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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「渡嘉敷島で何があったのか」 沖縄戦「住民自決命令」の真実

2007-04-08 18:09:49 | ★集団自決

渡嘉敷村の守備隊長・故赤松嘉次元大尉 沖縄戦「住民自決命令」の真実 国際派日本人養成講座より転載



■■ Japan On the Globe(472)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

Media Watch: 悪意の幻想 ~ 沖縄戦「住民自決命令」の神話

「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要
した」との神話が崩されつつある。
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■1.日本軍が『集団自決』を強要!?■

「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との
「説」に関して、いま裁判が行われている。この「説」は高校
や中学の教科書にも登場する。[1,p336]

 犠牲者のなかには慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本
軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住
民も含まれており・・・(三省堂の高校日本史A)

 軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集
団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)

 裁判というのは、集団自決が起こったとされる座間味島の守
備隊長だった梅澤裕・元少佐と、渡嘉敷村の守備隊長だった故
・赤松嘉次元大尉の弟・赤松秀一さんが原告となり、『沖縄ノ
ート』などで長らくこの説を流布してきた大江健三郎氏と岩波
書店に対して、出版停止と謝罪広告、慰謝料2千万円を求めた
ものだ。

■2.遺族援護のために「命令を出したことにしてほしい」■

 判決はこれからだが、この「説」が事実でないことを示す決
定的な証言がすでに出ている。

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島
で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人
・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)
=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病
者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令とい
うことにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とす
る住民は1人もいなかった」と証言した。・・・

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となって
いたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱
いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていし
ん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)
に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同
意を得たという。・・・

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さ
なければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるた
びに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。[2]

■3.「全島民、自決せよ」■

「自決命令神話」を最初に世に広めたのは、昭和25年8月に
沖縄タイムス社から出版された『鉄の暴風』である。この本で
は、当時の状況を次のように描写している。

 昭和20年3月26日、米軍の一部が渡嘉敷島の海岸数カ所
から上陸を始めた。赤松大尉率いる守備軍は、渡嘉敷島の西北
端の西山A高地に移動した。

 ・・・移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を
通じて、民に対し、『住民は捕虜になる怖れがある。
軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集
結せよ』と命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉
の伝言として、『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕し
よう』ということも駐在巡査から伝えられた。・・・

 住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、
大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大
尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入る
べからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
・・・

 二十八日には、恩納河原付近(JOG注:西山A高地の一帯)
に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松から
もたらされた。

『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の
必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍
に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。

 住民には自決用として32発の手榴弾が渡されていたが、こ
の時さらに20発増加された。住民たちは各親族どうしが一塊
になって、その中心で手榴弾を爆発させた。

 手榴弾はあちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、
次々と谷間に、こだました。瞬時にして----男、女、老人、
子供、嬰児----の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光
景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒
で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親
しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、
あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納
河原の谷水は、ために血にそまっていた。[1,p51]

■4.「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」■

 作家の曽野綾子氏は渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞
した人たちの証言を丹念に集めた。

 上の引用で、赤松大尉から自決命令を伝えたとされる「島の
駐在巡査」安里喜順氏は、赤松大尉に民をどうするか相談
にいった時のことをこう語っている。

 そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところ
は、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは
非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きて
くれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、
部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということ
だったです。

 しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築す
るところだし、何が何だかわからないまま、せっぱつまっ
た緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかった
わけです。[1,p145]

『鉄の暴風』が言うような安全な「壕」など存在しなかった。
部隊は米軍の「砲煙弾雨」の下で、穴一つなく「今から陣地構
築する」という状況だったのである。

 そんな状態の部隊に、住民が混じれば、一緒に攻撃を受ける
ので、かえって危険である。少なくとも住民が部隊と離れて避
難していれば、米軍が非戦闘員への攻撃を禁じた戦時国際法に
従う限りは、かえって安全だ。赤松大尉の判断は軍人として適
切だった。

 恩納河原には、住民達がいざという場合のために作った避難
小屋があった。住民たちはそこに逃げ込んだ。

 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集
心理で半狂乱になっていますからね。恐怖にかられて・・
・・この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わから
んでしょう。[1,p147]

 その混乱の中で悲劇は起こった。

■5.「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」■

 曽野氏が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっ
ても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が
死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、
赤松・元大尉はこう答えた。

 手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵(JOG注:
部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍
ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやら
れて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したの
です。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいて
いない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだっ
たと思います。[1,p153]

 村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不
発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らな
かった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。
彼女たちは曽野氏にこう語っている。

A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。
B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、
早まったことをしたなあ」
C 「誰が命令したねえ」
D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」
と言った。[1,p172]

