昨夜のフジテレビ「アンビリバボー・知られざる王者への道 ある宿命と決意」は久々に感動した。
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昨年の7月、マスコミは亀田兄弟なしでは夜も日も明けぬフィーバ真っ盛りの頃、亀田より一足先に世界タイトルを奪取した男がいた。
四回戦ボーイの大毅の試合をテレビ放映してもこの男の世界奪取試合は録画による一部地域の深夜放映しかされなかった。
マスコミもブログも亀田オンリーのその当時、この男、名城信男が沖縄出身と言うこともあって、連続で当日記はこれを取り上げた。
最後のエントリーを次のように「続く」で結んだ。
・・・≪そうだ。 引き継いだ日本タイトルを防衛する。 これが一番の供養なのだ。 そしてもう一つ。 君が果たせなかった世界王者のタイトル奪取だ≫
≪約束しよう。 世界王者のベルトをきっと墓前に供えることを≫
日本タイトル初防衛の相手はWBA4位の世界ランカープロスバー松浦(国際)と決まった。
そしてその勝者はWBA世界スーパーフライ級王者カステーリョへの挑戦権獲得が決定した。
(続く)
◆拳友・・・友の墓前に誓う「岩盤パンチの男」
当然、近々に続編を書くつもりでいたが、毎日の更新に追われて年を越してしまった。
そして昨夜の「アンビリバボー」。
一番の感動部分をテレビに持っていかれたが、これで名城信男も晴れて全国放送で紹介された事になる。 めでたし、めでたし。
名城信男、頑張れ!
◆フジテレビ「アンビリバボー」http://www.fujitv.co.jp/anbiri/
知られざる王者への道 ある宿命と決意
名城信男は2003年のプロデビューから4連勝を上げていたも
ののまだ無名のボクサーだった。そんな彼にプロ5試合目で、世
界ランキング第4位の本田秀伸から突然のオファーが来た。
デビュー間もない名城との実力差は明らかで、世界戦で敗北後
の1戦に彼を指名したのだ。つまり本田にとって名城は自信を付
けさせるための噛ませ犬だった。
わざわざ負ける試合をしなくても良かったが、名城は対戦する
ことにした。
父親の影響で小さい頃からボクシングが大好きだった名城は、
高校に入るとすぐにボクシング部に入部。夢は辰吉のような世
界チャンピオンになることだった。
だが誰よりもボクシングに打ち込んだが、思うような結果が出せずにいた。夢を捨てきれず大学でもボクシングを続けたが、学生時代は最後まで芽が出ることはなかった。
圧倒的に分が悪いのは分かっていたが、万が一勝てば世界ランキング入りだ。
自分のような平凡な選手には二度と無いチャンスだと思った。
しかし大きな問題は、本田が名城の苦手なサウスポーだったことだ。勝つためには同等の実力のサウスポーの選手と練習をする必要があった。そこで以前から親交のあった関西の名門、金沢ジムに相談したところ紹介されたのが、本田と同じサウスポーで世界ランキング11位の田中聖二だった。名城の倍以上のキャリアを持つ格上ボクサーだ。
本田クラスのサウスポーは少ないため、田中が引き受けてくれたのは幸運だった。さらに通常スパーリング相手は練習に付き合うだけの関係だったが、田中は練習後に大一番を前に緊張する名城に話しかけ、励ましたり親身になって色々なアドバイスをくれた。
田中は世界ランキングに入っていたものの、その肩書きは23試合目にやっと手に入れた苦労人ボクサー。だからこそアマチュア時代にまったく勝てなかった名城の気持ちがよくわかったのだろう。
試合も目前に迫り、田中との練習も最後を迎えた時だった。田中は「お前のいいところは前に出るところ。苦しい時でも前に出ろ。一歩でも前に出れば必ず突破口は見つかる」とアドバイスをくれた。
2004年8月7日、名城は噛ませ犬になってたまるか、という気持ちで、田中の言葉を胸にリングに立った。名城はゴングと同時に前に出た。そして休むことなく10ラウンドを攻め続け、名城は判定で本田に勝った。下馬評を大きく覆す勝利だった。
この勝利で名城は世界ランキング入りし、一躍その名を知られることになった。そしてさらなるチャンスが舞い込んだ。日本タイトルマッチが決まったのだ。夢にまで見た日本チャンピオンへの挑戦権が与えられたのだ。
だが、名城は手放しで喜べなかった。彼を迎え撃つチャンピオンは、運命のいたずらか世話になった田中だった。彼は苦節7年目にして日本チャンピオンになっていたのだ。
2005年4月3日、複雑な思いを抱えて名城はリングに上がったが、世話になった人だからこそベストを尽くそうと思った。田中にとっても初防衛戦、簡単に王座を明け渡すわけにはいかなかった。
