慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

徳川慶喜と駿府

2013年05月14日 | 観光
『江戸連』で静岡県散策しました、楽しい散策でした

鳥羽伏見の戦いは?
日本が植民地にならなかったのは、慶喜さんの功績が一番でした


慶喜

谷中の慶喜お墓
慶喜の出生&生涯
1837年~1913年 77歳
将軍在位 1年間
父:徳川斉昭 母:有栖川宮吉子

慶喜が将軍になった時の幕府の状況
水戸家(慶喜出身)は、徳川吉宗(徳川将軍家・尾張家・紀州家)と大きく隔絶していました
父徳川斉昭が大奥や譜代大名から評判が悪く、慶喜が幕府中枢で腕をふるいにくい状況でした

将軍職慶喜
幕府軍の強化を目的として、フランスと手を組んで幕府軍の改革を行いました
大政奉還後、鳥羽伏見の戦いで、あっさり朝廷側に降伏しました
水戸家は天皇家を中心とする世界を理想としており、慶喜も「朝敵」になることを嫌いました

将軍職辞任後、水戸・静岡に疎開した慶喜
江戸を明け渡し、水戸、静岡で謹慎しました
謹慎がとかれたのちは、狩猟・謡曲など趣味の世界に生きました
静岡での隠棲生活では、外界との縁を絶ちきり、どんな人物とも会いませんでした
反政府運動・旧幕府の人間との面談で、問題が生じる事を恐れました






宝台院





浮月楼

静岡での住まい
謹慎中の水戸から、家康の側室の菩提寺宝台院に移りました
静岡駅近く、現在の浮月楼で20年間過ごしました
浮月楼は、東海道線の開通で電車の音が煩くなり、浅間神社の近くへ引っ越しました

東京へ戻った慶喜
慶喜の大政奉還が高く評価され、東京となった江戸に帰任が許されました
1902年に公爵をさずけられ、08年には勲一等旭日大綬章をうけました


辰五郎お墓
慶喜と辰五郎
慶喜は、町人火消しの親分、新門辰五郎と仲が良く、ウマが合いました
辰五郎は、慶喜に従い、彼が隠棲した静岡にも住み、江戸で死にました

慶喜の生活&趣味
多趣味です(写真撮影・油絵,狩猟,自転車でサイクリング,碁、将棋、刺繍、お菓子作り等)
読書もよくし、新聞を毎日読んでいました
慶喜の趣味の凄いところは、その殆どがプロ級でした
子作りの方も盛んで、10男11女をもうけました


渋沢栄一
慶喜の功績
内戦の避けて、江戸城を無血開城し、徳川幕府を終わらせたことです
渋沢栄一の発掘です、慶喜は思想の異なる栄一の非凡な才能を認め、部下にしました
渋沢栄一は、日本の実業界の父で、数多くの会社を設立し、今でも多くの会社が残っています
渋沢栄一は、慶喜の幕末当時の回顧録を作成し、幕末の混乱を後世に正しく伝えています

慶喜が鳥羽伏見の戦いでの行動の背景
「朝廷と幕府が対立したときには、水戸藩は迷わず天皇家に与せよ」言い放った徳川光圀の末裔です
水戸徳川家は、代々、尊王第一の藩で、慶喜は幼少より、その家訓を厳しく教え込まれていました

徳川慶喜の大政奉還、鳥羽伏見の戦いでの戦線離脱
大政奉還は、幕府の権威が失墜し統治能力がなくなったので、朝廷に政権を返還しました
錦旗が出て、薩長が官軍となってからは、朝敵・逆賊になるのを避け江戸に戻り謹慎しました
自らの脱出を周囲に知らせると、混乱を招くだけだったから秘匿し離脱しました
江戸に戻ってからは、謹慎のため徳川宗家の政務も勝海舟に一任しました
江戸城を退去し菩提寺で謹慎したのも、江戸を戦禍に巻き込みたくないからです
幕府と薩長・新政府が全面戦争したら、日本は、欧米列強の植民地になっていました
慶喜の判断、行動は、日本国の為には、『的を得た、適切な、崇高な』行動でした


コメント
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