卒業式のシーズンになると必ず問題になるのが日教組による国家・国旗掲揚に対する反対運動。
そのとき出てくるのが日本国憲法第19条。
通常「思想・信条の自由」として黄門様の印籠代わりに用いられている。
改めてその条文を書き出して見る。
日本文:「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
英文 :「Freedom of thought and conscience shall not be violated.」
思想及び良心の自由は、表現の自由などの各種精神的自由権の前提となり、民主主義・民主制が機能するための最低限の自由としての側面も有する。
法律しか知らない愚か者を法匪と言うらしいが、東京地裁は昨年9月「日の丸・君が代は宗教的・政治的に中立とはいえないので、教師は命令に従わなくてよし 」と言う判断をした。(現在東京都が控訴中)
【追記・動画】17:10
根津公子先生の「君が代不起立」http://www.youtube.com/watch?v=-QSQcgMTo9M
朝日新聞 2006年9月1日
式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違法」 東京地裁
卒業式、入学式で教職員に国旗に向かって起立する義務や国歌を斉唱することを命じ、違反した場合に処分することを定めた03年の都教委の通達の適法性が争われた訴訟の判決が21日、東京地裁であった。難波孝一裁判長は、(1)教員らには起立、斉唱の義務はない(2)不起立・不斉唱、ピアノ伴奏の拒否によって処分をしてはならない(3)原告401人に対する1人3万円の慰謝料支払いを命じた。
判決はまず、日の丸・君が代の歴史的な位置づけについて「第二次大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい」と指摘。「国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗、国歌と規定された現在でも、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と述べた。
これを踏まえ、「教職員に一律に起立・斉唱とピアノ伴奏の義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になる」として都教委の通達と校長の職務命令は違法だと結論づけた。
◇
先ず素朴な疑問だが、自分の国の国旗の起立する事や、国家を斉唱することがどれほど「思想・信条の自由」を侵害するのかと言う事。
それも毎日、各自が自分の家でもそれを実行せよと言うわけではない。
それも自分の職業(教師)に関連して年に数回みんな一緒に行えば済むことだ。
このような簡単な事で「思想・信条の自由」が侵されると言うのなら教師を辞める自由だってあるはずだ。
そもそも自分の国の国歌や国旗で自分の信条を侵されるような奇妙な人は教師になるべきではない。
日大の百地教授が「思想・良心の自由」への誤解を分かりやすく説明している。
≪第1に「思想・良心」とは「内心作用」のすべてを指すわけではなく、単なる不快感などはこれに含まれないということである。≫
≪第2に、法令や適正な職務命令に基づいて一定の「行為」を命ずることと「思想・良心の侵害」とは別だということである。≫
≪例えば、校長が教職員に国歌斉唱を命じたとしても、それはあくまで「外部的行為」を命ずるだけであって、思想・信条は問題にしていないから、思想、良心の自由の侵害とはならない。教職員が内心においてどのような思想・信条を抱いていようとも、それは自由だからである≫
さらにもう一つの例が分かりやすい。
国旗・国歌どころか「国家の存在」を認めない思想だって日本では自由である。
思想として「国家否定」を心の内部に持つ事は日本では認められてる。
その結果生じる「納税の拒否」は心中に抱くの勝手でも行動に移す事とは別の問題だ。
確定申告シーズン真っ盛りだが、誰も納税に快感を持つ者はいないだろう。
単なる不快感を「思想・良心の自由」と標榜して納税を拒否できるなら、にわか「無政府主義者」が増殖するだろう。
「思想・良心の自由を侵す納税にハンターイ!」。
◇
【正論】
日本大学教授・百地章 国旗・国歌問題への誤解を正す
日本大学教授・百地章
