狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「ヘリ墜落」は事故であり、「攻撃」ではない

2007-08-17 06:11:25 | 未分類

 
 
 
米軍ヘリ事故語り継ごう 沖国大の学生らコンサート
中日新聞 - <NOBR>2007年8月12日</NOBR>
沖縄県宜野湾市の沖縄国際大に米軍普天間飛行場の大型輸送ヘリコプターが墜落した事故から13日で3年になるのを前に、沖国大の学生らが12日、「NO FLY ZONE」(飛行禁止区域)と題するコンサートをキャンパスで開いた。 事故当時を知る最後の学年となった4 ...
ヘリ事故展示見学 普天間第2小児童「壁」にメッセージ
琉球新報 - <NOBR>2007年8月12日</NOBR>
宜野湾】宜野湾市立普天間第2小学校(出盛光朋校長)4年3組の生徒約20人と引率の登川亜紀教諭、父母らが12日午後、沖縄国際大学を訪れ、米軍ヘリ墜落事故の展示を見学した。 展示は、同日午後に沖国大の学生らによって行われた「NO FLY ZONE ...

ヘリ墜落3年 決意新た【写真】 沖縄タイムス
沖国大の減り墜落事故跡を、原爆遺跡やゲルニカの壁絵に並ぶ戦争の遺跡にしようと言う運動がある。

これに対して、8月10日のエントリーで次のように書いた。

沖国大構内に墜落した米軍ヘリコプターの油煙跡の残る壁を保存する運動には理解も出来る。

だからと言って、幸いにして一人の死傷者も出なかった事故の“壁”と、死者数10万にも及ぶ広島、長崎の原爆遺跡とを同列に扱う神経を疑う。

基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。

原爆遺跡と沖国大の“壁”を実際に見た者として、その余りにも大きな“意味”の差に、この文章をコラムとして報じる琉球新報に怒りさえ感じる。原爆遺構と沖国大の“壁”

 

基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。

ここで原爆投下のことを「大惨劇」と表したが、これでは「事故」との本質的違いを表してはいない。

「大惨劇」ではなく、アメリカによる「大虐殺」と訂正しおく。

ヘリ事故も原爆投下も主体はアメリカだが、ヘリ事故の操縦士は事故を起こす意思はなく、ましてや「加害の意思」などなかったはずだ。

ところが原爆投下機の操縦士は明らかに「加害・虐殺の意思」で原爆を投下をしている。

ここで再び言おう。

一米兵の起こした「交通事故」と人類が犯した最大の罪である「原爆投下」を同列に扱うような「ヘリ事故跡保存運動」は原爆被害者を冒涜することになる。

 沖縄には米軍基地を売り物にしているお笑い集団もいる。
 笑いの力(8月11日朝刊26面)

 

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みのもんたの「沖縄、摩文仁の丘の平和への祈り」

2007-08-16 08:31:22 | 未分類

一年ほど前だったか、俳優の藤田まことさんが当時17歳の兄が戦死した沖縄の海上に追悼の花束を投ずるTVドキュメント番組を見た。

何時になくしんみりした顔で沖縄の海に散った兄のことを語る藤田さんの言葉に胸を打たれた。

藤田さんにとって兄から送られた葉書は今でもお守りであるという。

大事にしている、1枚のはがきがある。差出人は17歳の若さで戦死した兄真一さん。海軍特別少年兵に志願し、44年8月に船で沖縄に向かったのが最後だった。はがきは出港直前に鹿児島で書かれた。真一さんは当時11歳、小学5年の藤田を「お父ゥやお母ァさんの言ふ事を聞いてしっかり勉強をしてください」と励まし、「お父ゥさんもお身体を大切にあまり無理をなさらない様に早くもとの様に太って下さい。お母ァさんも(妹の)真理子もお姉さんも皆お元気で。さようなら」と結んでいる。  (日刊スポーツ)

                    ◇

終戦記念日となると沖縄を語るタレントが必ず登場する。

昨日のTBS「朝ズバ!」は久々に登場したみのもんたが深刻に眉間にシワを寄せて沖縄戦を語った。

大田中将の有名な電文「県民斯ク戦ヘリ」で有名な沖縄の「海軍壕跡」をビデオで紹介し、電文の内容を紹介し始めた。

あれ? 沖縄のメディアが最も嫌う切り口の沖縄戦報道だ。

確かTBSの沖縄の系列局はRBC(琉球放送)だしRBCは沖縄タイムスの系列のはず。

興味を持って見ていたら、案の定 「沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

と言う電文肝心のの部分は飛ばしてしまっていた。

そして突然、戦争はいけない、

「憲法の平和主義は守るべきだ」 と論調が一気に急旋廻する。

 

そもそも、みのもんたと沖縄戦との関りは何だったのか。

この20年間、夏休み、終戦記念日には沖縄へ行っている。その理由は、沖縄が戦争の記憶をいまもとどめているからだ。「摩文仁の丘に行ってください。沖縄戦で命を失ったすべての人の名前が石に刻まれています」>

<母から聞かされた戦争の思い出――戦時中、みのがお腹にいるとき、父親が招集された。赤紙が来たのは、みのの兄のお通夜の席だったという。>

この20年間、夏休み、終戦記念日には沖縄へ行っている

一瞬冒頭の藤田まことさんの顔がダブってきて「みのもんたの父や兄も沖縄戦の犠牲者だったのか」と思ったが、・・・・

ちょっと待てよ、みのもんたは父の経営する」会社を引き継いでおり、父が亡くなったの最近ではなかったのか。

それにみのもんたの兄が戦死したとは年齢的に考え難い。

みのもんたは沖縄戦にどう関っていたのか。

大きな戦争という括りでいえば沖縄戦は日本人全部が係りがある。

だが、そのような抽象論は措いて、みのもんたの沖縄への直接の関りは何だったのか。

「この20年間、沖縄へは夏休みで」遊びに旅行していただけではなかったのか。

その証拠に、突然

「いま、憲法を変えようという動きがあるが、国と国との紛争の解決の手段として軍事力を使わない――それだけは守るべきだと思いますよ」

と護憲アピールし、沖縄戦を真摯に語るみのの姿は、

いかにも取ってつけたような感じがした。

自分をの休暇中の沖縄旅行を無理に沖縄戦に結びつけて、

旅行費用を経費として浮かすだけではなく、休暇旅行を無理やり仕事のネタにしている姿が浮かんでくる。

そう言えばやはり休暇中のビデオで何処かの高級店で東国原宮崎知事と高級料理を食べながらのインタユーらしきものも放映していた。

その時も休暇中の食費も経費で落とすのかよ、と直感的に感じたものだ。

画面では「沖縄の戦場跡で静かに平和を祈っている」なんて殊勝なことを言っていながら

その実、那覇の高級クラブあたりでドンチャン騒ぎしていたりたりして。

結局、みのもんたも「沖縄戦」を食い物にしただけ、といったら言い過ぎだろうか。

                     ◇


 “音やん”藤田まことが兄が戦死した沖縄で平和をかみしめる 

 「このシリーズのロケ地としては、これまでで一番遠い所まで来た」と語るのは、17日放送のテレビ朝日系土曜ワイド劇場『京都殺人案内28涙そうそう沖縄・音川刑事の一番長い日!』(後9・00)に主演している藤田まこと。今作の舞台となる沖縄は藤田にとっても大切な場所で、終戦の前年、6歳年上の17歳の実兄が、那覇沖で戦死したという。「兄が沖縄にある記念碑“平和の礎(いしじ)”に眠っている」と藤田。「それだけに、沖縄では性根を入れてやらなあかんと思っている。この(ロケ地の)津堅島も激戦地の一つで、100人以上の人が亡くなっているので、身の引き締まる思いがする」と緊張の面持ちで話し、平和の尊さをかみしめていた。 (ORICON Style 12月16日 11時00分)

 

 【追記】

「朝ズバ!」が尤もらしく沖縄戦を語る割には、大田中将のことを大田中尉と間違えて、番組最後で慌てて訂正していた。

当日記でも大田少将と過去記事で述べたくだりがあるが、

大田沖縄方面根拠地隊司令官が海軍壕で電文を送った時は海軍少将であり、自決後に特別進級で海軍中将に進級している。

以後の記述は大田中将に統一したい。 
 

◆「海軍壕跡」が沖縄の「平和ガイドコース」から外されているのと同じく、例年行われる慰霊祭についても沖縄マスコミは相変わらず冷たい。

今年も記事には「 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文の紹介どころか、大田中将の名前さえ報じていない。

ちなみに沖縄サミットを決定し守礼の門のデザインの2千円札を発行した小渕元首相は大田元中将の電文を常に心に刻んでいたという。

み霊4000人の冥福祈る/旧海軍司令部壕で慰霊祭【写真】 (沖縄タイムス)

昨夜のNHK「どうする、これからの日本」に出演していた沖縄のサヨクの方も「平和ガイド」だった。 

太田中将自決の地「海軍壕」が「平和ガイドコース」から外れた理由

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クーデター勃発?それとも「沖縄密約」?  防衛省の内紛 

2007-08-16 07:48:40 | 県知事選

シビリアンコントロールとは自衛隊に課された最大の義務である。

であるから、組織のトップがスカートをはいた女性であろうが誰だろうが、その命令なく行動は起こせない。 

トップの命令無しに行動すればクーデターとなる。

日経新聞の社説は当日記では余り引用しないが、昨日の社説には考えさせられる。

小池防衛大臣と森屋事務次官の確執について次のような切り口で始まる。

<この瞬間にミサイルが日本の領域に飛んできたら防衛省は、どんな対応ができるのだろう。それが心配になる内紛である。>

防衛省が自衛隊という実力部隊を抱える組織である事実を考えると、問題が多い。

事務当局の最高首脳が政治家に抵抗するのを見た自衛官たちは、政治家による軍の統制という意味でのシビリアンコントロールのあり方に疑問を持ちかねない。>

大臣・次官という序列の軽視は、上官命令を内容によっては無視できるとする空気を自衛隊内部に醸成しかねない。

<守屋氏の抵抗の背景に政治家の存在があるかどうかは明確ではない。仮にあるとすれば、自衛官たちに一部の政治家と結んで要求を実現する道もあると教える。戦前の軍部がとった危険な手法に近い。

各省の事務方と新任の大臣との確執は小泉新政権の時の田中外務大臣の時を想い出す。

そもそも事務次官とはどのような存在なのか。

各省の長である大臣を助け、府務・省務を整理し云々(国家行政組織法第18条第2項)の正確な記述ははここでは省略。

要すれば、事務次官とは大臣、副大臣等の下にあって、各省において職業公務員(官僚)が就く一般職の職員のうち最高の地位で、事務方の長といわれる。

だが、大臣、副大臣の下にありながらその省内の影響力は隠然と大臣、副大臣をしのぐ。

制度上は大臣の指揮下にあるはずだが、キャリアー官僚の中のエリートの中のエリート言われる事務次官は、

何時辞任するか分らない新任大臣に対しては、面従服背だとは良く言われること。

ましてや守屋防衛事務次官は2003年8月1日就任の異例の長期任務を誇る防衛庁の主のような男である。

チャラチャラした女大臣になめられて溜まるかと言う気持ちでもあったのだろう。

だが、小池大臣が記者会見で言うように

この問題以外にも、これまで何度も携帯で電話しても返事があるのは何時も翌日だった。 危機管理上問題だ。」

と言うことが事実だとしたら、日経社説が危惧する冒頭の文に再び考えさせられる。

この瞬間にミサイルが日本の領域に飛んできたら防衛省は、どんな対応ができるのだろう。それが心配になる内紛である。>

防衛省と言えば基地問題を抱える沖縄にとっては御馴染みの省。

小池大臣は過去に内閣府特命担当大臣(沖縄担当)を二度も勤めており沖縄では御馴染みの顔だし、環境大臣の時「クールビズ」を流行らし沖縄の「かりゆしウエア」の普及の功労者でもある。

一方守屋事務次官も03年の主任以来、沖縄のマスコミには御馴染みの有名人。

沖縄マスコミが「小池・守屋問題」をもっと詳しく報じても良いと思うのだが、意外と素っ気無い。

地元マスコミに代わって日刊スポーツが生臭い報道をしている。

強気の小池氏に「密約説」…沖縄絡みで憶測、本人否定  (8月15日 21:13)
守屋武昌防衛事務次官の更迭を強く求める小池百合子防衛相をめぐり、「守屋氏と対立する沖縄県側と密約があったのでは」との憶測がくすぶっている。基地問題で強硬路線を唱える守屋氏を更迭し、代わりに普天間飛行場の移設問題で県側に理解を求めるという筋書き。守屋氏の人事と移設手続き開始が「同時進行」しているのは不自然というのが根拠で、小池氏は火消しに躍起だ。

 「事務次官が書類を上げるプロセスがあるが、正式なものが上がってきていない」。塩崎恭久官房長官は15日午前の記者会見で、守屋氏の後任を決める人事検討会議が、27日に予定される内閣改造後になるとの見通しを示した。

 しかし小池氏は、同日午前の会見で「私は手順的に何も間違えていない。役所の意思決定を明確にするのは大臣の役割」と強気の姿勢を崩さず、午後には米軍普天間飛行場移設予定地の沖縄県名護市に入った。

 在任5年目に入った守屋氏は「県側の要求に譲歩してばかりでは移設が進まない」というのが持論。一方の県側は、日米両政府が決めた普天間飛行場代替施設のV字形滑走路案に反対。移設に向けた環境影響評価(アセスメント)手続きの第一段階となる「方法書」の受け取りを拒否し、守屋氏と対峙(たいじ)してきた。

 小池氏は今月7日、守屋氏に退任を通告し、那覇防衛施設局は同日、方法書を県に送付。小池氏はすぐさま訪米し、8日にはゲーツ国防長官に移設進展を報告、歓待を受けた。このため関係者から「展開があまりにスムーズだ」と“疑惑”が浮上。防衛省や沖縄で「県側が方法書受け取りを容認し、引き換えに小池氏が守屋氏更迭で動いた」との見方が広がった。

 小池氏は15日の会見で「そういうストーリーが流れるのは非常に遺憾」と強調したが、今回の名護市入りが訪米前に決まっていたこともあり、密約説は収まる気配がない。16日まで名護市に滞在する予定の小池氏は、島袋吉和名護市長との会談も取りざたされており、動向に注目が集まっている。

(2007年8月15日21時13分  スポーツ報知)

 

                      ◇


日本経済新聞・社説2 

積年のウミ出た防衛省内紛(8/15)

 この瞬間にミサイルが日本の領域に飛んできたら防衛省は、どんな対応ができるのだろう。それが心配になる内紛である。次官人事をめぐって小池百合子防衛相に守屋武昌次官が抵抗する光景は、防衛省が自衛隊という実力部隊を抱える組織である事実を考えると、問題が多い。

 守屋氏に退任を求め、後任に警察庁出身の西川徹矢官房長をあてたいとする小池氏の行動には、手続き面で問題があった。が、中央省庁の人事権は原則的に大臣に属するのも事実である。守屋氏の抵抗は防衛省に特有の問題を想起させる。

 事務当局の最高首脳が政治家に抵抗するのを見た自衛官たちは、政治家による軍の統制という意味でのシビリアンコントロールのあり方に疑問を持ちかねない。大臣・次官という序列の軽視は、上官命令を内容によっては無視できるとする空気を自衛隊内部に醸成しかねない。

 守屋氏の抵抗の背景に政治家の存在があるかどうかは明確ではない。仮にあるとすれば、自衛官たちに一部の政治家と結んで要求を実現する道もあると教える。戦前の軍部がとった危険な手法に近い。

 7月に刊行された防衛白書で久間章生前防衛相は、防衛省への移行を機に政策官庁に生まれ変わるとする決意を述べた。私たちはその際「古い体質の内局幹部を一掃する若返り人事の断行が直ちに重要となる」と指摘した。在任4年を超えた守屋氏の退任はそれに沿う決定である。

 抵抗の中身が自身の退任ではなく後任の人選をめぐる内容であれば、一定の正当性はある。イージス艦情報が漏れた事例を踏まえ防衛省の秘密保全のあり方を強化するために警察庁出身の西川氏を起用するとの説明にどの程度の説得力があるかも明確ではないが、後任人事に問題があるとすれば、後任を育てなかった自身にこそ、一義的な責任がある。

 今回の内紛には内閣改造を前にした塩崎恭久官房長官と小池氏との政治家同士の思惑も絡む。官邸の人事検討会議がそれに絡めて議論されている。各省大臣が官僚の言うがままにならないように制度化された会議が結果的に官僚の抵抗の手段に使われるとすれば、制度設計者が考えなかった皮肉である。

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「母の遺言」を書き変える娘 揺れ動く「証言」

2007-08-15 06:53:14 | ★集団自決

証言者は法廷でで揺れ動く「証言」を指摘され、母の自責の念にかられた「遺言」を書き変えるという。

沖縄と言う密閉された言語空間では、マスコミは自分達にとって「不都合な真実」を封殺しようと必死になる。

                    *

沖縄タイムス 2007年8月14日(火) 朝刊 24面  
 
宮城さん、原告を批判/「集団自決」訴訟で報告会

 大阪地裁で七月にあった「集団自決」訴訟の証人尋問の報告集会が十三日、那覇市内であった。被告・岩波書店側の証人だった宮城晴美さんが、自著「母の遺したもの」について「話しを聞きやすかった女子青年団からの取材で、日本軍寄りでこの本を書いてしまった」と振り返り、「言葉が足りなかった部分は書き改めているところ」と語った。
 同訴訟は、沖縄戦時の慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、住民に命令をしたと著作に記されて名誉を棄損されているとして、旧日本軍の戦隊長らが作家の大江健三郎さんと岩波書店に出版の差し止めなどを求めている。

 集会で宮城さんは、著書で当時の兵事主任(助役)が住民に「集団自決」を命じたとしたことについて「助役には申し訳なく、遺族に迷惑を掛けたことを反省している」と強調。座間味島の戦隊長だった原告の梅澤裕氏には「兵事主任や手榴弾を配った部下が悪いと、自分に都合のいいことばかりを言っている」と批判した。

 報告集会は、被告・岩波側を支援している「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」の主催で約五十人が参加。

 裁判を傍聴した沖縄国際大の安仁屋政昭名誉教授は「原告側の証言はピント外ればかりだった。『集団自決』にはさまざまな背景があるが、住民が軍の強制と誘導によって死んでいったという『集団自決』の言葉の中身を、しっかりと伝えていく必要がある」と語った。

 また九月十日に那覇で予定されている所在尋問(出張法廷)が非公開とされていることについて、参加者から公開を求める声が次々と上がった。

                    

自分のついたウソの証言に自責の念にかられた宮城初江氏は「真実」を綴ったノートを娘に託した。

娘はそれを『母の遺したもの』として出版した。

それが係争中の裁判の原告側の証拠として提出された。

娘は故人となった母の代わりに証人尋問の証人として出廷し証言した。

だが、「平和活動家」になっていた娘にとって「母の遺したもの」は「不都合な事実だった。

ちなみに証言者宮城晴美氏はサヨク学者安仁屋教授の教え子である。

証言者は、亡き母の証言を否定し『母の遺したもの』の内容を書き変えて改訂版を出版すると言う。

                    *

宮城氏の証人尋問で次のことが明らかになった。

①宮城氏が、軍による自決命令があったと見解を変えたのは、わずか1月前の本年6月だということ。

②そして宮城氏自身が今も、梅澤さんが自決命令を出したと主張しているわけではなく、

軍に責任があり、そうであるなら部隊長の梅澤さんに責任があると考えるようになったに過ぎない>と言うこと。

 

宮城氏は戦後生まれであり、本来なら「集団自決」の証言者の資格はない筈。

だが、母である初枝氏が座間味島「集団自決」の唯一の生き残証人でその証言を死ぬ前にノートに綴っており、

それを娘の宮城氏が『母の遺したもの』として出版した為、証言者となった。

従って、本人の証言というより「母の証言」についての証言者である。

証人尋問で唯一本人の意見としての証言は

「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」という証言。

「そもそも軍としての命令はあったと思う」と言うことはその場に居なかった者の推量であり証言とはいえない。

しかも、そう考える(推量する)ようになったのはわずか1ヶ月前の事。

『母の遺したもの』の中で実際に自決を命令したと記述のある村の助役の妹が一月前、自分の兄である助役を庇う証言を下。

それを聞いて宮城氏は自説(母の証言)をいとも簡単に変えたのである。

助役の妹の証言とは、県議会の現地調査の時に出てきた証言である。

これにについて、裁判長が「本当にその証言でよいのですか」と聞き返したことは「母の遺したもの」の母の証言を、裁判の僅か一ヶ月前に翻したことへの不信感の表れなのでしょう。

ちなみに宮城氏が証言を変えた助役の妹の証言の出た県議員団の「現地調査」が、いかにデタラメな噴飯物だったかは次のエントリーに詳しい。

【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態

この調査には沖縄タイムスの「ねつ造記事」に対する「お詫びと訂正」というオマケ迄付いたいわくつきの調査である。

 沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

又しても沖縄タイムスが捏造記事訂正 証言続出の「集団自決」

                     *

ところで宮城証言の根拠である『母の遺したもの』の母初江氏の証言はどうなっているのか。

時間をしばし巻き戻そう。
 
 「集団自決」から37年後の、昭和57年6月。

元座間味守備隊長梅澤さんが座間味島で宮城初枝氏(宮城晴美氏の母)に再会した。

その際、初枝氏は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出し次のように語った。

「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」

そして初江氏は、梅澤さんに何度も謝罪した。


そして、その翌月の7月。

初枝氏から梅澤さんに、次のような手紙が送られた。

<真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。

今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。

何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。>(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会より)

その後、更に初枝氏から梅澤さんに、『とっておきの体験手記』と題する手記の写しも送られて来た。

それには、弾薬を渡すよう村の助役が申し出たことに対し、梅澤さんがはっきりと拒んだことが書き綴ってある。

又集団自決を命じた村の助役の実弟宮村幸延氏が、梅澤元隊長が命令したと証言したことに対して梅澤氏に詫びており、詫び状まで書いている。

                      ◇

以下は宮城氏地震の筆による「悪用された」とされる『母の遺したもの』、『母の遺言』の抜書きである。

母の遺したもの【立ち読み】

 事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。

 改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。しかしそれだけでは、また別の意味で誤解を生じさせかねません。そこで母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。

cover
                      ◇

 

『母の遺言』http://www.zamami.net/miyagi.htm

VOL.2 「玉砕」は島民の申し出 援護法意識した「軍名」証言

  母は、どうして座間味村の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは、確か1977年だったと思う。戦没者の33回忌、いわゆる「ウワイスーコー」ど呼ばれる死者のお祝いを意味した最期の法事があると私は聞き、「島の人は何を考えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

  話は1956年にさかのぼった。
  沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座簡味村では1953年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから3年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。
  この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用習されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのであるつまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるという論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。
その「隊長命令」の証人して、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。
  母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材・財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。
島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。
  それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった

軍と運命を共に

  (略)  日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊との交流は欠かせないものになっていた。その交流の中から「戦陣訓」を学び、そしで在郷軍人(退役した地元出身の軍人)からは、中国戦線で日本軍が中国人を相手にた行った残虐な仕打ちが伝えられ、敵につかまったときの惨めさが語られた。

忠魂碑の前に

  1945年3月25日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音に包みこまれる。方々で火の手があがり、住民は壕の中に穏れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。
  そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いたのである。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している、有力著の一人から一緒に来るように言われ、意味もわからないまま、四人についていったのである。
    有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けていた。

 

VOL.3「集団自決」時の社会的背景   戦争は「終戦」では終わらない

   島の有力者たちがやってはきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

軍国主義の象徴

  伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。
  「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたといってもいいだろう。
  海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は紀元2600年(昭和15年=神武天皇即位以来2600年にあたるという)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団によって1942年に建立されたものである。
  この忠魂碑というのは、「天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕影する」(『沖縄大百科事典』)ものといわれ、靖国神社と密接なつながりをもち、日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであった。
  太平洋戦争の開戦日(1941年12月8日)を記念して毎月八日に行れれた「大詔奉戴日(たいしようほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遥拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓話などであった。

元隊長との再会

  この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」ど結びつけざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見て住民がパニックを起こして家族同士の殺し合いが始まったのである。
  それは「生きで捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という、皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。
  母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げ四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、、戦後、母が“証言台”立たされたのもやむを得ないことであった。
  1980年の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出で以来、彼の戦後の生活が惨澹(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、本当のことを伝えたいと思っていたからである。

皇民化教育の本質

  (略)  母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋礫が生じ、悩み苦しんだあげくとうとう他界してしまつた。(略)                  

                   ◇

母の真実の声綴ったノートを元にを出版した『母の遺したもの』。

これを「真実の解明」に利用したら沖縄のサヨクにとって『不都合な事実』が浮かび上がってきた。

これを称して「悪用に責任感じ」とはこのお方、かなり混乱なさっている模様で琉球新報記事も支離滅裂で意味不明。

著書「悪用に責任感じ」 「集団自決」訴訟  (琉球新報 8/14 16:04) <同著が原告の主張の根拠となっていることについて「意図しない形で悪用された。『集団自決』は隊長命令ではなく島の住民が勝手にやったことと責任を転嫁して裁判が起こされ、責任を感じる」と述べた。>

 

 

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琉球新報の言論封殺にしつこく抗議します

2007-08-14 18:22:07 | ★集団自決

【再掲です】

 

琉球新報の言論封殺が続いて今日で日目です。

琉球新報の夕刊で火曜から土曜にかけての長期連載特集、

上原正稔著「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」が

掲載予定日の2007年6月19日より

読者に何の断りも無く一方的に中止になりました。

上原さんは掲載前に知人に次のように言っていました。

≪19日付からは第2話「慶良間で何が起きたのか」が始まります。
集団自決」をテーマにしたもので、作者の上原正稔氏は圧力に屈することなく執筆する≫と。

同氏の話によると、

≪沖縄で現在展開されている運動に水をかけることになる内容になるためか≫

≪担当編集者の態度に変化があり、今回の事態に至ったらしい≫とも言っているそうです。

どんな大きな圧力が働いたのでしょうか。

琉球新報は読者に連載中止の理由を一言も言っておりません。

問い合わせても「調整中」の一言で済ましています。

読者は一方的に「知る権利」を奪われています。

沖縄では今メディアの意見と違う考えは封殺される異常な事態になっています。

これでは戦前の言論弾圧と変りません。

琉球新報が連載を再開するまでこの記事を掲載し続けます。

                              狼魔人

◆参考エントリー:

「パンドラの箱」  カギを握る上原正稔氏

沖縄のマスコミは大政翼賛会か

琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

..........................................................................................................................................

【お知らせ】


「河野談話」の白紙撤回運動に

拙ブログも微力ながら署名活動を支援しています。

下記のページから「河野談話」の白紙撤回署名にご協力をお願いします。
画像

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「集団自決」   「識者」の常套・すり替え論

2007-08-14 11:33:47 | ★集団自決

週が明けて、ウェブサイトで見る限り地元新聞の「集団自決」関連記事は大人しくなったと思ったが、

手元の琉球新報をめくると次のような見出しが目に飛び込んだ.

