狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「従軍慰安婦」という虚構にしがみつく朝日新聞

2006-06-30 14:08:41 | 歴史
 「従軍慰安婦」という虚構にしがみつく人々が未だいたのか。

県議会で知事発言 「従軍慰安婦いない」

2006年06月28日

◇政府公式見解と矛盾

 上田清司知事は27日の県議会の一般質問の答弁で「慰安婦はいても、従軍慰安婦はいない」と発言した。従軍慰安婦問題については93年に当時の河野洋平官房長官が旧日本軍の関与を認める談話を出しており、「政府の公式見解を否定するもの」と発言の撤回を求める動きも出ている。

 上田知事は、県平和資料館(東松山市)に展示されている年表の91年の欄に「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任論議多発」と書いてあることを挙げ、「古今東西、慰安婦はいても、従軍慰安婦はいない。民間の業者が連れて行ったりするのであって、軍そのものが連れて行ったりするわけは絶対にない」と発言した。

 さらに「自虐的な感情を抱かせることなく、真実、日本の正確な立場を学べるようにするのが大事」「こうした間違った記述は修正しなければならない」と話し、有識者で作る同資料館の運営協議会に展示内容の見直しを要請した。

 議場から「そうだ」「間違っている」と賛意と反発の声が上がり、一時騒然とした。

 従軍慰安婦問題を巡っては93年、政府が公文書や関係者を調査し、「慰安所は当時の軍当局の要請により設営されたもので、旧日本軍が直接または間接に関与した」「業者が募集した場合も本人の意思に反して集められた事例が多い」と日本軍の関与を認めている。

 議会後、共産党県議団は「知事の答弁は政府の公式見解を否定するもの」との談話を発表し、発言の撤回を求めている。

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上田知事の発言は、非常に明快で判りやすい。

古今東西、慰安婦はいても、従軍慰安婦はいない。民間の業者が連れて行ったりするのであって、軍そのものが連れて行ったりするわけは絶対にない。

更に判りやすく言うと、従軍慰安婦の存在を信じる人達が言う『日本軍が人狩りをして従軍慰安婦に仕立てあげた』という説は『虚構だ』と言っただけ。

慰安婦の存在を否定したわけではない。

サンスポの記事はもっと判りやすい。

『軍が連れて行ったわけは絶対にない・古今東西、慰安婦はいても従軍慰安婦というものはいない。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れて行ったりする(サンスポ)』

「慰安婦」なんてわかり難い言葉を使うから混乱するわけで、判りやすく言えば「売春婦」が「需要」を求めて軍の追っかけをしていたと言う話。

軍に於いても「需要と供給の均衡」と言う経済法則がはたらいていたという話。

当時は日本にも生活苦で「娘の身売り」があった時代。

本人の意志に反して慰安婦にならざるを得なかった場合もあっただろう。

気の毒には思うが、だからといって『軍が人狩りした』などという虚構とは全く別問題。

「慰安所は当時の軍当局の要請により設営されたもので、旧日本軍が直接または間接に関与した」「業者が募集した場合も本人の意思に反して集められた事例が多い」と朝日新聞は軍の関与を強調するが、売春業というビジネスが発生し「需要と供給の均衡」が取れていた訳だし軍の「関与」があったの当然でしょう。

資料によると、軍がお得意様だと収入は多く、定期的に軍医の検診も受けられるので軍の追っかけは割の合うビジネスだったと言う。

反日勢力にとって「日本軍が人狩りをして慰安婦にした」という『構図』は、とても衝撃的で日本を糾弾するには簡単には諦められない材料。

従軍慰安婦問題は、朝日新聞などによって大々的にキャンペーンが展開され、なかば『事実』になりかかっていたが、徐々に虚構であることがわかってきた。

しかし、この魅力的な反日材料を簡単には捨てられない。

『反日勢力』は、既に決着のついた虚構にしがみつかざるを得ないほど追い詰められたのか。



 

上田知事発言に抗議

日朝協会県連合会など

 上田清司知事が「従軍慰安婦はいなかった」などと発言した問題で、日朝協会県連合会(渡辺貢会長)などが二十八日、抗議する声明を発表した。

 同連合会の声明では「知事自身がどのような持論を持とうとも、歴史の事実は打ち消すことはできない」と指摘。謝罪の気持ちを表した一九九三年の河野洋平官房長官(当時)の談話や、二〇〇一年の小泉純一郎首相の手紙を挙げ、「歴史の事実を回避せず、日本国民自身の教訓として直視し、政府、内閣総理大臣の見解を尊重し真摯(しんし)に対処されることを望む」としている。

 在日本大韓民国青年会中央本部も同日「侵略戦争を肯定し、史実を覆い隠し、戦争被害を受けた韓国やアジアとの関係に大きな溝をつくる身勝手な史観による発言」とし、発言の撤回や謝罪などを求める声明を発表。

 また、県教職員組合も同日「知事発言は世界の平和の潮流に逆行する。日本の信頼を揺るがし、県行政への信用を失わせる」などとして発言の撤回を求めた。 (藤原正樹) 東京新聞

 虚構にしがみ付く三つの団体が名乗りをあげた。

いずれも胡散臭い。

先ず「日朝協会県連合会(渡辺貢会長)」http://www.saitamaken-npo.net/_db/050615112932.html

そして「在日本大韓民国青年会中央本部」http://seinenkai.org/

最後に控えるのが「県教職員組合」http://www16.ocn.ne.jp/~stu/
 

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思い出の歌 「リルとお富さん」

2006-06-30 12:16:13 | 音楽

最近の沖縄出身の芸能タレント活躍は目覚しいものがある。

歌手、女優、お笑い芸人とジャンルを言うだけで個人名が数人はすぐ出てくる。

ところで沖縄出身の芸能人の先がけは一体誰だろう。

仲宗根美樹? 嘉手納清美? 大空真弓? それとも沢村みつ子?