■「思想・良心の自由」の意味から考察
≪疑問の多い地裁判決≫
今年も卒業のシーズンが近付いてきた。卒業式といえば、これまで年中行事のように繰り返されてきたのが、日教組や高教組などによる妨害活動であったが、平成11年の国旗国歌法制定以来、国旗掲揚、国歌斉唱をめぐる混乱は全国的に収束に向かっていた。ところが昨年9月、東京地裁が国旗掲揚に際しての起立や国歌斉唱の強制は憲法違反であるとする判決を下したため、日教組などは再び勢いづいていると聞く。
判決は、教職員に対して起立や国歌斉唱等の義務を定めた東京都教育長の「通達」は、国旗に向かっての起立や、国歌斉唱をしたくないという思想、良心を持つ教職員に対してこれらの「行為」を無理やり命ずるものであって、「思想・良心の自由」の侵害に当たるとしているが、これは疑問である。
「思想・良心の自由」とは、通説によれば宗教上の信仰に準ずるような世界観、人生観、主義、主張など人格の形成にかかわる内面的な精神作用が、公権力によって侵害されないことをいう。つまり憲法が保障する「思想・良心の自由」とは、具体的には(1)特定の思想・信条等が、公権力によって強制されてはならないこと(2)思想・信条等を理由として、差別や不利益的な取り扱いがなされてはならないこと(3)思想・信条を強制的に表明させられないこと(沈黙の自由)-を指す。
≪自由の侵害と制約は別≫
ここから言えることは、第1に「思想・良心」とは「内心作用」のすべてを指すわけではなく、単なる不快感などはこれに含まれないということである。第2に、法令や適正な職務命令に基づいて一定の「行為」を命ずることと「思想・良心の侵害」とは別だということである。例えば、校長が教職員に国歌斉唱を命じたとしても、それはあくまで「外部的行為」を命ずるだけであって、思想・信条は問題にしていないから、思想、良心の自由の侵害とはならない。教職員が内心においてどのような思想・信条を抱いていようとも、それは自由だからである。このことは、福岡地裁判決(平成17年4月26日)も認めている。
第3に、思想、良心の自由の「侵害」と「制約」とは別であって、憲法が禁止しているのは「侵害」である。つまり、思想・良心は、それがいかに反倫理的、反国家的のものであったとしても、内心にとどまる限りは絶対的に保障される。しかし、それが外部的な行為となって現れる場合には、他の権利や自由と同様「内在的制約」や「公共の福祉による制約」を受ける。
それゆえ、法律が国民に対して一定の義務を課している場合には、たとえそれが自らの思想・信条と異なるものであったとしても、国民はそれに従わざるをえない。例えば、納税など不要であるとの思想の持ち主がいたとしても、当然納税の義務を果たさなければならない。逆に、もし国民一般に課せられた法的義務を、思想、良心の自由を理由に拒否することを認めたら、国家秩序は崩壊する。
≪「心の教育」をめぐって≫
このように「思想・良心の自由」といえども、決して絶対的なものではない。ところが「思想・良心の自由」が持ち出されると、たちまち腫れ物に触るようになる。例えば国旗・国歌や愛国心の問題になるとすぐに「思想・良心の自由」の侵害にならないかなどといった話に発展してしまうわけである。これは「内心に触れる」ことと、「思想・良心の自由の侵害」とは別問題であることが、正しく理解されていないことによる。
「心の教育」ということがいわれるが、教育とは本来、精神的な営みであって、子供たちの心の襞(ひだ)や琴線にふれ、子供たちに感動を与えることこそ、真の教育といえよう。例えば、中学校学習指導要領の道徳教育では「父母、祖父母に敬愛の念を深め」るよう教えることになっているが、これらの徳目を子供たちに教え、身に付けさせようとすれば、当然、子供たちの内心に触れていかなければならない。しかし、そのことと「思想・良心の自由」の侵害とは全く別問題である。
今回の教育基本法改正によって、新たに「国を愛する態度を養う」ことが、教育の目標として定められ(第2条)、国会では、安倍総理らによって「心」と「態度」は一体のものであり、「国を愛する態度」を養うためには、「国を愛する心」をしっかり教えることが必要であるとの答弁が繰り返されている。それゆえ今年こそ、全国で厳粛な卒業式が挙行され、国旗掲揚、国歌斉唱が整然と行われることを心から期待している。(ももち あきら) (2007/02/18 05:02)