<識者評論 歴史のねつ造> 長山靖生(評論家)

事実のわい曲は死者の冒涜

「集団自決」強要否定は強引

御馴染みの「ねつ造」と「わい曲」の二文字の勢ぞろいである。

この「識者」の評論家先生、どのようなご高説を垂れるかと斜め読みしてみたら、

結局は、陳腐な「一億総玉砕」、「生きて虜囚の辱めを受けず」というスローガンを持ち出して、軍命令の根拠にしている。

この先生「問題の本質」は理解していない「識者」のようだ。

スルーしようかとも思ったが、典型的な「識者」の評論として煩雑を省t利で、サワリの部分を引用する。

<・・・近年、歴史教科書から、沖縄戦の際に軍部による自決の強制があったという記述が削除された。 沖縄の民間日本人は勝手に死んだ、というのだろうか。

軍隊の中のどの、人物が命令を出したのか、という詮議(せんぎ)はこの際措(お)こう。>

ここまで読んで、おっと、現在論議の的の肝心な部分を「この際措いて」もらっちゃ困る、と思わず呟いた。

論点を摩り替えるサヨクの常套手段だ。

後は読まずと内容は予測できる、が念のため引用する。

<・・・しかし当時、日本政府は「一億玉砕」、「生きて虜囚の辱めを受けず」とも教えた。 そして沖縄では軍人が民間人に残った手りゅう弾や銃を渡したのだ。 これで自決の強要はなかったというのは。あまりに強引だ。

当時、小学生だった私の両親は「本土決戦になったときに、ちゃんと死ねるかどうかが不安だった」といった。>

「一億玉砕」、はともかく「生きて虜囚の辱めを受けず」については、異論がある。

「生きて虜囚の辱めを受けず」は「戦陣訓」の一節である。

戦時中、一兵卒だった司馬遼太郎氏の述懐では、「戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」としているし、同じく著名作家の安岡章太郎氏も同じようなことをなにかの本で書いていた。

と言うことは「生きて虜囚の云々」についても戦時中でも兵隊にさえ良く知られておらず、戦後有名になったと言うこと。

それは、グアム島から帰った横井正一氏の口を介して戦後の後付として誇大に語られるようになった。

「軍人勅諭」はともかく、軍人さえうろ覚えの「戦陣訓」の「生きて虜囚云々」に民間人が縛られて命まで自ら絶った、

と言う決まり文句はサヨク「識者」の戦後の後から付け足した屁理屈である。

>当時、小学生だった私の両親は「本土決戦になったときに、ちゃんと死ねるかどうかが不安だった」といった。

いざと言う時に「死ねるかどうかが不安だ」と言う気持ちは敗色濃厚だった当時の日本人が持つ共通の不安感であり、

実際に地上戦の経験をした沖縄住民が死ぬ手段を求めて彷徨ったとしても無理はない。

死ぬ手段を求めて「ネズミ殺し剤」(殺ソ剤)を捜し求めたと言う証言もある。


【集団自決】 「島民は死ぬ手段を求め島を彷徨った!」
【再掲】

「鬼畜米英」は女子供を強姦し八つ裂きにして殺されると信じていた。

 圧倒的戦力の米艦船に小さな島を取り囲まれ、艦砲射撃を受けて村民はパニックに陥っていたのではないか。

その結果逃げ回っている最中に日本兵に遭遇し、手りゅう弾を渡されたのは、その日本兵の思いやりではなかったのか。

沖縄タイムスが捏造した上洲さんの記事でも、自分で命を絶つ手段が無く、切羽詰って殺ソ剤(ネズミ殺し剤)で死のうと思ったと証言している。。

このような状況で逃亡中、手りゅう弾をもらったら少なくとも「軍命令」というより「渡りに舟」の心境ではなかったのか。 

 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(沖縄タイムス 7月7日)

(注):沖縄タイムスは、後段の「梅沢部隊長・・・」以下のくだりは誤報として訂正記事を出している。 

                      ◇

圧倒的物量を誇る米軍の上陸に沖縄戦の守備隊はなす術もなく、

出来ることは残り少ない手りゅう弾を分け与えることが

せめてもの親切だったとは考えられないのだろうか。

歴史を現在の基準で判断すると大きな過ちの穴に陥ってしまう。

現在の平和な時代、「手りゅう弾」などと聞くと「悪魔的」な印象を持つのもやむを得ない。

だが、米軍の攻撃を受けてパニック状態の住民にとって手りゅう弾は「悪魔」ではなくより楽に死ねる「天使」にも思えたとしても可笑しくないだろう。

当時の沖縄住民が、手りゅう弾の方が「ネズミ殺し」や「舌を噛み切る」より楽だと考えたとしもおかしくはない。

満州ではソ連軍の侵攻直前、日本人住民は残り少ない毒薬を奪い合って、それを、もしもの時のお護りにしたという証言も有るのだ。


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中国の映画監督が「歴史を鏡に」?お前の国には言われたくない! 

2007-08-14 08:00:51 | 歴史

世迷言  東海新報 ☆★☆★2007年08月12日付

 中国の首脳部は「してやったり」とほくそえんでいることだろう。一度切り損ねた外交カードが、これからも使えそうなことがはっきりしたからだ。「全閣僚靖国参拝せず」という主見出しに「終戦記念日・内外反発避ける狙い」という脇見出しは、主権国家が主権を放棄したに等しいていたらくを物語っている▼「靖国カード」が“発効”していたのは、小泉前首相以前の歴代内閣まで。その呪縛を経ちきったのは、むろん小泉さんで、とどめの一発は終戦記念日の八月十五日をわざわざ選んで参拝したことだった。それまで首相の靖国参拝に対する賛成、反対はほぼ拮抗(きっこう)していたものが、直後の世論調査では賛成が急上昇した。これは中韓の内政干渉に対する嫌悪感と、困難を恐れずに立ち向かった小泉さんの勇気に贈られた賛辞だった(略)

                     ◇

 中国の江沢民主席は、98年の訪日で「歴史を鏡に」を繰り返し、傲慢不遜な態度で心ある日本人の反発をかった。

中国にとっての「外交カード」は「歴史カード」。

「歴史カード」と言えば「靖国問題」。 その象徴的言葉が「歴史を鏡に」である。

小泉首相によって無力化された「外交カード」がまたぞろ復活したようだ。

評判の悪かった江沢民の「歴史を鏡に」は撤回したのかと思っていたら、どっこい中国は日本へ対する「歴史カード」を簡単に手放すはずは無かった。

最近出版された江沢民の「文選」三巻には依然として日本へ「歴史を鏡に」と歴史カードの有効性を強調している。

<・・・江主席の多弁と関連したユーモアも多い。そのうちの1つ。江主席は外賓のうち2つの国の客は必ず自分が会わなくてはならないと我を通した。米国と日本だ。米国代表団は江主席本人が英語がうまいから、日本人は歴史を知らないから自分が教える必要があるというものだった。日本に対する中国の立場は今も「歴史を鏡にして未来に向かおう(以史為鑑面向未来)」だ。

  江主席の言葉と文を盛り込んだ『江沢民文選』が数日前出版された。文選は中国の偉大な指導者に与えられる栄誉だ。党の中央文献編集委が編集し、人民出版社が出版する文選なので毛沢東、小平ら数少ない人物にのみ与えられた。>(中央日報)http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=78833

 

筆者は「歴史を鏡に」という言葉を聞くと反射的に江沢民の天皇陛下の前での無礼な人民服姿を連想し今でも腹が立つのを押さえ切れない。(江沢民の宮中晩餐会

今頃江沢民が「歴史を鏡に」なんて言おうものなら日本人の反発を食ってしまうだろう。

ところが沖縄だけは例外なのか。

昨日の琉球新報は江沢民に代わって中国の映画監督の作品を通じて、「歴史を鏡に」と言う中国のメッセージをコラムを使って伝達し、中国人監督の言葉を使って、ありがたい歴史の講釈をしている。

このコラムは、琉球新報が中国の政治プロパガンダ紙であることを証明している。

金口木舌2007年8月13日掲載  
 「以史為鑑」(歴史を鑑(かがみ)とする)。上映中のドキュメンタリー「ガイサンシーとその姉妹たち」の中国人監督、班忠義(バンチュンイ)さんの言葉が耳に残る
▼作品は中国山西省に侵攻した日本軍に拉致監禁され、性暴力を受けた女性たちを描く。被害者が絞り出す証言は筆舌に尽くしがたい
▼この日本軍部隊はその後、沖縄守備軍の一翼を担い、暴行や略奪などの問題を起こした。彼らを沖縄に運んだ「対馬丸」は、九州へ疎開する多数の学童を乗せたまま撃沈されている
▼山西省の侵攻部隊には県人も含まれるが、戦場体験はなかなか語られない。ある兵士は「上官の命令は天皇の命令。命令に黙々と従う『蟻の兵隊』だった」と証言する。彼らの一部は、日本軍首脳と中国軍閥が結んだ「密約」により、敗戦後も中国に残留して内戦に参加させられた
▼日本政府は「慰安婦」問題の直接関与をあいまいにし、沖縄戦の実相を薄め、軍命の犠牲になった「蟻の兵隊」の存在を認めない
▼歴史の鏡には国にとって「不都合な真実」も映っているが「日本が鏡から目を背けても、世界は同じ鏡を見ている」(班監督)。目を凝らして鏡に映る事実を謙虚に受け止められるかどうか、私たち世代の課題だ。 (琉球新報 8/13 10:04)

                      ◇

新報紙が中国人映画監督の口を借りてまで、歴史の講釈を垂れないでも日本人は先刻「歴史を鏡に」して聖徳太子の教えを護り中国とは一定の間を保って付き合ってきた。

なればこそ、学ぶべきものは学び、科挙、宦官、纏足、官僚賄賂による地方統治そしてアヘン吸引といった腐敗堕落の元は見事に日本の歴史から削除しているではないか。

兼好法師も既に鎌倉時代には「唐に学ぶものは薬以外に無し」と断言しているし、明治期の先哲福沢諭吉も「脱亜論」で中国をとの付き合いに警鐘を鳴らしているではないか。(ゾマホン、諭吉の「脱亜論」

その後は福沢諭吉の教えを無視し「五族共和と言った甘言に惑わされて中国に深入りして失敗したことこそ「歴史を鏡に」学ぶべきではないか。

「歴史を鏡に」⇒ 「中国には深く関わるべきではない」。(福沢諭吉)

中国自身が「歴史を鏡に」映してみたら綿々と続く腐敗堕落の姿が映し出されるだろう。

そして日本のように歴史に学んで腐敗堕落を取り除いたら、

鏡には何も映らぬ己が姿に驚くだろう。

 

参考:兼好法師の『徒然草』

【百二十段】
唐の物は、薬の外はみななくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。もろこし船のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所せく渡しもて来る、いと愚かなり。
「遠き物を宝とせず」とも、また、「得難き貨を貴まず」とも、文にも侍るとかや 。

 


 

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明日は興南登場! かつての主将は今は名将 我喜屋優監督

2007-08-13 13:54:18 | 県知事選

夏の甲子園で沖縄代表興南高校が明日の第二戦の第四試合で二勝目を狙う。

興南―文星付 あす激突/足絡め確実に1点狙う(沖縄タイムス)

「名選手必ずしも名監督ならず」の例は多いが西日本新聞は興南高校の我喜屋監督のことを「かつての主将が名将に 」と書いた。

野球弱小県と言われた沖縄も今では全国屈指の強豪県に成長している。

選手だけではない。

監督も選手とともに成長し、沖縄以外の全国各地でも指導者として実力を発揮している。

昨日、星陵高校に勝って二回戦に進出した長崎日大の金城監督は、99年センバツで沖縄尚学を優勝に導いた沖縄出身者。

金城監督は、夏の甲子園で昨年の就任以来初勝利。

「絶対に校歌を歌うぞと言っていた。きょうは思い切り歌わせてもらいました」と喜びを表した。

恩師で沖縄水産の監督として名をはせた栽弘義氏が5月に亡くなった。

「(栽監督に)負けないチームを作りたいと思っていた。(亡くなられた)その年に甲子園に出られて勝てたのはうれしい」と感慨深げに話した。(サンスポ)

ウチナンチュとしては我喜屋監督率いる沖縄・興南と金城監督率いる長崎日大の甲子園での激突も見てみたいものだ。

興南の活躍を地元紙が騒ぐのは当然として、

全国紙の毎日新聞が我喜屋新監督をコラムで取り上げた。

以下に全文紹介する。

                      ◇

 

余録

我喜屋優監督
 沖縄県勢で初めて夏の甲子園に出場したのは1958(昭和33)年の首里高校だ。初戦で敗れたナインが持ち帰ろうとした甲子園の土は、植物検疫法に触れるため、那覇港で海に捨てられた。米国の統治下だった時代の悲話だ▲その10年後、沖縄代表の興南高校が甲子園でベスト4に入る旋風を起こした。このときの主将で4番打者が今年、24年ぶりに興南高校を甲子園に導いた我喜屋優監督だ。我喜屋さんは高校を卒業後、静岡の社会人野球の強豪、大昭和製紙に入社し、72年に転勤で北海道白老町に移った▲沖縄育ちの我喜屋さんには経験のない寒さが待ち受けていた。だが、その地で34年も野球漬けの日々を過ごした。栄光と挫折も味わった。74年に大昭和製紙北海道は都市対抗で優勝、北海道に初の黒獅子旗をもたらした。一方で、不況のためチームは何度も休廃部の危機に見舞われた▲監督就任3年後の93年、ついに廃部が決定した。だが、野球好きの白老の住民は我喜屋さんや選手たちを見捨てなかった。地元企業や自治体が資金を集め、クラブチーム「ヴィガしらおい」として復活。結成2年目の95年に念願の都市対抗に出場した。地元への何よりの恩返しだった我喜屋さんは97年のチーム解散後も北海道に残り、野球指導や講演に走り回った。こんな縁も生まれた。隣接する苫小牧市の駒大苫小牧の監督に佐賀出身の香田誉士史監督が就任すると、慣れない雪上トレーニングを手ほどきしたのは我喜屋さんだ▲昨年夏、母校からの監督就任要請に「体力的にも最後のチャンス」と決断した。就任4カ月で沖縄代表となり、甲子園の初戦も突破した。広陵に負けた駒大苫小牧の借りは自分たちが返す。我喜屋さんはそう思っているに違いない。

毎日新聞 2007年8月12日 0時40分

                    ◇

かつての勤務地北海道の白老の皆さんも我喜屋監督率いる興南高校の活躍に北の空から声援を送っているという。

我喜屋監督率いる興南の勝利に、白老関係者も笑顔
室蘭民報 - <NOBR>2007年8月8日</NOBR>
第89回全国高校野球大会の開幕日となった8日、第2試合に社会人野球の元大昭和製紙北海道で選手、監督を務めた我喜屋優監督率いる沖縄県代表の興南が登場し、岡山理大付(岡山)に3―2で競り勝った。「闘将・我喜屋」の初戦突破に、白老町の関係者の笑顔が広がった。 ...

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これも知事へのプレッシャー記事

2007-08-13 12:08:27 | ★集団自決

沖縄タイムス 2007年8月12日(日) 朝刊 1面  
 
本紙「集団自決」報道にJCJ賞/東京で贈賞式

 【東京】優れたジャーナリズム活動と作品を表彰する日本ジャーナリスト会議(JCJ)の二〇〇七年度JCJ賞贈賞式が十一日、東京都内の日本プレスセンターホールであり、沖縄タイムス社の長期企画「挑まれる沖縄戦/『集団自決』問題キャンペーン」が表彰された。取材班を代表して出席した謝花直美編集委員に、清田義昭選考委員(出版ニュース社代表)から表彰状が贈られた。
 清田選考委員は「二年前から続く長期企画で、(大阪での)裁判や(文部科学省による)教科書への介入もあり、現在も進行中。地元の身近な問題をジャーナリストの原点に立ってまとめており、キャンペーンとはこういうものだとつくづく感じた」と報道内容を評価した。

 謝花編集委員は「歴史の歪曲を許さないという県民の代表の一人として受賞したと受け止めている。沖縄の一人一人の声を原動力にして県民大会などに向け、粘り強い報道を続けていきたい」とキャンペーン継続への意欲を示した。

 謝花編集委員は〇五年にも「戦後六十年キャンペーン」の取材班を代表してJCJ賞を受賞している。

 ドキュメンタリー映画「ひめゆり」でJCJ特別賞を受賞した柴田昌平監督は「過去に向き合って戦争体験を証言してくれた『ひめゆり』の皆さんが映画を作り、受賞したと理解している。私は仲立ちしただけだ」と述べ、証言者への謝意を強調した。

 「ひめゆり」は、財団法人県女師・一高女ひめゆり同窓会が共同製作している。

                      ◇
   
沖縄タイムスが、同じ内容の記事を繰り返し一面でオーバーに取り上げるのは、

読者に真実を伝えると言う新聞本来の目的からではない。

それはひとえに県知事にプレッシャーをかける目的の為である。

「県民大会」実行の最後の仕上げは、

就任を躊躇している県知事を大会会長に担ぎ上げることである。

今週始めからでも仲井真知事に「県民大会」に引きずり込むべく、

知事に会長就任要請へ」と迫る記事を書き続けるだろう。

「毒おむすび」の仲里議長が会長では「県民大会」格好もつかないのだろう。

日本ジャーナリスト会議(JCJ)のいかがわしさについても、上記記事への突っ込みも、

繰り返しになるので次の過去ブログに委ねる。

沖縄タイムスの捏造記事がJCJ賞だって(7月28日)

とは言っても折角だからちょっとだけ突っ込ましてもらうと、

>清田選考委員は「二年前から続く長期企画で、(大阪での)裁判や(文部科学省による)教科書への介入もあり、現在も進行中。

長期企画と言うが、それも当然。

自分がばら撒いた捏造記事満載の『鉄の暴風』が「裁判」の発端だから、

異常とも思える長期企画をせざるを得ない。

長期企画は、自転車操業のようなもの。

こぐのを止めたら倒れてしまう自転車。

これが、現在の沖縄タイムスの「集団自決」報道である。

倒れるまで暴走を続けるだろう。

>謝花編集委員は「歴史の歪曲を許さないという県民の代表の一人として受賞したと受け止めている。

歴史の歪曲を許さない・・・」というフレーズは沖縄タイムスへ向かって言いたい。

「歴史のわい曲」はお前の十八番(おはこ)だろう!


