慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

家康の正室と側室

2015年05月20日 | 歴史上の人物
家康と生涯好んだ女性8人

賢い女性ほど後々まで良い立場にいられました
朝日姫は、記述内容少なく不明な点多いです










家康の女性(ネットより引用)

築山殿
家康の最初の正室で、家康がかつて今川家に臣従していた頃に結婚しました
仲睦まじい夫婦ではありませんでしたたが、長男・信康が生んでいます
信長からの疑いによって築山殿も信康も処分されました

朝日姫
秀吉の妹で、既に結婚していた、離婚させられて家康の継室になりました
信長の死後、秀吉は織田家内の重臣を討ったり懐柔したりして天下人への道を歩みました
家康を懐柔するため、秀吉が最後の手段として妹を使った政略結婚です
2年で徳川のもとを離れ、京都の聚楽第に移り、それ以降、徳川へは戻りませんでした
秀吉も「家康は裏切りそうにない」と思い、朝日姫の件黙殺していました
朝日姫自身も病気がちになり、別居からこれまた2年後に亡くなっています

長勝院(結城秀康生母)
無能ではないのに冷遇された家康の次男、結城秀康の母親
築山殿の身の回りの世話役を務めており、家康の目に留まってお手つきになりました
秀康がお腹にいた頃「築山殿の嫉妬に遭い、真夜中の庭木にくくられた」との逸話があります
彼女は、息子が亡くなったとき家康の許可を待たずに出家しました

西郷局
三男・秀忠と四男・松平忠吉のお母さんです
一度結婚していたものの、家康に気に入られて奥に入りました
将軍の母=勝ち組です(彼女自身は、28歳の若さで亡くなっています)
美人かつ心優しい女性で、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていました

お勝の方(お梶の方)
幼い頃から賢さで知られた人です
頭脳を買われ、関が原や大阪の役にも男装・騎乗で同行しました
関が原戦いで「この勝利はお梶がいたから! 今日から『お勝』と名乗れ!」と言われて改名しました
家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました
春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上でした

雲光院(阿茶局)
出家前は「阿茶局」と呼ばれていました
彼女が髪を落としたのは家康だけでなく秀忠も亡くなった後のことです
側室の中でお勝の方に並んで家康の信頼が厚く、「秀忠をよろしく頼む」といわれました
頭脳に加えて、その健康さも家康のお気に入りでした

茶阿局
家康六男・松平忠輝とその弟・松千代の母親です
既婚者だったに、土地の代官に言い寄られ、家康に直訴し肝の据わった女性でした
その場で家康に気に入られ、娘と共に引き取られました
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東征(2)経路は地名が語り継ぐ

2015年05月20日 | 歴史上の人物
地名が語り継ぐ「皇居」の存在

イハレビコの皇居跡とされる皇宮神社
イハレビコは15歳皇太子~45歳で東征迄「皇居」で過ごしました
産経新聞記事より








東征(ネットより引用)

皇居跡に相応しい聖地
稲作に適した土地で、大農園をつくれたことが、皇居を構えられた理由です
皇宮屋で、イハレビコ(神武天皇)は30年間、政を行いました
皇居があったことを端的に示すのは「宮崎」という地名です

宮崎(宮殿の前を示す名前)
古代、重要拠点としての認識があった土地でした
地名起源から、イハレビコの存在感の大きさを示しています

日本には、神様や古人を地名起源にする場所が多いです
「神様の(産湯・井戸を開く・お座りになった)」等、故事に由来した地名
九州では、神武天皇と景行天皇にまつわる地名が多いです
景行天皇は、九州平定のために西下しました
朝廷が全国に風土記の編纂を命じた奈良時代が起源です

「何れの地に坐さば、天の下の政を平らけく聞こし看さむなほ東に行かむと思ふ」
古事記中巻は、イハレビコが高千穂宮で兄に相談する場面から始まります
天下の政治を、もっと東に行き、実施する決意を打ち明けるました
「かくして日向をたった」神武東征の始まりです


米は多くの人口を支える食物
稲作を耕作するには、人々の協力なくしては行えない
稲作を普及させてムラ社会を完成させたイハレビコ(神武天皇)
その過程で、政治や軍事の知識も重ねました





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