慶喜

心意気
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『表長屋・裏長屋』『田沼意次バブリー政策』『田沼意次大出世』

2025年03月11日 | 歴史上の人物
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す3

「表長屋」と「裏長屋」とは
 ☆「長屋」といっても「表長屋」(表店)と「裏長屋」の二つがあった
 ☆表通りに面している「表長屋」は二階建
 *一階が見世(店舗)、二階が住居として使われた
 *ちょっとお金持ちの住む所
 ☆表長屋の間に小さな木戸があり
 *そこを抜けて細い路地を進むと、裏長屋が軒を連ねていた
 *多くの町人が暮らすビンボーな「裏長屋」の世界だ
 *共用の井戸や厠、洗濯物を干すスペースのある中庭のような空間
 *裏長屋は一軒あたり六畳一間分の空間にすