🌸曹洞宗宗祖ー道元
☆道元、朝廷での出世を選ばず禅の伝道に生きた禅師
⛳道元、修行する理由を求めて
☆曹洞宗を日本に伝えたのは道元
☆曹洞宗を日本に伝えたのは道元
*中国禅の曹渓慧能と洞山良倫の両祖から日本の曹洞宗の名がある
☆道元は、名門の家に生まれ、将来は約束されたようなものだった
☆道元は、早くに両親を失うと、自らの希望で比叡山にのぼり出家した
*比叡山では密教と顕教の双方を学んだ
☆道元は、名門の家に生まれ、将来は約束されたようなものだった
☆道元は、早くに両親を失うと、自らの希望で比叡山にのぼり出家した
*比叡山では密教と顕教の双方を学んだ
☆道元はいつからか疑問にとらわれるようになる
*人は本来みな仏であるというのに修行するのはどうしてか
*仏であるなら修行など必要ないではないか
*そうした思いが修学中の道元の心中に興つた
☆道元は比叡山をおり、栄西の弟子明全から禅の教えを学んだ
☆道元は比叡山をおり、栄西の弟子明全から禅の教えを学んだ
*24歳のときには明全とともに入宋
*正師を求めて中国諸山をめぐり歩いた
*ついに天童山で出逢ったのが如浄だった
☆黙してひたすら坐禅するという如浄の禅法に感化された
*坐禅は仏になるための修行ではなく
☆黙してひたすら坐禅するという如浄の禅法に感化された
*坐禅は仏になるための修行ではなく
*坐禅しているそのときの身も心も抜け落ちた状態こそが仏そのもの
*いわば修行がそのまま悟りなのだと気づいた
*比叡山時代に抱いた疑問も、このときすべて氷解した
⛳旧仏教の圧力で越前に移る
☆如浄の印可を受けた道元は、帰国する
⛳旧仏教の圧力で越前に移る
☆如浄の印可を受けた道元は、帰国する
*翌年には京都に入って布教活動をはじた
*道元の名声が高まり信仰者が増えるにつれて
*道元の名声が高まり信仰者が増えるにつれて
*旧仏教、とくに比叡山との軋礫が強まった
*道元は『護国正法義』を著して自分の禅の正統性を主張する
*旧仏教側からの弾圧がやむことはなかった
☆道元は、出雲守・波多野義重の庇護を受けて彼の所領越前に移った
*道元は中国の天童山を模した修行道場となる永平寺を創建した
*道元は中国の天童山を模した修行道場となる永平寺を創建した
*曹洞宗の教団が確立された
☆鎌倉幕府の執権・北条時頼の招聘を受けて鎌倉へ赴き
☆鎌倉幕府の執権・北条時頼の招聘を受けて鎌倉へ赴き
*時頼に菩薩戒を授けるなど多くの人々を教化した
*時頼から寄進の申し出を受けたが、道元はすべて断り
*権勢におもねることをよしとしなかった
*道元の仏道専一のストイックさがうかがえる
⛳道元死後の曹洞宗
⛳道元死後の曹洞宗
☆道元亡き後、永平寺は荒廃した
☆永平寺を復興し、曹洞宗を興隆させたのが太祖螢山(けいざん)
☆螢山は永平寺を復興させるとともに総持寺を開いた
*在家信者獲得のために民間信仰を取り入れるなどして
*地方教化の礎を築く
☆道元の修行の方法を補う形で書いた『螢山清規』
*全国の曹洞宗寺院の教えの基本となった
*同書には死者に戒名を授けるという方法が記されている
*これが現在の葬式仏教のはじまり
☆江戸時代、仁王禅の鈴木正三、自然を愛した良寛などの禅僧が登場
*同書には死者に戒名を授けるという方法が記されている
*これが現在の葬式仏教のはじまり
☆江戸時代、仁王禅の鈴木正三、自然を愛した良寛などの禅僧が登場
*他の教団のように分派することなく全国に教線を拡大した
*現在も永平寺と総持寺の両大本山体制のもと隆盛を誇つている
(敬称略)
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⛳出典、『比べてわかる!日本の仏教宗派』
「黙して坐禅」「永平寺」「総持寺」「瑩山」
(「比べて分かる日本の仏教宗派」記事より画像引用)
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