狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

小泉首相、靖国参拝訴訟の最高裁判決

2006-06-26 11:48:52 | 県知事選

◆最高裁、憲法判断せず 小泉首相靖国参拝訴訟

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反し、精神的苦痛を受けたとして、日韓の戦没者遺族ら278人が国と小泉首相らに損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷であった。
 今井功裁判長は「参拝で原告らの法的利益が侵害されたとはいえない」として原告の上告を棄却した。原告敗訴の2審大阪高裁判決が確定した。参拝の公私の別や憲法判断はしなかった。
 歴代首相の靖国参拝をめぐる訴訟で最高裁判決は初めて。損害賠償請求の前提となる「被害」が否定され、同様の訴訟で今後、地・高裁が憲法判断に踏み込まない傾向が強まりそうだ。
(共同通信) - 6月23日12時22分更新

                   *

「小泉首相靖国参拝訴訟」の23日の最高裁判決に、沖縄タイムスが翌日の社説で「憲法判断すべきだった」と早速噛み付いた。

一日遅れの昨日25日の琉球新報社説も「(憲法判断しなかったことに対して)「最高裁に訴えた意味がない」と双子の兄弟のように同じ論を繰り返す。

読まなくても内容が判る地元二紙の靖国訴訟についての社説でも、二紙お揃いでは少し触れておかなきゃなるまい。

小泉首相靖国参拝訴訟に対しては、今回の最高裁判決を含めて計12回の司法判断が下されている。(「小泉首相の靖国参拝を巡る判決」参照http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20051022/)

いずれも訴訟の本論の「損害賠償」では原告が敗訴しているが、法的拘束を伴わない「傍論」、・・・いわば裁判官の「独り言」、或いは「呟き」という形で、違憲判断をした例が二つあった。

そのうち未だ記憶に新しいのが昨年9月の大阪地裁の例だ。 

本論では国の勝訴にして、裁判官の捨て台詞のように個人的心情を「傍論」として呟く。

これでは国は形としては勝訴なので違憲判断に対して控訴することが出来ない。

これは2004年4月の福岡地裁の判決と全く同じ構図だ。

首相の靖国神社参拝が信教の自由を侵害していないのであれば、その理由を述べて控訴を棄却すればよい。

なぜ憲法判断にまで踏み込むのか。

国は勝訴したのだから、違憲判断については何も言えなくなってしまう。

裁判官は判決と関係しない事を言ってはいけない。

今回の最高裁判断は今までの下級二審の暴論に対しエリを正さした立派な判決だ。

沖縄タイムス、琉球新報の言うように「最高裁は無責任。逃げた」のではなくてなくて、「司法が踏み込むべきことではない」と判断したのだ

それに沖縄タイムスは「小泉首相の靖国参拝をめぐる訴訟では、これまで計十二件の地・高裁判決があった。うち二件は「違憲」とするなど、司法判断も揺れている。」という。

が12件の判決は全て原告敗訴であり、そのうち「司法が踏み込むべきことではない」と判断したのが10件。

「違憲」と傍論で呟いたのは、たった2件に過ぎない。

司法の判断が揺れていたのでは無く呟き四郎、・・ではなく、呟く裁判官が二人いただけに過ぎない。

今回の最高裁判決理由で裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活などに対して圧迫、干渉を加えるものではない」とした。

そのうえで、「内閣総理大臣が靖国神社を参拝した場合でも異なるものではない」と指摘した。

また、原告は首相の靖国参拝が憲法の政教分離原則に反するとして違憲の確認を求めていたが、「それ以外の点について判断するまでもない。訴えの利益がない」として憲法判断をせず、原告の違憲確認要求を却下した。

憲法学者の中には、「傍論で憲法判断を示してもよかった」という意見もある。

が、主文と関係のない傍論には法的拘束力がなく、あえて憲法判断に踏み込む必要はないという判断だ。

原告団は日韓の戦没者遺族ら278人で構成され、「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団」と称している。

1審・大阪地裁では、傍聴席から野次が飛び、静粛な雰囲気が妨げられたこともあるという。

ほかにも、全国各地で同じような靖国訴訟が起こされており、裁判所を政治闘争の場に利用することは許されない。

話は突然それれるが、山口の母子殺害事件で、弁護士が欠席して口頭弁論開け無かった。死刑廃止論者の安田弁護士が自分の思想信条を遂行しようとするのはそれなりの意義があるだろう

だったら安田弁護士自ら国政に立候補して立法府入りをして「死刑廃止」の立法を実現すればよいことで、裁判所を死刑廃止論実現の為の闘争の場にしてはいけない。

同じように最高裁の判決が気に入らなければ選挙と言う手段がある。

自分が気に入らない人物は落選させれば済むことで、裁判所を政争の場所にすべきではない。

沖縄タイムスも琉球新報も原告団については敢えて詳しく触れずに「日韓の戦没者遺族ら」(タイムス)とか「原告側」(新報)とかその実体を明らかにしていない。

一連の小泉首相靖国参拝訴訟の原告団の実体をを見ればこれが「政治闘争を司法の場にもちこんだ」ということは一目瞭然だろう。

原告団:小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団http://www005.upp.so-net.ne.jp/noyasukuni/

