慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

世界宗教(イスラム教と政教分離)

2017年06月13日 | 宗教
イスラム教では、何故政教分離が進まない

イスラム教では、アッラーが絶対的主権者(神の法は憲法より優先)
 ☆イスラム教は政治や経済活動をも導く社会運動としてはじまった
 ☆イスラム教徒にとり『コーラン』がすべての価値判断の基準
政治も『コーラン』に則って行うことが求められる
『コーラン』に定められていないこと
 ☆ムハンマドの言行録『ハディース』に示された慣行「スンナ」が判断基準
 ☆判断できない場合、法学者たちの合議「イジュマー」法解釈「キヤース」が参照される
 ☆現実的には、神の啓示を法学者が解釈したイスラム法「シャリーア」が適用される
イスラム法は憲法や諸法に優先し、アッラーの絶対的な主権のもとで政治が行われる
 ☆為政者は民衆に対して責任を負うとともに、アッラーに対しても責任を負う
イスラム諸国では、王制から社会主義まで、さまざまな政治体制が存在する
 ☆イスラム教の信仰が第一である点に変わりはない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、世界『三大宗教(洋泉社)』(中法大学保坂教授)








イスラム教と政教分離(三大宗教(洋泉社)記事より画像引用)

オスマン帝国(イスラム教国)
法解釈は、イスラム法学者が担った
正統性の問題から分派が生まれるなどして、カリフの権威は弱まった
「アミール」や「スルタン」と称する者が世俗的権力を握り統治した
オスマン帝国では「カリフ」と「スルタン」を兼ねる「スルタン・カリフ制」が定着
イスラム共同体の政治面を率いた「カリフ」は、行政を統括する権限しかもたなかった

トルコ国(イスラム教国)
共和国の成立にともないカリフも廃止された
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると「スルタン・カリフ制」廃止される

イラン国(イスラム教国)
神権政治に立ち返った
イラン革命を率いた法学者ホメイニ師は、自ら政治・宗教両面の指導者として国を統治
イスラム教では、神は絶対的な存在であり、この世の創造主である
 ☆人間が神に代わって法をつくることなどできない、「政教分離」はありえない
神の領域と人間の領域を区別する世俗主義から成り立つ
西欧的な民主主義を受け入れることも難しい

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世界史(イスラム帝国でトルコ系民族の台頭)

2017年06月13日 | 歴史
イスラーム世界を支配したトルコ系王朝

古代の文化を近代ヘ伝えたイスラーム世界
イスラーム世界は、ヨーロッパよりも水準の高い文化を保持していた
 ☆ヨーロッパ文化は、ルネサンスにより発展
古代ギリシア・ローマの文化は、イスラーム世界を経由しヨーロッパに入る
アッバース朝によって建てられた研究機関の研究内容
 ☆ギリシア語の文献をアラビア語に翻訳し、古代ギリシアの幾何学や哲学が継承された
 ☆インド数字を改良したアラビア数字(現在の算用数字)もつくられた
イスラーム帝国では、各地でシーア派勢力が台頭
軍事奴隷からのしあがったトルコ人がセルジューク朝建てる
 ☆トルコ人が力をつけ、イスラーム世界の実質的支配者となる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




イスラーム世界を支配したトルコ系王朝(世界史(成美堂出版)記事より画像引用)

イスラーム帝国では、各地でシーア派勢力が台頭
アッバース朝は、8世紀末に最盛期を迎え、首都バグダツドは繁栄した
アッバース朝は、8世紀末以降は地方政権の自立などによって衰退
チュニジアにシーア派のファーティマ朝が興り、エジプト、シリアに版図を拡大した
ベルシアに、シーア派のブワイフ朝が建てられ、カリフの権威をブワイフ朝に認めた

イスラーム帝国の東部では、トルコ人の軍事奴隷が台頭
軍事奴隷からのし上がったトルコ人、セルジューク朝(トルコ)を建てる
セルジューク朝が、バグダッドを占領しブワイフ朝は減んだ
セルジューク朝は、官僚へのイラン人の登用、行政用語へのベセンア語採用

トルコ人のセルジューク朝は短命に終わる
11世紀後半には、アナトリア地方に侵入
 ☆ビザンツ帝国の皇帝がローマ教皇に助けを求め、十字軍遠征のきっかけとなった
セルジューク朝の全盛期は短く12世紀に滅亡
 ☆地方の軍団が自立・十字軍の侵入が要因


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金子堅太郎(日露戦争下の外交戦)

2017年06月13日 | 歴史
{金子堅太郎(日本の政治家)

日露戦争開戦の日、伊藤博文は、金子堅太郎に「米国を取り逃がすな!」と命じた
 ☆日本、大国ロシアとの戦いは、軍事的に勝利を収めることは難しい
 ☆渡米し、米国の大統領と世論を日本にひきつける工作をせよとの命令
金子はアメリカに留学し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと親交のあった
金子は、日露戦争で、日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)










金子堅太郎(『英雄達の選択』番組画面引用)

金子堅太郎の米国留学
アメリカに留学しボストンの小学校(グラマー・スクール)に入学
飛び級で卒業し中学校(ハイスクールに)入学、飛び級進級で中途退学
ハーバード大学法学部(ロー・スクール)に入学
ハーバード大学入学、在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得る
ハーバード大学を卒業し法学士 (Bachelor of Laws) の学位を受領

金子堅太郎と日露戦争
第1次桂内閣は、ロシアとの開戦を決意し日露戦争が勃発
ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子
伊藤博文の説得を受けて、ルーズベルト大統領に接触
 ☆戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した
講和条約が、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げた
 ☆外相小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め支援を得た
晩年には日米開戦を憂慮し1942年 死去
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