戦前の予想は五分五分。この日の田中の気迫は鬼気迫るものがあったが、名城も圧倒されないよう前に出た。
中盤、名城のパンチが田中を捉え始めた。迎えた最終ラウンド、渾身の右ストレートが田中を捉え、レフェリーが試合を止めた。挑戦者名城のTKO勝利だった。勢いに乗った名城がベテラン田中を制し、日本チャンピオン名城が誕生した。
だが無名だった頃には味わったことのない喜びを噛み締めていた名城に、その試合から2週間後、田中が亡くなったという知らせが届いた。
実は試合直後、田中は控え室に戻ると倒れ込みそのまま意識を失った。その事実は名城陣営には伝えられていたものの、名城の精神的ショックを考えあえて病状を知らせないようにしていた。
正々堂々と戦った上での事故だったが、自責の念から名城は葬儀中一度も顔を上げられなかった。田中と共に夢を追って来た金沢ジムの金沢会長にとっても、その悲しみは想像を絶するものだった。
自分が夢中になったボクシングとは一体何だったのか。人の命を奪ってまで手にした日本王座に何の意味があるのか。名城は一歩も家から出なくなった。
王者は6ヶ月以内に同階級一位選手と防衛戦をしなければ、王座を剥奪される。このまま試合ができないようなら名城は王座を返上しなくてはならない。
事故から2ヶ月、ジムでは決断を迫られていた。そんな時、名城が所属ジムの枝川会長のもとにきて防衛戦をやりたいと伝えた。このままボクシングを辞めてしまうのは田中に対して失礼だと思ったのだ。
田中のためにも、田中を応援してきた人のためにも負けるわけにはいかないという気持ちで、名城はこれまで以上に練習に打ち込んだ。
そして迎えた初防衛戦、名城はリングで本来の姿を見せることはできなかった。前に出たら同じ悲劇を繰り返すかもしれない、という恐怖が彼から攻める姿勢を奪っていた。辛くも判定勝利だったが、大きな課題を残すことになってしまった。
そんな迷いの中、あるボクシングの試合会場を訪れていた客席の名城に声をかけてきたのは、葬儀の時にはまともに顔を見ることができなかった田中聖二の父・清和さんだった。生前の田中と親交の深かった選手の試合を見に来ていたのだ。
突然のことに名城は言葉が見つからなかった。すると清和さんは「済んだことだ、くよくよするな。目指しているんだったら世界をとれ!」と励ましたのだ。
事故の重圧に押しつぶされそうになるが、今だからこそ少しでも前に出ることが必要だった。名城は田中の墓に花を供え、次に来る時は世界チャンピオンのベルトを持ってくると誓った。
そしてついにチャンスが巡って来た。対戦相手は世界チャンピオンのマーティン・カスティーリョ(メキシコ)。アマチュア時代にはオリンピックに出場し、これまでに4度の防衛に成功する正真正銘最強の世界チャンピオンだ。
戦前の予想はチャンピオンの圧倒的有利。しかし名城にとってそんなことはどうでもよい、全力で挑むだけだった。
2006年7月22日、ついに宿命のゴングが鳴った。試合開始から名城はかつてのように果敢に相手に攻めていった。
王者もその壁の厚さを見せつけたが、名城のストレートが王者を捉え、左目からの出血が激しくなった。迷わず前へ進む名城だったが、王者の出血が次第にひどくなると、名城の手が突然止まってしまった。
リングサイドでは、名城が手を止めてしまうことを心配していた。カスティーリョの出血が田中のことを思い出させてしまうかもしれなかったのだ。
しかしその時、客席から「前へ出ろ!」という大きな声が聞こえた。田中が所属していた金沢ジムの金沢会長だった。その声は名城に田中の声を思い起こさせたのか、再び前へ出た。
そして10ラウンド開始1分、レフェリーがカスティーリョの出血具合を見て試合を止めた。名城は10回TKO勝利をおさめ、新王者誕生となった。金沢会長は、よその選手が勝って涙が出たのは初めてだった、と名城の勝利を思い出す。
名城はベルトを手に田中の墓前に勝利を報告した。
自分はやりきる限界までボクシングをするしかない、それが自分の気持ちの通し方だと思っている、と名城選手は話す。
昨年の12月2日には初防衛に成功した。先日行われた2006年度年間優秀選手表彰式では、その活躍が認められ殊勲賞を授与された。
チャンピオンになったからそれで終わりではなく、強くなれる限界まで強くなること、それが自分の義務なのではないかと感じている、と名城選手は話す。
プロデビューからわずか9戦。彼のボクシング人生は今始まったばかりだ。