 これが集団自決を知った赤松隊長の反応であった。4人はこ
の赤松隊長の言葉で気を取り直し、米軍の砲撃下を他の人びと
とともに避難して、無事生き延びたのである。

■6.「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」■

 曽野氏が当時の多くの体験者から集めた証言から浮かび上がっ
てくる赤松隊長像は、『鉄の暴風』に描かれた全住民に自決命
令を下す悪魔的な人物とはほど遠い。

 古波蔵・元村長はこう語っている。

 (事件から)一週間経って軍陣地から恩納河原へ帰った
時は状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が
来ましてね。いろいろ治療もしてくれました。[1,p142]

 治療をした若山・元衛生軍曹は、それを赤松隊長と軍医から
の命令であった、と断言している。

 また女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言では:

 私は(JOG注:終戦間近の)7月12日に、赤松さんのと
ころへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことある
んですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒ら
れて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさ
いと言って戻された。[1,p270]

 この古波蔵蓉子さんたちも、衛生兵が治療した人々も、そし
て前節の4人の女性も、赤松大尉によって救われた人々である。
こうした証言を読めば、赤松大尉は自決命令どころか、地元住
民たちになんとか戦火の下で生き延びて貰いたいと、心底から
願っていた事が判る。

 それにしても『鉄の暴風』は何を根拠に、いかにも見てきた
ように正反対の赤松大尉像を描いたのか。曽根氏は著者の太田
良弘氏に会って、太田氏は渡嘉敷島に行っていないこと、証言
者二人に那覇まで来て貰って取材した事を聞き出している。

 この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方から
の帰還兵であった。助役の方は座間味での集団自決は目撃して
いたが、渡嘉敷島での事件は、人から聞いたのみであった。ま
た帰還兵は、事件当時まだ南方におり、当然、事件を直接目撃
していない[1,p63]。

 太田良弘氏はこの二人が周囲から聞き込んだ内容を又聞きし
て、想像を膨らませて、この「文学作品」を書いたのである。

■7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」■

 昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺
族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席
しようと那覇空港に降り立った。

 空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤
松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰
れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」
と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は
「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。

 結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達
は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。

 那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で
赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言っ
た。

 責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。
大変なことになるんですヨ。・・・いろいろな人に迷惑が
かかるんだ。言えない。[1,p38]

 冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けら
れるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて
同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らな
かったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑が
かかるからだった。

 遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔
のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁
明もせずに過ごしてきたのだった。

■8.「悪意の幻想」と闘う裁判■

 赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」
と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノ
ート』にこう書いている。

 人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の
巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねが
う。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶に
たすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の
余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす。
・・・

 このようなエゴサントリック(JOG注:自己中心的)な希
求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、
かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのお
りがきたとみなしたのだ。[3,p210]

 さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりが
きたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事
実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として
赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはと
どめがない」のは大江氏自身である。

 現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見
てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴
風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾
することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようと
した「悪意の幻想」の産物なのである。

 この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本
国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対
する裁判が闘われているのである。[4]
(文責:伊勢雅臣)
コメント

「報道2001」 「慰安婦」と「集団自決」で大バトル!

2007-04-08 09:01:27 | ★集団自決

「報道2001」がホットな歴史テーマ「慰安婦問題」と「集団自決」を取り上げた。

出演者 

秦郁彦・元千葉大教授、

中西輝政・京都大学教授、

古森義久・産経新聞ワシントン駐在編集特別委員

姜尚中・東大教授、

藍谷邦夫・弁護士、 

高嶋伸欣・琉球大学教授

詳しいテキスト起こしは他のブログにお任せして、感想だけを述べたい。

◆「慰安婦問題」

印象に残った発言は秦教授が安倍首相の「狭義の強制云々」の発言を捉え下手な説明だとし、

「軍の強制を示す証拠は出ておらず戦後60数年たった現在でも出ていない」

「もう軍の強制はなかったと断定してよい

 

これに対し

高嶋教授:「証拠資料がないからといって強制がなかったというわけではない」

「終戦時に慰安婦に関わる証拠資料は全て廃棄した

秦教授:「そちらの方々はすぐそのように言うが、最初は証拠資料がないのは『よく探してないから』と言っていた」

「丁寧に調べても見つからないと、今度は廃棄したから言い出した」

「日本軍は全ての命令を書類で残す。何十万にも及ぶ書類の中から慰安婦関係だけを選んで廃棄するのは不可能

「仮に完全に廃棄していたとしても誰かが記憶している筈だが、これも皆無」

「それに20万にも及ぶ大量の性奴隷を誘拐していたら親戚、や近所の人の目撃証人があるはずだが、これも皆無

「それにそんな大量の朝鮮女性を誘拐していたら当時の朝鮮の男性が黙って見過ごしていたはずがない

これに対する反論はなかった。

 

