戦場のラストサムライ
2003年10月19日の海上自衛隊観艦式に、84歳という高齢で心臓病を患いながらも元イギリス外交官のサムエル・フォール卿が参列した。サーの称号を持つ彼にはどうしても日本を訪れたい理由があった。
案内された艦内で、サー・フォールはしみじみと65年前の壮絶な真実を語った。それは、戦後の長きに渡り日本人の誰もが知らなかった奇跡の話だった。
第二次世界大戦が勃発した翌年の1942年2月28日、ジャワ海スラバヤ沖で物語は始まった。当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、イギリスを始めとする連合国艦隊は連日猛攻撃を浴び、フォール中尉の乗った駆逐艦・エンカウンターも3隻の戦闘艦に包囲されていた。
エンカウンターは攻撃を受け、エンジンが停止し乗員達は脱出するしかなかった。3月31日午後2時、全員が救命ボートで脱出し、エンカウンターは海に沈んだ。
だが本当の地獄はここからだった。船から流出した重油で多くの者は目が見えなくなった。近くには沈没した他の船の乗組員を含め400名以上が漂流していた。
8隻の救命ボートでは不十分で、漂流しながらしがみつくのがやっとだった。しかしフォール中尉は、沈没する前に打ったSOSの信号を受信できる距離に味方のオランダ軍基地があったため、すぐに救助が来ると思っていた。
しかしいつまでたっても救助は来なかった。怪我をした足を魚につつかれ、不安の中でサメに襲われたとパニックに陥る者達も多かった。諦めそうになる者も多かったが、フォール中尉は「家族を思い出せ、生きて故郷に帰ろう」と励まし、自分にも言い聞かせた。
漂流から20時間が経ち、絶望感から自殺しようとする者も現れた。その時、フォール中尉達の前に船の姿が見えた。しかしそれは日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」だった。
乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、数日前の海戦では連合国軍の船3隻を撃沈するなど、その威力を見せつけていた。
指揮をするのは艦長・工藤俊作少佐。身長185cm、体重90kgの堂々たる体格の孟将だった。
雷の乗組員が、多数の浮遊物に気づいた。工藤少佐は、潜水艦の潜望鏡が見えないかどうか確認するよう、航海長の谷川清澄中尉に指示した。この2ヶ月前にアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けていた上、前日には日本の輸送船が敵の潜水艦に撃沈されたばかりだった。
油断できない海域だったため、戦闘用意が指示された。しかし浮遊物が敵のイギリス兵らしく、400名以上いることも伝えられた。だが念のため潜望鏡がないかさらに確認するように指示が出た。
戦場に情けは無用。事実、前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃され、158名が死亡するという悲惨な出来事も起こっていた。
工藤の船は漂流者を射程距離に捕らえた。この時工藤が見たのは、ボートや瓦礫に捕まり、必死に助けを求めるイギリス兵たちの姿だった。いつ潜水艦に襲われるかわからない危険海域で、艦長に全ては委ねられていた。
フォール中尉たちが最期の瞬間を覚悟した時だった。工藤艦長は、敵兵を救助するよう指示を出した。駆逐艦には、救難活動中を示す国際信号旗が掲げられた。
兵士達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑った。しかし、海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道、それが工藤にこの行動を取らせた。敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできないのだ。兵士達もこの考えに従うことになった。
世紀の救出劇が始まった。まずは自力で上がれる者に縄梯子などを差し出したが、イギリス兵たちは病人たちを先に救助するよう求めた。日本兵達は病人達を担いで雷に引き上げた。
また、イギリス兵達は最後の力を振り絞って雷に向かって泳いだ。だが、21時間の過酷な漂流ですでに限界を超えていた。自力で上がれる者がほとんどおらず、救助の手はとても足りなかった。すると工藤は、一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意を命じた。最低限の人間を残し、全員で救助活動に当たることになったのだ。ここで兵士達は覚悟を決めた。ただ工藤は220名の命を預かる艦長として気を緩めることはなかった。
イギリス兵たちの救助は続いた。だが体力の限界を迎えていた彼らは自力でロープも棒も掴むことができなくなっている者もいた。そんな彼らを、日本兵達は海に飛び込んで抱えて救助した。
敵も味方もなかった。救助活動を見ていた工藤は、魚雷搭載用のクレーンでも何でも、使えるものは何でも使って救助するように指示した。甲板では日本兵がイギリス兵達の汚れた体を優しく拭き、自分達にとっても貴重だった真水や食料を惜しみなく与えた。
やることはやったと思っていた兵士達だったが、工藤はさらに他の漂流者を残らず救助するように指示した。遠方に一人でもいたら船を停止し救助した。全員を救助し終った時、その数は日本の乗組員の倍近い422名にのぼった。
サー・フォールは、全員を救おうとした工藤艦長のフェアな態度こそ、日本の誇り高き武士道なのだろうと感じたという。
救助活動が終ると、工藤は士官のみを集合させた。そして「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と英語で伝えたのだ。
名誉ある442名は翌日、ボルネオ島の港で日本の管轄下にある病院船に捕虜として引き渡された。
終戦後、サー・フォールは家族と恋人の待つ祖国イギリスに帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官として勤め上げた。
1996年、彼は自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という自伝にまとめた。その冒頭には「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた工藤俊作に捧げる」と書かれている。
サー・フォールは自分が死ぬ前に工藤艦長に会いたくて日本を訪れた。しかしその時、工藤の消息は掴めなかった。
実は工藤が別の船の艦長になった1942年、雷は撃沈され乗組員全員が死亡した。工藤はそのショックからか戦後は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らした。そして昭和54年1月4日、77歳でこの世を去った。
自らのことを工藤は語らなかったため、サー・フォールが来日しなければ誰にも知られることはなかった話。
この救助劇はサー・フォールの話に感動した元自衛官の手により「敵兵を救助せよ」(惠隆之介・著/草思社・刊)にまとめられた。
惠氏は工藤元艦長の家族にも取材をしたが、誰もこの話を知る人がいなかったという。戦争で部下達を失った悲しみが、彼の口を閉ざしたのだろうと感じたという。
さらに救助活動に加わった元航海長の谷川氏は、当たり前のことをしただけだと工藤元艦長なら言うだろう、と話す。
サー・フォールの日本人に抱く印象に影響を与えた彼の武士道。尊敬と感謝の念を今も抱いている、とサー・フォールは話してくれた。工藤元艦長の残した真の武士道の姿は、今も多くの人の心に生き続けている。
工藤は自らのことを何も語らずに亡くなったが、生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。
サー・フォールは敵を敬う武士道を、子供や孫達にも話したという。いつか世界中の人たちが仲良くなれるきっかけになることを祈って。
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◆「奇跡体験!アンビリバボー」よりhttp://www.fujitv.co.jp/unb/contents/prevfrm.html
◆【動画】上記動画が「沖縄県民斯ク戦ヘリ」さんにアップされています。 是非見てください。 感動します。http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-85.html#more