参考:
「裁判」と「沖縄タイムス」と「歴教協」と「日本ジャーナリスト会議」と

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フィリピン議会で「従軍慰安婦謝罪議決」 世界を結ぶ反日の輪

2007-08-13 05:35:39 | 従軍慰安婦

前の記事で米下院の「従軍慰安婦決議」を時事ネタとしてはちょっと古いと書いたが、古いどころか太平洋を逆戻りしてフィリピン議会に飛び火していた。

肝心の日本では学術的には決着済みのこの問題も政治的妥協の産物である「河野談話」がお墨付きとなって、

まともな議論・検証も無いまま米下院で「対日謝罪決議」まで言ってしまったことは周知のとおり。

この問題に火を点けて回ったのは日本人の「反日勢力」だが、

フィリッピンでもやはり背後には「戦後補償ネットワーク」の有光健が策動していたようだ。

慰安婦決議案、比でも 日本に謝罪求める (共同通信)

記事写真
写真1
  11日、マニラで記者会見する、元従軍慰安婦の女性らと「戦後補償ネットワーク」の有光健代表(左)(共同)

 【マニラ11日共同】第2次大戦中の従軍慰安婦問題をめぐり、日本政府に謝罪などを求める決議案が11日までに、フィリピン上院に提出された。下院でも同様の動きがある。同国の元慰安婦らの団体などは同日、米下院本会議が7月末に可決した決議を評価するとともに、フィリピン議会の動きを歓迎する声明を発表した。決議案は日本政府の公式謝罪と補償や、フィリピン政府の医療支援などを求める内容。


 

[ 2007年8月11日19時21分 ]

                       ◆

上記写真でフィリッピンの「元戦地売春婦」たちに囲まれている有光健「戦後補償ネットワーク」代表と言う男、これまでも売国奴岡崎トミ子議員に付き添って韓国などで「元戦地売春婦」を探し回っていた反日勢力の実働部隊長のようである。

「酒たまねぎや URA ホームページ」よりこの男の韓国での活動の一部を引用。http://www.tamanegiya.com/ura.html

2003年2月12日に韓国の中央日報に日本の国会議員が挺身隊集会に初参加(リンク切れ)という記事と朝鮮日報には元慰安婦女性らの「水曜デモ」に参加した日本の岡崎トミ子議員という記事が載りました。保存判


<日程>
法案提出者韓国調査日程(2月8日~2月12日)
参加者;岡崎トミ子・吉川春子・大脇雅子・田嶋陽子議員
勝木一郎・有馬正秀・渡辺美奈・安田美穂子秘書  同行;有光健金英姫(キム・ヨンヒ)

南朝鮮で会った団体
韓明淑(ハン・ミョンスク)女性部長官
李美卿(リ・ミギョン)新千年民主党国会議員
金希宣(キム・ヒソン) 同上
辛正承(シン・ジョンスン)外交通商部アジア太平洋局長
韓国挺身隊問題対策協議会(引用者注:
日本の教科書に出てくる女子挺身隊を、文字面で判断して「強制連行の従軍慰安婦」と判断する不思議な会)

 

米下院本会議が7月末に可決した決議を評価するとともに、フィリピン議会の動きを歓迎する声明を発表した。

米下院の議決は「河野談話」を議決の根拠にした。

この例に倣えばフィリピン議会も議決も容易だろうし、

更には米下院の議決事態が他の国の議決のお墨付きになる。

かくして、「対日謝罪議決」の輪は世界中に拡大する。

これはもはや伝染病だ。

何らかの防疫対策を立てねば日本は滅びてしまう。

【追記】毎日新聞によると、この有光健という男、次のようにほざいていた。 

<参院選の自民党大敗で「日本の政治が変わりつつある」とし、日本政府による謝罪と金銭支給を柱とする「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」が参院で可決される可能性が出てきた・・・>(従軍慰安婦:フィリピン上院で決議案提出 日本に謝罪要求

そういえば社民党の福島党首も参院の保革逆転で舞い上がって、次のようにほざいていたっけ。

対民主強まる政策要求 社民『憲法9条守って』 国民新『民営化延期を』
東京新聞 - <NOBR>2007年8月3日</NOBR>
福島氏はかつて民主、共産、社民三党共同で提出した従軍慰安婦問題に関する戦時性的強制被害者問題解決促進法案にも触れ「ぜひ参院で成立させたい」と訴えた。

そのうちこんな戯れ歌が世界中で流行り出すかも。

<日本攻めるに原爆要らぬ 謝罪決議で攻めりゃ良い>
 

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「従軍慰安婦」  米下院決議に対する沖縄二紙の社説

2007-08-12 17:15:52 | 従軍慰安婦

時事ネタとしてはちょっと古いが、J-CASTニュースが「従軍慰安婦」の米下院議決に関する全国紙の社説を比較しているので歴史ネタとして資料保存の為文末に引用する。

<旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦について、米下院が「対日謝罪要求決議案」を本会議で採択した問題で、日本の主要新聞は社説やコラムの中で「事実誤認」「おろかな選択」「有害である」などと揃って批判論を展開した。しかし、朝日新聞だけは安倍首相が談話を表明して謝罪するよう要求しており、「孤立」が際立っている。 >(J-CASTニュース詳しくは下記引用)

自ら「従軍慰安婦」の捏造記事をばら撒いた朝日新聞が、ウソを着き続けて五大全国紙の中で孤立するのは分る。

毎日新聞まで朝日に異論を唱えている。

日頃は朝日新聞とタッグを組む毎日新聞も、さすがに「従軍慰安婦」に関しては朝日と決別せねばウソつき新聞の汚名を被ることを恐れたのだろう。

ところで、偏向新聞で高名を馳せる沖縄地元紙の社説は如何?

見事に、孤立した朝日にエールを送るヘンコウぶり。

これで沖縄の新聞は「ウソつき新聞」の栄誉を得たことになる。

◆沖縄タイムス社説 8月1日 【慰安婦問題決議】よそ事とは思えない

◆琉球新報社説(8/1)米下院慰安婦決議 やはり首相は説明不足だ  

                  

                     ◇

 

慰安婦決議で新聞「猛反発」 朝日社説だけが「孤立」

2007/8/ 1     

   旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦について、米下院が「対日謝罪要求決議案」を本会議で採択した問題で、日本の主要新聞は社説やコラムの中で「事実誤認」「おろかな選択」「有害である」などと揃って批判論を展開した。しかし、朝日新聞だけは安倍首相が談話を表明して謝罪するよう要求しており、「孤立」が際立っている。

残虐性に前例がなく、「20世紀最大の人身売買の一つ」なのか

朝日以外の新聞各紙が米「対日謝罪要求決議案」について批判や疑問をあらわにした
朝日以外の新聞各紙が米「対日謝罪要求決議案」について批判や疑問をあらわにした

   米下院本会議は2007年7月31日未明(日本時間)、旧日本軍によるいわゆる従軍慰安婦問題で日本政府に公式に謝罪を求める決議案を可決した。決議案は1月末にマイク・ホンダ議員が提出したもので、2007年6月27日(日本時間)には米下院外交委員会で可決された。決議案は、旧日本軍の「強制集団売春制度」によって、「集団レイプ」「堕胎の強制」が行われたとするもので、「残虐性に前例がない」「20世紀における最大の人身売買の一つ」などと断じられている。さらに、本会議での可決が決まった翌日の米国では、ラントス下院外交委員長が、「(日本での)性奴隷の徴用を否定する試み」について「吐き気をもよおす」とまで批判していることなどが報じられている。

   一方、国内主要紙の社説などでは「対日謝罪要求決議案」への批判のメッセージが満載だ。

   2007年8月1日付け日経新聞は「過剰反応は無用だが、日米関係への悪影響に目をつぶれない」とした上で、日本政府が安倍首相も含めて公式に謝罪してきたと強調。「日本で聞く違和感は、米先住民の過去の待遇を日本の国会が批判するのを米国人が聞く時の感覚に近いだろう」と以前同紙が主張したときと「同様の感覚を禁じえない」とした上で、

「米側での対日イメージの低下や日本国内での反米感情の高まりにつながりかねない動きは、双方にとって有害である」

   と日米関係の観点から批判している。

   同日の読売新聞は、

「明らかな事実誤認に基づく決議である。決議に法的拘束力はないが、そのまま見過ごすことは出来ない」「事実誤認には、はっきりと反論しなければならない。誤った『歴史』が独り歩きを始めれば、日米関係の将来に禍根を残しかねない」

と「事実誤認」であることを繰り返し強調。読売新聞、産経新聞はともに中国系の反日団体が決議案の提案者マイク・ホンダ民主党議員らを支援する動きがあったことを挙げている。