やはり南沙織かフィンガーファイブか。 何故か女性パワーが炸裂している。

だが、忘れてはいけない男性が一人いた。

渡久地政信(1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、昭和・平成期の作曲家。

渡久地という名は沖縄ではごく普通の姓で海洋薄公園の近くに「渡久地」という港もある。

因みに渡久地と言う姓には「政」が付く名前が多く(例:政一、政彦、政功)、筆者も数人はすぐ名を思いつく。

渡久地政信は沖縄・恩納村に生まれ、少年期を奄美大島で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビューした。

だが、歌手を断念し1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。

以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。

中山晋平メロディーが日本民謡、古賀政男メロディーが朝鮮民謡、服部良一メロディーがジャズを基調としているのに対し、渡久地メロディーは生まれ育った沖縄・奄美民謡をベースにしているといわれる。

1998年9月13日、肺炎のため死去。享年81


上海帰りのリル 昭和26年
作詞:東条寿三郎
作曲:渡久地政信
唄:津村 謙

 1951(昭和26)年、津村謙が歌って大ヒットし、その声を「ビロードの声」と評されるほどのブームとなった。

昭和27年には新東宝で同名映画が作られている。主演は水島道太郎、香川京子、森繁久弥が主人公の相棒役で出演している。

当時筆者は11歳。 この歌は大ヒットでタンゴ調の前奏は今でも憶えている。

映画は確か国際通りの三越の場所にあった大宝館で上映された。

戦後まだ6、7年しか経っておらず戦前のエキゾチックな国際都市・上海から引き上げてきた人が多かった時代を反映した歌。
 
上海リルという名前は、戦前の昭和9年に公開されたワーナー映画『フットライト・パレード』の主題歌『上海リル』から採られたようだ。

『上海リル』はW・ワーレン作曲・服部龍太郎訳詞で、昭和9年に歌川幸子、10年にディック・ミネが歌ったという記録がある。

日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてた。その混乱のなかで、さまざまな生き別れや死に別れがあった。

「上海帰りのリル」は、そんな社会情勢を背景として作られたもの。

歌詞にある四馬路は上海にあった歓楽街。

「四馬路」とは四頭だての馬車が通れるほどの広い通りの繁華街という意味だという。

ちなみに「ハマのキャバレーに居た」の「ハマ」は横浜のこと。

津村謙(1923-1961)
富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。昭和18年にデビューするが、すぐに出征。戦後、古賀政男門下となり、芸名を「愛染かつら」の主人公である津村浩三と、津村役を演じたスター俳優の上原謙からそれぞれとる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。28年の「待ちましょう」、30年の「あなたと共に」と、寡黙な人柄でその後も着実にヒットを重ねていったが、36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。 (歌手の解説は「誰か昭和を想わざる」より引用http://www.geocities.jp/showahistory/index.html)

                    *

◆戦前の国際都市・上海のエキソシズムと、リルというカタカナ名前の女性の歌から一変、日本の伝統歌舞伎から題材をとった「お富さん」が爆発的に流行ったのは昭和29年、筆者が13歳の頃。

タンゴ風のリズムの「上海帰りのリル」の後は、日本調でのお囃子入りの「お富さん」で作曲者の渡久地政信は当時としてはかなり変わり身の早い作曲家だったようだ。

後に都会ムード調のヒット曲を連発した吉田正が三浦洸一の歌で「お富さん」の二番煎じとも言うべき「弁天小僧」を作曲したのはご愛嬌だ。

が、柳の下にドジョウはいなかった。

結局その三浦洸一も後に渡久地政信の「踊子」でその地位を不動のものにする。

お 富 さ ん

作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信 唱 春日八郎
昭和29年
春日八郎(1924-1991)
会津出身。13歳でエンジニアを志して上京、苦学の末に早稲田大学高等学院の理科に入るが、しばらくの後に東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビューするが、その後は鳴かず飛ばずで、引退を覚悟していた27年、ようやく「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒット。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈であったが、岡のレコード会社移籍で春日にまわってきたものであった。30年代には「別れの一本杉」「山の吊橋」などが次々にヒット。三橋美智也などとともに一世を風靡する。徹夜で飲み明かして、翌日のレコーディングを一発でOKという離れ業も行った。48年には芸術祭賞大衆芸能部門大賞を受賞。平成1年には紫綬褒章、3年には勲四等旭日小綬章を受章。競走馬を所有し、野球チームも主宰するなど趣味多彩の人だった。昭和63年から村田英雄、三橋美智也と「三人の会」で年1回のコンサートを行っていたが、平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、7月の「三人の会」には欠席した。9/6に中野サンプラザでのキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。足の切断手術を本人は覚悟していたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢5丁目だった。(引用は同上)
 
(続く)

 

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