橋本『維新の会』と異なる、解りやすい意見
『改革』あれこれ JR東海会長 葛西 敬之さん
先日の『産経新聞』の記事面白かったので記載します
私自身は、『消極的な説明責任の罠』『逃げ』の意見に全く同感です
葛西敬之(引用)
近衛首相(引用)
(阿南陸相)
いかなる組織のリーダーも職責に応じて説明責任を負う。リーダーとは明確な目的もって
現実を直視し、合理的・道義的に考え抜き、目標と方途を定め、決断実行するものである。
そして正当性は結果で示すべきである。無論自ら正当性を説明する覚悟が必要である。
説明責任とは本来積極的なものである。
一方回避的説明責任も存在する。「法令に依拠する」 「先例に依拠する」 「他人に転嫁る」
の3つがある。
今の日本はこの回避的説明責任の罠に嵌っているように思える。
顕著なを2つ挙げたい。
①原子力規制委員会が、敷地内にある活断層らしきものが存在すという理由で、反証がない限り
敦賀原発の稼働を認めないと判定した。
5万年の人類の営みを時間軸として考えたとき、この判定の意味は説明不能である。
無数のリスクの中で営まれる人間界の一側面のみについて悠久で絶対の安全を強いることに意味があるのか。
判断責任と説明責任を転嫁しただけではないのか。
その結果生じる産業の衰退、失業の増加とその活断層らしきものが再び動く可能性をどのように比較したのだろうか。
②いま1つは内閣法制局の憲法9条の解釈である。
日本政府は国土を保全し民の生命財産と国家の独立を「守る義務」がある。
これは憲法の大前提あり、「守ることを許され」のではない。この大前提に実行的に憲法を運用するのが
政府の機関たる内閣法制局の責務ある。
集団的自衛権の存存めつつその行使を認めないう彼らの解釈論は、憲法の提を無視し、
視野を条文の字義と過去の解釈に限定しているのだけであり、説明責任の回避に他ならない。
国家が失われても良いと考えているのか、さもなくば陸海空に加え宇宙までもが安全保障の土俵となっている現在、
集団的自衛権の行使なしにいかにして国を守り得るのか、説明する義務があるだろう。
この消極的な説明責任姿勢は今に始まるものではない。
先の大戦の開戦前、軍人は米英と戦えば必敗だとさとっていた。
しかし近衛文麿首相(当時)は、「やれといわれれば1年や1年半は暴れてみます」と答え、
説阻責任を近衛に転嫁した。
程なく近衛は辞職し、責任を後任の東條英機首相に回した。
そして開戦の詔勅により形式的責任は天皇に委ねられた。
敗戦時も同様である。
広島長崎に原爆が投下されてなお阿南惟幾陸相(同)は本土決に固執した。
自らが敗戦の説責任を負うのを避けるためだった。
最後に無条件降伏を決定したのは昭和天皇の聖断であり
彼は自らの果たすべき説明責を天皇に押し付けたのである。
陸相のかたくなさと内閣法制の9条解釈は思考停止というで性格を一にし、
原子力規制委員会の判定と連合艦隊司令長官の言動は責任転嫁という点において類似する。
原子力規制委員会や内閣法制局はどう説明責任を果たすのだろうか。
(かさい よしゆき)
『改革』あれこれ JR東海会長 葛西 敬之さん
先日の『産経新聞』の記事面白かったので記載します
私自身は、『消極的な説明責任の罠』『逃げ』の意見に全く同感です
葛西敬之(引用)
近衛首相(引用)
(阿南陸相)
いかなる組織のリーダーも職責に応じて説明責任を負う。リーダーとは明確な目的もって
現実を直視し、合理的・道義的に考え抜き、目標と方途を定め、決断実行するものである。
そして正当性は結果で示すべきである。無論自ら正当性を説明する覚悟が必要である。
説明責任とは本来積極的なものである。
一方回避的説明責任も存在する。「法令に依拠する」 「先例に依拠する」 「他人に転嫁る」
の3つがある。
今の日本はこの回避的説明責任の罠に嵌っているように思える。
顕著なを2つ挙げたい。
①原子力規制委員会が、敷地内にある活断層らしきものが存在すという理由で、反証がない限り
敦賀原発の稼働を認めないと判定した。
5万年の人類の営みを時間軸として考えたとき、この判定の意味は説明不能である。
無数のリスクの中で営まれる人間界の一側面のみについて悠久で絶対の安全を強いることに意味があるのか。
判断責任と説明責任を転嫁しただけではないのか。
その結果生じる産業の衰退、失業の増加とその活断層らしきものが再び動く可能性をどのように比較したのだろうか。
②いま1つは内閣法制局の憲法9条の解釈である。
日本政府は国土を保全し民の生命財産と国家の独立を「守る義務」がある。
これは憲法の大前提あり、「守ることを許され」のではない。この大前提に実行的に憲法を運用するのが
政府の機関たる内閣法制局の責務ある。
集団的自衛権の存存めつつその行使を認めないう彼らの解釈論は、憲法の提を無視し、
視野を条文の字義と過去の解釈に限定しているのだけであり、説明責任の回避に他ならない。
国家が失われても良いと考えているのか、さもなくば陸海空に加え宇宙までもが安全保障の土俵となっている現在、
集団的自衛権の行使なしにいかにして国を守り得るのか、説明する義務があるだろう。
この消極的な説明責任姿勢は今に始まるものではない。
先の大戦の開戦前、軍人は米英と戦えば必敗だとさとっていた。
しかし近衛文麿首相(当時)は、「やれといわれれば1年や1年半は暴れてみます」と答え、
説阻責任を近衛に転嫁した。
程なく近衛は辞職し、責任を後任の東條英機首相に回した。
そして開戦の詔勅により形式的責任は天皇に委ねられた。
敗戦時も同様である。
広島長崎に原爆が投下されてなお阿南惟幾陸相(同)は本土決に固執した。
自らが敗戦の説責任を負うのを避けるためだった。
最後に無条件降伏を決定したのは昭和天皇の聖断であり
彼は自らの果たすべき説明責を天皇に押し付けたのである。
陸相のかたくなさと内閣法制の9条解釈は思考停止というで性格を一にし、
原子力規制委員会の判定と連合艦隊司令長官の言動は責任転嫁という点において類似する。
原子力規制委員会や内閣法制局はどう説明責任を果たすのだろうか。
(かさい よしゆき)