   産経新聞はさらに「この団体は中国政府と密接なきずなを持ち、歴史問題で日本を非難している。事実誤認を正すための官民の一層の努力が必要である」と指摘している。産経新聞に掲載された論説「産経抄」では「米議会はなぜかくも愚かな選択をしたのだろう」「厚顔ぶりにあきれてしまう」などと激しく批判している。

   また、毎日新聞の社説も、

「米国が主張する原爆投下正当化論への批判は日本に根強い。対テロ戦争やイラク戦争での人権侵害には国際法違反の指摘もある。『正しい歴史』を振りかざすだけでなく、みずからの過ちを振り返る謙虚さを米国には求めたい」

と米国の強硬な姿勢に苦言を呈した。

「軍の強制」という事実があったかを検証するのが先

   ただ、朝日新聞だけは、「対日謝罪要求決議案」について「日本の側にも原因がある」とした上で、

「決議は首相に謝罪を求めている。首相の沈黙は逆効果になるだけだ。河野談話の継承を疑われているのならば、同じような内容を安倍首相の談話として内外に表明してはどうか。それがいま取りうる最善の道だろう」

と、米国の決議案に沿った主張をしている。全国紙各誌が怒りや疑問をあらわにするなかで、いわば「孤立」しているとも言える状態だ。

   この「孤立」をめぐっては、インターネット上の掲示板などでは「いつもの朝日か」「なに?嘘を言えと言ってるの!?」などと批判されている。

   NHKディレクター出身で現在、上武大学大学院教授を務める池田信夫さんはJ-CASTニュースに対し、1992年の朝日新聞による「従軍慰安婦」報道を踏まえたうえで、「孤立」した朝日新聞の社説について次のようにコメントした。

「慰安婦問題は、ほとんど朝日新聞の捏造した『非問題』だ。『軍が慰安婦を強制連行した』という朝日の誤報で騒ぎが起き、政府が『河野談話』で謝罪したため、これが『歴史的事実』として定着してしまった。その後、国内では歴史家の検証によって朝日の報道が誤りであることは広く認められるようになったが、そういう続報は海外に伝わらないため、欧米メディアまで慰安婦をホロコースト並みの戦争犯罪と信じている。これは『女性国際戦犯法廷』をめぐる誤報以上の国際問題だが、朝日は訂正もしないで『枝葉の問題だ』と開き直っている。今日の社説では、安倍首相に謝罪を求めているが、これは順序が逆だ。政府が謝罪すべき『軍の強制』という事実があったかどうかを検証するのが先であり、その責任は朝日にある」

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参院選後に退陣した橋本氏と安倍氏の違い

2007-08-12 08:39:33 | 県知事選

 日曜日の各テレビ局は政治トーク番組が多いが今朝は森元総理が各局を渡り歩いて「安倍やめろ」と言った雑音を垂れ流しているようだった。
 
「ようだった」と言うのは、実は森氏出演の番組は良く見ていないから。
 
マスコミは参院選の開票日に森、青木、中川(女)の三人が都内某所で会合して「首相続投困難」といったとを根拠に「安倍辞めろ」の大キャンペーン。
 
そもそもこの三人の意見に安倍首相が従わなければならない理由など無いはずだ。
 
森は「サメの脳ミソ」と言われた支持率最低の首相だし、青木はマスコミが嫌う「利益誘導型」のドン、そして中川(女)はご存知の女狂いで職を棒に振った男。
 
マスコミが散々コキ下ろす三人の「密談」を金科玉条のようにして、今度は安倍降ろしにこの三人男を使うのも笑止な話。
 
朝日も「首相続投困難」と騒いでいた。
氏ら、「首相続投困難」伝えていた 安倍氏は続投貫く
朝日新聞 - <NOBR>2007年8月1日</NOBR>
自民党の元首相、青木幹雄参院議員会長、中川秀直幹事長の3人が参院選投開票日の29日、「安倍首相の辞任は必至」という見方を一時固め、安倍首相本人に「続投は困難」と伝えていたことが関係者の話でわかった。しかし、安倍首相は「いかなる結果になろうとも首相を ...

それと橋本内閣当時の江田憲司元首相秘書官も、

安倍首相の不倶戴天の仇敵「週刊朝日」のインタビュー記事で次のように「安倍辞めろ」を叫んでいる。

 
『江田憲司元首相秘書官はふりかえる98年参院選惨敗・・橋本龍太郎はなぜ総理を辞任したのか』
(聞き手 本誌・喜多克尚)
── 週刊朝日 2007/08/17号 ──

 かつて自民党には参院選敗北の責任をとって辞任した首相がいた。今回よりも7議席多い44議席で即座に退陣を表明した故・橋本龍太郎元首相もその一人だ。なぜ安倍晋三首相は先人の足跡を学べないのか。橋本政権で首相秘書官を務めた江田憲司衆院議員に聞いた。

――― 参院選で自民党は37議席と惨敗しましたが、安倍首相は即座に続投を表明しました。

江田 即刻、退陣表明するのが安倍さん自身のためでもあり、自民党のためでもありました。安倍政権はこれまで一度も国政選挙の洗礼を受けていない、民主的正当性の不足した政権でした。今回、初の審判で、首相自らのクレディビリティ(信頼性)が問われ、国民からNOと言われたのですから居座る余地はありません。潔く辞めるべきです。(以下略)

続きはこちら⇒http://www.eda-k.net/pop_win/w_asahi0708.html
ホームページはこちら⇒http://www.eda-k.net/

               ◇

こういう連中がガタガタ言うと天邪鬼の当日記は返って安倍続投を応援したくなる。

誰が首相になっても自民党の不人気は当分続くだろうし、第一、安倍に代わる人物がいるか。

今無責任に「安倍やめろ」と言う論は、想定外の地震に耐えた新潟柏崎原発を「廃炉求める」と叫ぶ福島社民党党首の無責任さと同じである。

福島瑞穂氏「柏崎刈羽原発の廃炉求める」 

安倍首相のことをお坊ちゃまと揶揄する向きもあるが、これほどの逆風でも敢えて続投をするということは「安倍総理は見かけよりしたたか」なのかもしれない。

以下に日下公人さんの興味深い考察を引用。

                     ◇

日下公人:参院選後に退陣した橋本氏と安倍氏の違い

2007年7月30日 13時25分

衆議院は国民一人ひとりの生活に密着した政策を考えるところである。だから、どぶ板選挙でもいい。草の根選挙でもいい。住民エゴでも、会社エゴでも、みんなに甘いことばかりを言っているのが衆議院である。

しかし、参議院は国家の基本を論ずる場所である。衆議院のような話題から離れて、国家の根本を議論するために参議院がある。だから人数が少なくてもいい。日本の国会ははじめからそういうシステムになっているにもかかわらず、参議院が国家の根本についてまったく議論しないで何十年か経った。だから今、参議院は要らないと言われている。

では、もし参議院を廃止したら、その後どうするのか。国家の根本を考える上院は必要なのか、必要でないのか。参議院の廃止を議論するなら、そこまでいってもらいたい。日本中、国家の根本などということについては、油断しているのだ。日本国家は1500年ほど前からあまりにもしっかりと続いているから、国民は国家について考えるのを忘れている。

国家というのものは必ず存在する、我々が自堕落に個人主義でやっていても国家は続く ―― 参議院の議員は皆そう思っているのだろう。有名人になって早く料亭に行きたいとか、そんな人ばかりである。

詳細は、SAFETY JAPANの記事本文をご覧ください。

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沖縄語講座:「佐賀のがばいばあちゃん」と「沖縄のなんくるオッカー」

2007-08-12 07:09:06 | 沖縄語講座

ダチョウ肥後 僕とオッカーと時々沖縄(2007年7月11日)

 お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のリーダー肥後克広(44)が、故郷・沖縄と母への思いをつづった著書「なんくるないサー!~オッカーと僕とアメリカだった沖縄と~」(晋遊舎)が評判を呼んでいる。(略・・全文読むなら上記クリック)                  

                   ◇

漫才師の島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」に対抗したのか、

お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の肥後克広が「沖縄のなんくるオッカー」という本を出版した。

「がばいばあちゃん」はベストセラーになり、テレビドラマや映画化もされた。

柳の下のどじょうを狙ったのだろうが、

「がばいばあちゃん」は今や全国区になってしまった。

おかげで正確な意味は知らなくとも「がばい」と言う佐賀方言も全国区になりつつある。

佐賀のがばいばあちゃん

ちなみに「がばい」は宮崎方言で「すごい」と言う意味。http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&index=2005000568

 

ところで我らが「なんくる」は「がばいばあちゃん」の登場まではテレビ露出度は「がばい」に勝っていた。(と信じている)

好きな沖縄語のランキングで 「なんくる」が第一だと聞いた。

なるほど検索しても次のようにナンにでも「なんくる」がついてくる。 

なんくるショップ    なんくるカード    なんくるダイバーズ    琉球居酒屋なんくる   
なんくるDiver's    なんくるダイバー    なんくるナイチャー新館    なんくる 沖縄料理   

