🌸最澄
☆旧仏教勢力の圧力を排し、総合仏教を確立したエリート
⛳最澄、仏教界の腐敗を嘆く
☆天台宗を大成したのは、中国隋代の僧・智顗(ちぎ)
⛳最澄、仏教界の腐敗を嘆く
☆天台宗を大成したのは、中国隋代の僧・智顗(ちぎ)
*智顗は釈尊の教えのなかで『法華経』が最も重要とした
*その教えを円教(えんぎょう)と呼んで説き広めた
☆中国天台宗を日本に持ち帰り、日本天台宗を立てた最澄
*最澄は19歳で東大寺の正式な僧となった
*最澄は19歳で東大寺の正式な僧となった
*3ヵ月後には、エリートコースを捨て故郷の比叡山にこもる
☆当時の奈良仏教
☆当時の奈良仏教
*出世栄達や金満主義がまかり通り、堕落した僧が多かった
*仏教が衰退すると最澄が悩んでいた最澄
*そのとき、彼は『法華経』をはじめとする天台宗の経典に出逢う
*比叡山に籠って天台宗の教えを求道した
☆平安京への遷都を計画していた桓武天皇
☆平安京への遷都を計画していた桓武天皇
*最澄の徳を認め、宮中の僧官に任命
*最澄は新しい仏教の牽引者として平安京で重要な位置を占めた
⛳最澄、空海との確執
☆最澄は、遣唐使の学生として唐に渡った
*中国天台宗の総本山は天台山で、最澄はそこで天台の奥義を学ぶ
☆日本にまだ輸入されていなかった
*禅や戒律(大乗戒)、そして密教も学んで帰国の途についた
☆最澄は中国天台宗をそのまま日本に持ち帰ったのではなく
☆最澄は中国天台宗をそのまま日本に持ち帰ったのではなく
*天台の教えに禅、戒律、密教という最新の教え加え持ち込んだ
*密教に関しては十分に学ぶことができなかった
*密教に関しては十分に学ぶことができなかった
☆最澄、同時期に唐に渡っていた空海から足りない部分を学ぼうとした
*空海とは修学に対する考え方が異なり、仲違いする
*空海とは修学に対する考え方が異なり、仲違いする
*最澄が密教の根本経典の借用を申し込むと
*空海はこれを拒否し、最澄の弟子も空海のもとに走り戻らなかった
☆最澄・空海の交流は断絶
*天台密教の完成は、弟子たちに委ねられる
*これ以後、最澄は教団の発展に全力を傾けた結果
*これ以後、最澄は教団の発展に全力を傾けた結果
☆比叡山は本物の僧を育て上げる教育機関としての基礎が固まる
*日本仏教の総合大学というべき存在になった
⛳最澄死後の天台宗
☆天台密教を完成させた円仁と円珍
*最澄亡き後、天台宗における密教の教えを完成させた円仁と円珍
*2人は唐に留学して密教経典や曼荼羅、仏像などを大量に持ち帰り
*最澄が成し遂げられなかつた密教の確立を実現した
☆真言密数の中心である東寺の「東密」に対し
☆真言密数の中心である東寺の「東密」に対し
*天台宗の密教は「台密」と称せられ
*その勢力は奈良仏教に匹敵するほど大きくなった
☆10世紀には天台宗の信徒のなかから僧兵が出現
*武力集圏となり、織田信長に焼き討ちにされた
*武力集圏となり、織田信長に焼き討ちにされた
☆江戸時代、天海僧正の尽力もあって諸堂の再興が進み
*次第にかっての威容が戻つていった
(敬称略)
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⛳出典、『比べてわかる!日本の仏教宗派』
「最澄」「天台宗(法華経)」「総合仏教を確立」
(『比べてわかる!日本の仏教宗派』記事より画像引用)
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