるのですかね」。

村上ファンドの村上代表は逮捕前の独演会で,このように開き直った。

その発言を受けて、麻生外務大臣が皮肉をこめて切り返した。

「その儲ける手法が嫌われるのだよ」と。

その嫌われる違法な手法でメチャメチャ儲けた村上ファンドに日銀総裁が投資していた。

しかも日銀総裁に就任する前は村上ファンドの顧問をしていた。

民間人が何所の会社の顧問をしようが、どの会社に投資しようがそれが合法である限り他人にとやかく言われる筋合いはなかろう。

しかし福井氏が日銀に就任した後も投資を続け、利益を得ていたことは不可解だ。

小泉首相は「問題はない。 日銀内規にも触れていない」と云う。

が、「世間から些(いささ)かなりとも疑念を抱かれることが予想される場合には……個人的利殖行為は慎まなければならない」。

これは日銀自身が定めた「日本銀行員の心得」の一節だ。

それにこれは日銀内規にあるなしの問題ではない。

日銀総裁には、国の経済の未来を左右するほどの力と責任が、国民から託されている。

いわばインサイダー(内部にいる人)の総本山に鎮座して、一般国民の知らないあらゆる情報を知りうる立場にある。

いや日銀総裁の存在それ自身がインサイダーそのものなのだ。

その強大な力を備えた人が、違法な処方で「メチャメチャ儲けた」と豪語する投資ファンドに投資していたとしたらこれが問題でなくて何が問題だ。

公人たる日銀総裁が私的な動機で動きかねないなどと見られては、国民からの信託も崩れてしまうだろう。


村上ファンドは堀江・ライブドアののイメージとは異なり法令順守には厳格で、弁護士、証券のプロ、税理士など専門家を配し、細部にわたってチェックしているため、今回のようなバレやすい過ちは犯すはずがないと言われていた。

当然堀江被告以上に、徹底否認で長期戦に望むと考えられていた。

しかし、村上氏はインサイダーをいとも簡単に認め謝罪し業界からも引退するという。

なぜこうもあっさりと引いてしまったのか。

裁判をすれば長期化する。

すると、知られたくないような事まで検察やマスコミに追及され、驚くような事実や推測がボロボロ出てくるかもしれない。

罪状認否については、村上被告は堀江被告と対照的だ。

堀江被告は事件について否認を続け、自分が助かれば周りの仲間や恩人まで犠牲にしてもかまわない、というような対応だ。

村上被告は『全て自分の責任』として罪を被り、周りの人間を守ろうとしてる感がある。

村上被告がが守ろうとしているのは村上ファンドの親分といわれるオリックスの宮内義彦オーナー。

それに以前から顧問として親密な関係にあった日本銀行の福井俊彦総裁ではなかったか。

福井総裁が村上ファンドへの投資を解約したのは二、三ヶ月前だと言われるが、その時期は堀江被告の逮捕劇が有り、次の地検のターゲットは村上ファンドだと囁かれていた時期だ。

日銀総裁という地位におればその辺の「インサイダー情報」は充分承知で村上ファンドを切り離したのではなかったのか。

明日、福井総裁は記者会見に応じると聞く。

「日本銀行なる者は一人一個の私利を謀るものに非ず、公利公益を主眼とし、徒(いたずら)に商業社会の狂涛に揺がされず……」。

これは日銀創業の開業式で、松方正義・大蔵卿が述べた訓示だと言う。(『日本銀行百年史』)

天下の日銀総裁なら百も承知だろうが、敢えて言おう。

「李下に冠を正さず」と。
  

 


 

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想いで歌探しの旅

2006-06-14 07:37:22 | 音楽

昭和30年代初期の頃は、まだラジオが娯楽の主役の座を保っていた。

厚顔、・・いや紅顔の美少年の高校一年であったその頃、同級生の仲間の間で大人気の「ラジオ歌謡」という番組があった。

朝登校すると「ラジオ歌謡」の歌が何時もその日の話題になった。

TVが家庭に普及するのは天皇陛下ご成婚の昭和34(1959)年ごろからである。

「ラジオ歌謡」は、NHKのラジオ第1放送で、終戦の翌年、昭和21(1946)年5月から昭和37(1962)年3月までの16年間で、845曲も放送された。

新作の上品な唄を当時の人気歌手が歌って評判を呼んでいた。

それまでの流行歌が恋や別れやといった男女のしがらみを歌っていたのに対して、自然の美や人間の心情を表した歌詞の歌が多く、抒情性豊かで家族みんなで楽しめるのでホームソングといわれていた。

この番組から流行した歌に「踊子」、「公園の手品師」、「白い花の咲く頃」等がすぐ想いだされる。

当時人気歌手であった三橋美智也や三波春夫の歌とは一味違った上品なメロディーや歌詞の歌が新鮮であった。

番組は朝の登校の時間前後の放送だったようで、それを最後まで聞き終えて家を出るとギリギリで遅刻をしたような記憶がある。

その番組を通じて流行った三浦光一の「踊り子」は、その叙情的な歌詞とメロディーが当時の高校生の間でフランク永井の都会ムードの歌(例えば「有楽町で逢いましょう」)と人気を二分していた。

ラジオ歌謡には他にも「気象台のアンテナ」と言う曲があって好きな曲の一つだったが、あまり流行りはしなかった。

高校を卒業して20年ほど経った頃、久し振りにラジオから流れる「気象台のアンテナ」を耳にして過ぎし高校時代のあの日あの頃が懐かしく蘇ってきて、今更ながら「流行り歌」の持つ力に驚かされた。

その「ラジオ歌謡」で放送された曲で高校卒業以来ずーと気になっている曲が一つあった。

その曲は「気象台のアンテナ」よりも更に流行らなかったせいか、卒業以来現在に至るまで一度もテレビ・ラジオから流れるのを聞いたことがなかった。

音楽・曲の好みは人夫々(それぞれ)で、その時代に流行らなくても何故か気になる曲は誰でも一つや二つは心に秘めていると思う。

その気になる曲はどの歌集、ナツメロ集にも載っていなかった。

その歌を歌った歌手は「踊り子」の三浦光一ような人気歌手ではなかったし、それどころか歌を本業としない河井坊茶と言う喜劇俳優のような人だった。

今で云う「お笑い」のような事をラジオでやっていて、お世辞にも歌が上手いとは言えなかった。

河井坊茶のしゃがれた声で歌う奇妙な節回しのメロディーは今でも覚えているが、歌詞が想いだせない。

ネット検索を始めるようになって歌詞探しの検索の旅に出た。(続く)

 

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