「なんくる」は「ひとりでに、自然に」、といった意味だが、「なんくるないさ」として、

「自然に出来るさ」、「何とかなるさ」といった意味でよく使われている。 ラテン的な「ケセラセラ」にも通じる言葉だ。

いかにものんびりした語感と「何とかなるさ」の楽天的語感もすんなり受け入れられる理由だろう。

だが、語源の解明となると「なんくるないさ」と、簡単にはいかない。

 

なんくる(NANNKURU) + なる(NARU) + さ(SA)

ここで「なる」はそのままの「成る」、「さ」は接尾語。

「なるのNARU が NARIに変化してNARISA。

そしてRが消えて NAISA。

そして目出度く、

NANNKURUNAISA・なんくるないさの誕生となる。

 

だが、これで終わりではない。

肝心の「なんくる」が未解決。

ナンクルを解明することは一筋縄ではいかないのだ。

先ず沖縄語で「私」のことを「わん」と言うが、これは我・吾(われ)から来ている。

◆われ 【我/吾】が「わん」に変化する過程。

吾れの(WARENO)⇒ 吾れん( WAREN)⇒吾ん(WAN)⇒わん

同じような変化で

◆ナレ(汝)はナンに変化する

日本語には、「吾(われ)」と「汝(なれ」」の入れ替わりが行われる場合がある。(★注)

「吾から」は「汝(なれ)から」と入れ替わり、

「汝(なれ)から」が「なんくる」に変化していく。

つまり「自ずから」の意味の「吾から」が、「汝(なれ)から」、

そして「なんくる」と訛って行き意味はそのままで「自ずから」「ひとりでに」となる。

 

さて、何とか「なんくる」の出自を解明したが、

「沖縄のなんくるオッカー」は「佐賀のがばいばちゃん」に勝てるやら。

                    ◇ 

★注:日本語には、「吾(われ)」と「汝(なれ」」の入れ替わりが行われる例。

なれ 【汝】が、「おの(己)」の転用で、うぬ 【汝/▽己】 に変る。

そして二人称で相手を罵る場合、汝(なれ)が己(おのれ)に変る。

つまり「おのれ」は相手を罵倒する二人称でもあり、自分を表す一人称としても使われる。

それがを端的に表す御馴染みの言葉は「自惚れ(うぬぼれ)」。

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小沢民主党党首の秘書は韓国人美女

2007-08-11 16:44:34 | 県知事選

自治労に魂を売った小沢ジチロウ、もとい、小沢一郎民主党党首の秘書が韓国人だとは驚いた。

在日でもなければ、韓国系日本人でもない。

正真正銘の韓国人で通訳も兼ねているという。

 

小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書

金淑賢さん=9日、東京(聯合)
【東京9日聯合】日本の参議院選挙で圧勝した民主党の小沢一郎代表の秘書を務める韓国女性が注目されている。国際担当秘書の金淑賢(キム・スクヒョン)さんだ。金さんは2000年に当時自由党の党首だった小沢代表の秘書に抜てきされ、以来7年間にわたり小沢代表を陰で支え続けてきた。日本の政界では、自民党の議員が韓国人留学生をインターンとして起用するケースはあったが、韓国人が正式に秘書として採用されたのは金さんが初めてだ。

 韓国外国語大学日本語科卒業後、大学院を修了し1998年に日本に留学した金さんは、今年東京大学で博士号を受けた人材だ。東大で2年間の研修生活を経て再度修士課程に入学しており、多忙な秘書生活を送りながら「韓中修好に関する研究」で博士号を取得した。

 小沢代表の事務所で勤務する金さんは、国際関係の専攻を生かすため、朝鮮半島を含む国際情勢に関して補佐する業務を主に担当している。週に1回東アジア情勢を報告しており、中国、米国を含む複数のプロジェクトを企画進行している。また小沢代表を訪ねてくる日本の政治家だけでなく、海外の有力者らとの面談では通訳を担当し、選挙期間には他の日本人秘書らと同様に全国を飛び回り選挙支援活動にも積極的に取り組んでいる。

 日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っており、アジア外交を重視する小沢代表の韓日関係に対する認識にも大きな影響を与えているものと金さんは自負している。

 金さんは小沢代表を「プロ中のプロ」と評価し、カリスマ性あふれる典型的なボス型の政治家だと話す。仕事に関してはミスを許さない完ぺき主義者だ。しかし実際には温かい性格で、仕事を離れれば人間的に接してくれるという。金さんは「ボス」である小沢代表が、政権奪取の夢を実現するその日まで、秘書として補佐していく考えだ。 (聯合ニュース)

                     ◇

 

>駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っており、アジア外交を重視する小沢代表の韓日関係に対する認識にも大きな影響を与えているもの・・

小沢民主党の考え方は、秘書から駐日韓国大使館を通して韓国政府に筒抜けということを意味する。

仮に民主党が政権を取った場合、その影響は計り知れない。

小沢氏の自民党時代とはまったく変わった政治姿勢・思想は彼女の存在抜きには考えられない。


「アジア外交を重視する小沢代表の韓日関係に対する認識にも大きな影響を与えているものと金さんは自負している。」

「小沢代表を「プロ中のプロ」と評価し、カリスマ性あふれる典型的なボス型の政治家だと話す」

金秘書の歯の浮くような言葉が虚しい。
 
 
 

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「県民大会」会場は平和の礎前ではなく海浜公園ですか

2007-08-11 10:40:25 | ★集団自決

検定県民大会、5万人超結集へ 実行委16日発足

県民大会開催について話し合う準備委員会のメンバー=10日午後、那覇市の婦連会館 「教科書検定意見撤回を求める」沖縄県民大会の第3回準備委員会(世話人・玉寄哲永県子ども会育成連絡協議会会長)が10日、那覇市の婦連会館で開かれ、大会の実行委員会を16日に発足させることを決めた。実行委は、県婦人連合会やJAおきなわ、県経営者協会、連合沖縄、県青年団協議会、県PTA連合会、県議会など20団体で構成する見込み。実行委員長には仲里利信県議会議長の就任が内定した。
 この日の準備委員会に県議会から仲里議長が初参加した。準備委では県民大会の概要を協議。県民大会の開催日を16日の実行委員会で決めることを確認した。実行委には県議会各会派代表の参加も検討する。仲井真弘多知事には、大会会長への就任を要請する。
 準備委によると、大会には1995年に開催した「10・21少女暴行事件県民総決起大会」の際に呼び掛けた670団体を超える機関・団体に呼び掛けし、5万人以上の参加を目指す。
 準備委後に、仲里議長は「これまでの準備委員会のご苦労に感謝する。県議会も大会を成功させるため超党派で参加するが、ぜひ成功させたい」と述べた。玉寄世話人は「県民の意思が1つになり大会を開催することは、教科書検定を撤回させるために有効。絶対成功させる」と意気込みを語った。
 準備委は大会会場を当初、糸満市摩文仁の平和の礎前とする方向で検討していたが、これを再検討し、宜野湾海浜公園で開催する方向で調整することになった。大会名称は準備委で「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会」に決まった。

(琉球新報 8/11 9:43)

                     ◇

 

前回6月の「県民大会」は動員目標は5000人だったが、実際は1000人足らずしか集まらなかった。

実行委員長には仲里利信県議会議長の就任が内定した。

今回は県議会を実行委員に抱き込み、仲里議長を実行委員長にすることに成功した。

あの「毒おむすび」の仲里議長が実行委員長の「県民大会」である。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

これは同じ名前の仲里副知事が言う「偏った政治運動」ではないのか。

>大会会場を当初、糸満市摩文仁の平和の礎前とする方向で検討していたが、これを再検討し、宜野湾海浜公園で開催する方向で調整することになった。

沖縄戦がらみの県民大会なら「平和の礎」前を会場にするのが相応しいと思うのだが、

県民不在の「県民大会」ともなると日曜日なら普通でも人出の多い宜野湾海浜公園にして「動員人数」多めにしようという魂胆なのだろう。

宜野湾海浜公園は県内でも有数の観光スポット。

なんだか訳のわからないレジャー客も「動員人数」に数えられるのでしょう。

<本公園は野球場・体育館・テニスコートなどのスポーツ施設の他にサッカー場が2面はいる多目的広場・遊具を取り付けた子供広場・屋外劇場そしてトロピカルビーチがあり、レクレーションやレジャーに欠かせない施設がそろった総合運動公園です。
 隣接しているコンベンションセンターや屋外劇場でのコンサートや、夏はトロピカルビーチ、秋と春はプロ野球チームの横浜ベイスターズがキャンプを張っており、年中利用者の足が絶えることはありません。>
(案内サイトより)

後は、大会参加に躊躇している仲井真知事を何とか引きずり込むことを最重要目標にするだろう。

>大会名称は準備委で「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民大会」に決まった。

「県民大会」とは称してもこれは偏った思想に踊らされた一種の「政治大会」である。

高度な専門的議論・検証の必要な教科書記述を「集会」で変更させるとは、これを「政治大会」と呼ばずに何と呼ぼう。

知事に会長就任要請へ」だって?

沖縄タイムスの大見出しのプレッシャーに負けずに仲井真知事にはここで踏ん張って欲しい。

 

 

 

 

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