◆「集団自決問題」

秦教授が決定的証拠として、

宮村幸延氏(座間味村援護係、宮里助役の弟)の梅沢・元守備隊長宛の侘び状のコピーを見せた。 

「同侘び状で宮村氏は、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたもの、と明記され昭和62年3月28日付けの親書もある」

これに対し高嶋教授は、

「宮村幸延氏は侘び状を書いた記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べている。仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられて書いたので同氏の認識や意思に基づくものではない」

と反論した。

しかし、沖縄の「市民団体」の激しいバッシングを避けて密かに座間味島を訪れた梅沢氏の立場は言わばサッカーで言う「アウェイ」の状態。

其処で宮村氏を記憶がなくなるほど泥酔させ得たとは考え難い。

一旦良心の声に耐えかねて「侘び状」を書いたが、その後の「市民団体」のバッシングや「裏切り者」と言った声に「泥酔して書いたので記憶にない」と言わざるを得なかったと考えるのが妥当だろう。

因みに当日記のように沖縄では珍しく保守意見を発信するブログにも

「沖縄人のくせに」とか「裏切り者」と言った感情的な書き込みがあるくらいだ。

昨年同じように「軍命の存在」を否定する証言をした照屋さんも当初、「匿名にしないと沖縄では生きていけない」と言っていたくらいバッシングは激しい。

「集団自決問題」の口火を切った曽根綾子氏も沖縄側からの激しいバッシングを受け剃刀の刃を郵送された事もあったという。

◆援護法社会

0歳児までも軍の協力者として「援護法」の申請をしたといわれる沖縄は「援護法社会」というらしい。(石原昌家・沖縄国際大学教授)

◆参考:政府が「軍命に書き換え」指導

援護法適用のために「軍命に書き換えた」当時の琉球政府・援護課の役人をしていた照屋昇雄さんの証言

◆【動画】軍命はなかったhttp://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/

照屋さん終戦直後の昭和20年代後半から琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人。

琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め渡嘉敷島の調査を担当した。

照屋さんは「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。 

◆参考:

渡嘉敷島の集団自決 「大尉は自ら十字架背負った」

       

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決

         ◇

近所に慰安所」 沖縄戦で住民証言

証言や研究成果について聞く参加者ら=7日、宮古島市中央公民館

 【宮古島】「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」(宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会主催)が7日、宮古島市中央公民館で開かれた。沖縄戦当時、朝鮮人慰安婦がいる慰安所に日本軍が出入りしていたことを住民が証言した。
 沖縄戦時、上野村野原に住んでいた与那覇博敏さん(73)が「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。
 与那覇さんは「最初はどこの女性かなと疑問に思ったが後で朝鮮人と知った。日本軍の兵隊が出入りしていた。最初に見たのは1944年の早い時期。終戦間際までいたので、1年数カ月は慰安所として利用されていたと思う」と話した。
 県内各地の沖縄戦当時の慰安所について調査研究している早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸(ホンユンシン)さん(28)は、慰安所が宮古島に10カ所、伊良部島に1カ所の少なくとも計11カ所確認されていることを説明した
 洪さんは過去2回の宮古島の調査で、宮古の場合は慰安所が住民の生活圏と密接に関係を持っていたことを指摘。「宮古は米軍上陸がなく、沖縄の中でも比較的被害が少なかったと言われるが、被害の大きさは死者数なのか」と疑問視した。
 さらに「日本政府は『狭義の意味で強制はなかった』とあいまいな立場を取るが、沖縄からこうしたことについて考えないといけない。性を売ることを押しつけたのは誰か何のために必要だったのかという人道に対する罪を宮古だからこそ問える」と強調した。
 洪さんは宮古島で3回目の調査を5月に予定しており、証言者を募っている。問い合わせは宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会0980(72)2774。
(琉球新報 4/8 10:19)

                   ◇

≪「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。・・・日本軍の兵隊が出入りしていた。≫

慰安所があった事も、それを軍が利用していた事も歴史的事実。

今更早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸さんが宮古島まで出向いて、

証言を集めなくとも誰も異論は唱えないと思うのだが、

新聞の大見出しで

「近所に慰安所」

<沖縄戦で住民証言>

日本軍が出入り

・・・と書かれると、何か隠されていた新事実の発見のような印象操作を感じる。

 

≪ 性を売ることを押しつけたのは誰か≫

それは直接的には女衒であり、結局は貧困でしょう。

日本軍のせいにするのなら、現在も世界中に蔓延る売春も全てが日本軍のせいになる。

 

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