
☆将軍、三代・徳川家光から八代・徳川吉宗の時代に生きていた人
☆前田家を安全な位置に落ち着かせ、民からも慕われた綱紀
*生涯が現役の藩主でした
☆約80年間も藩主の座にあったというのは稀な例
☆藩主が積極的にお金を使った
*領内にお金が回り、藩が豊かになった

☆綱紀の誕生は「待望の嫡男」、前田家では上を下への大騒ぎ
☆外様大名では最大勢力の前田家
*跡継ぎなしというのは安心していられない
☆綱紀3歳のとき、父・光高が31歳の若さで亡くなる
*前田家には、嫡男がいて、隠居の利常がいた
☆将軍家光から「祖父が孫を指導しろ」との命令がでた
☆加賀藩は改易を免れた
*綱紀は、利常の元でやっていくことになる

☆祖父の利常は、前田利家の子供
*綱紀も武道を奨励する
☆綱紀は、12歳で、元服を果たして正四位下の位階を受けた
☆保科正之の娘を正室にもらう
☆藩主としての地位固めは順調に進んだん
☆結婚から8年して彼女が亡くなった
*新たに正式な妻を迎えることはなかった
☆利常が亡くなった後
*甥の保科正之を政治の模範として藩政に励む

☆農業方面のさまざまな制度を整え土地を整備した
☆飢饉の際に作った「御小屋」施設
*生活に困っていた人々に米を支給
*病人のための医者を配置していた
☆今で言えば生活保護制度

☆綱紀自身が学問好き
*武芸や建築、文芸などありとあらゆる学問を奨励した
☆学問の奨励の中には、書物奉行もある
*新たに設けた役職であり、古書を収集&保存
☆藩士たちも学問や芸術を好む気風となる

☆大藩であるが故に幕府に睨まれやすい
☆蓄財はしないという方針に徹していた
*改築や調度品などに惜しみなくお金を使っています
☆学問奨励も散財するという面があったのかもしれない

☆綱紀は舞の名手で、将軍の前で披露したこともある
☆徳川綱吉の時代
*加賀藩は名実共に100万石を達成し、幕末には130万石超
☆御小屋も変わらず続けていた
*「加賀にはホームレスがいない。素晴らしい政治だ」とこれまた絶賛された


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80年間も藩主をした加賀藩5代目前田綱紀
(『武将ジャパンHP』記事より画像引用)
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