渡嘉敷村の守備隊長・故赤松嘉次元大尉 沖縄戦「住民自決命令」の真実 国際派日本人養成講座より転載
■■ Japan On the Globe(472)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
Media Watch: 悪意の幻想 ~ 沖縄戦「住民自決命令」の神話
「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要
した」との神話が崩されつつある。
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■1.日本軍が『集団自決』を強要!?■
「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との
「説」に関して、いま裁判が行われている。この「説」は高校
や中学の教科書にも登場する。[1,p336]
犠牲者のなかには慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本
軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住
民も含まれており・・・(三省堂の高校日本史A)
軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集
団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)
裁判というのは、集団自決が起こったとされる座間味島の守
備隊長だった梅澤裕・元少佐と、渡嘉敷村の守備隊長だった故
・赤松嘉次元大尉の弟・赤松秀一さんが原告となり、『沖縄ノ
ート』などで長らくこの説を流布してきた大江健三郎氏と岩波
書店に対して、出版停止と謝罪広告、慰謝料2千万円を求めた
ものだ。
■2.遺族援護のために「命令を出したことにしてほしい」■
判決はこれからだが、この「説」が事実でないことを示す決
定的な証言がすでに出ている。
第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島
で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人
・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)
=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病
者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令とい
うことにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とす
る住民は1人もいなかった」と証言した。・・・
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となって
いたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱
いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていし
ん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)
に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同
意を得たという。・・・
照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さ
なければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるた
びに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。[2]
■3.「全島民、自決せよ」■
「自決命令神話」を最初に世に広めたのは、昭和25年8月に
沖縄タイムス社から出版された『鉄の暴風』である。この本で
は、当時の状況を次のように描写している。
昭和20年3月26日、米軍の一部が渡嘉敷島の海岸数カ所
から上陸を始めた。赤松大尉率いる守備軍は、渡嘉敷島の西北
端の西山A高地に移動した。
・・・移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を
通じて、民に対し、『住民は捕虜になる怖れがある。
軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集
結せよ』と命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉
の伝言として、『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕し
よう』ということも駐在巡査から伝えられた。・・・
住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、
大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大
尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入る
べからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
・・・
二十八日には、恩納河原付近(JOG注:西山A高地の一帯)
に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松から
もたらされた。
『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の
必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍
に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。
住民には自決用として32発の手榴弾が渡されていたが、こ
の時さらに20発増加された。住民たちは各親族どうしが一塊
になって、その中心で手榴弾を爆発させた。
手榴弾はあちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、
次々と谷間に、こだました。瞬時にして----男、女、老人、
子供、嬰児----の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光
景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒
で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親
しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、
あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納
河原の谷水は、ために血にそまっていた。[1,p51]
■4.「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」■
作家の曽野綾子氏は渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞
した人たちの証言を丹念に集めた。
上の引用で、赤松大尉から自決命令を伝えたとされる「島の
駐在巡査」安里喜順氏は、赤松大尉に民をどうするか相談
にいった時のことをこう語っている。
そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところ
は、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは
非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きて
くれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、
部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということ
だったです。
しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築す
るところだし、何が何だかわからないまま、せっぱつまっ
た緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかった
わけです。[1,p145]
『鉄の暴風』が言うような安全な「壕」など存在しなかった。
部隊は米軍の「砲煙弾雨」の下で、穴一つなく「今から陣地構
築する」という状況だったのである。
そんな状態の部隊に、住民が混じれば、一緒に攻撃を受ける
ので、かえって危険である。少なくとも住民が部隊と離れて避
難していれば、米軍が非戦闘員への攻撃を禁じた戦時国際法に
従う限りは、かえって安全だ。赤松大尉の判断は軍人として適
切だった。
恩納河原には、住民達がいざという場合のために作った避難
小屋があった。住民たちはそこに逃げ込んだ。
しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集
心理で半狂乱になっていますからね。恐怖にかられて・・
・・この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わから
んでしょう。[1,p147]
その混乱の中で悲劇は起こった。
■5.「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」■
曽野氏が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっ
ても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が
死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、
赤松・元大尉はこう答えた。
手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵(JOG注:
部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍
ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやら
れて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したの
です。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいて
いない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだっ
たと思います。[1,p153]
村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不
発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らな
かった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。
彼女たちは曽野氏にこう語っている。
A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。
B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、
早まったことをしたなあ」
C 「誰が命令したねえ」
D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」
と言った。[1,p172]
これが集団自決を知った赤松隊長の反応であった。4人はこ
の赤松隊長の言葉で気を取り直し、米軍の砲撃下を他の人びと
とともに避難して、無事生き延びたのである。
■6.「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」■
曽野氏が当時の多くの体験者から集めた証言から浮かび上がっ
てくる赤松隊長像は、『鉄の暴風』に描かれた全住民に自決命
令を下す悪魔的な人物とはほど遠い。
古波蔵・元村長はこう語っている。
(事件から)一週間経って軍陣地から恩納河原へ帰った
時は状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が
来ましてね。いろいろ治療もしてくれました。[1,p142]
治療をした若山・元衛生軍曹は、それを赤松隊長と軍医から
の命令であった、と断言している。
また女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言では:
私は(JOG注:終戦間近の)7月12日に、赤松さんのと
ころへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことある
んですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒ら
れて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさ
いと言って戻された。[1,p270]
この古波蔵蓉子さんたちも、衛生兵が治療した人々も、そし
て前節の4人の女性も、赤松大尉によって救われた人々である。
こうした証言を読めば、赤松大尉は自決命令どころか、地元住
民たちになんとか戦火の下で生き延びて貰いたいと、心底から
願っていた事が判る。
それにしても『鉄の暴風』は何を根拠に、いかにも見てきた
ように正反対の赤松大尉像を描いたのか。曽根氏は著者の太田
良弘氏に会って、太田氏は渡嘉敷島に行っていないこと、証言
者二人に那覇まで来て貰って取材した事を聞き出している。
この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方から
の帰還兵であった。助役の方は座間味での集団自決は目撃して
いたが、渡嘉敷島での事件は、人から聞いたのみであった。ま
た帰還兵は、事件当時まだ南方におり、当然、事件を直接目撃
していない[1,p63]。
太田良弘氏はこの二人が周囲から聞き込んだ内容を又聞きし
て、想像を膨らませて、この「文学作品」を書いたのである。
■7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」■
昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺
族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席
しようと那覇空港に降り立った。
空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤
松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰
れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」
と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は
「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。
結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達
は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。
那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で
赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言っ
た。
責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。
大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が
かかるんだ。言えない。[1,p38]
冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けら
れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて
同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな
かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が
かかるからだった。
遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔
のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁
明もせずに過ごしてきたのだった。
■8.「悪意の幻想」と闘う裁判■
赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」
と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ
ート』にこう書いている。
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の
巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが
う。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に
たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の
余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす。
・・・
このようなエゴサントリック(JOG注:自己中心的)な希
求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、
かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお
りがきたとみなしたのだ。[3,p210]
さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが
きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事
実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として
赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはと
どめがない」のは大江氏自身である。
現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見
てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴
風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾
することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと
した「悪意の幻想」の産物なのである。
この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本
国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対
する裁判が闘われているのである。[4]
(文責:伊勢雅臣)