                   ◇

◆沖縄タイムス 社説(2006年6月24日朝刊)

[靖国最高裁判決]

憲法判断すべきだった

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝に対し、日韓の戦没者遺族らが損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第二小法廷は上告を棄却し、原告敗訴が確定した。
 歴代首相の靖国参拝をめぐる訴訟に最高裁が判断を示したのは初めてだが、参拝の公私の別や、憲法判断は示さなかった。

 「憲法の番人」たる最高裁が、憲法判断に踏み込まなかったのは残念だ。各地で起こされている同様な訴訟で、地裁と高裁が憲法判断を回避する傾向がさらに強まることが懸念される。

 今回の訴訟は二〇〇一年八月十三日の参拝を対象にしている。首相は公用車を使い、秘書官らを伴って靖国神社に赴き、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した。

 判決理由で今井功裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活に圧迫・干渉を加える性質のものではない」との見解を示し、損害賠償を否定する根拠とした。

 しかし、参拝したのは一国の総理である。その行為が及ぼす影響は一般的な「人」とは違うはずだ。

 判決は四裁判官の一致した意見としているが、一人は「当該行為が過度にわたった場合、初めて法的保護を求めうる」と補足意見を述べている。

 今の訴訟形態で、靖国参拝など国の行為について司法判断を仰ぐには、損害賠償請求の形で訴えを起こすしかない。政教分離の原則について、市民が司法の場で国と争うための足掛かりである。

 ただ、原告らが本当に求めているのは、損害賠償よりも違憲か合憲かの判断であろう。裁判官は、損害があったか否かの判断に逃げず、本質論に踏み込むべきだ。

 小泉首相の靖国参拝をめぐる訴訟では、これまで計十二件の地・高裁判決があった。うち二件は「違憲」とするなど、司法判断も揺れている。

 毎年一回のペースで参拝し、周辺国との政治的あつれきを生むような行為に対しては、きっちり最高裁が憲法判断を示してほしかった。

 
 ◆琉球新報 社説 2006年6月725日

首相・靖国参拝訴訟/最高裁に訴えた意味がない

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝が政教分離を定めた憲法に違反するかどうかを問う訴訟の上告審で、最高裁は「参拝で原告らの法的利益が侵害されたとはいえない」として原告側の上告を棄却した。
 歴代首相の靖国参拝をめぐる訴訟の最高裁判決は、今回が初めてであり、判断が注目された。だが最高裁は首相参拝の公私に触れなかったばかりか、合憲か違憲かの憲法判断を示さなかった。
 「憲法の番人」が憲法判断を避けたのは残念だ。同様の裁判で地裁と高裁がこれを踏襲することが予想され、政教分離について市民が国の姿勢を追及する手段は、一段と狭まるのではないかと心配する声は根強い。
 判決後、原告らは憲法判断に踏み込んだ裁判所では違憲と判断された例を引き合いにして「それでも首相は参拝する。それをとどめる責任は司法にあり、毅然(きぜん)とした態度を取るべきなのに、最高裁は無責任。逃げた」と批判した。
 首相は就任以来、年一回のペースで靖国神社に参拝している。訴訟対象となったのは2001年8月13日の参拝だ。
 その参拝に際し、首相は公用車を使い、秘書官らを伴った上で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳している。であれば、参拝は首相としてのものだと見るのが自然ではないか。
 しかし、最高裁は違った。
 判決理由で裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の信仰生活に圧迫、干渉を加えるものではない」とした。そして「他人の参拝で宗教上の感情が害されたり不快の念を抱いたりしても直ちに賠償を求めることはできない」と判断した。
 判決で気になるのは、総理大臣の表現を避けて「人」「他人」としている点だ。
 一般の個人が参拝しても問題にならないのは当たり前である。しかし、そうではなく、首相の参拝であることに対し原告側は異議を申し立てているのだ。
 4裁判官のうち1人は「他人の行為で心の平穏を害されても、当該行為が過度にわたった場合、初めて法的措置を求めうる」と補足意見を述べた。
 「人」や「個人」の問題と片付けるだけでは、いかにも道理が合わない、国民を納得させられないと考えたのだろうか。
 そもそも、原告が損害賠償の形で訴えを起こしたのは、何らかの権利や利益が損なわれたとする以外にすべがないからだ。このような事情が全く考慮されていないのは腑(ふ)に落ちない。
 繰り返し裁判に持ち込まれる重要な問題である。最高裁は「入り口」論に逃げる姿勢を改め、きっちり憲法判断を示すべきだ。


(6/25 10:06)

 

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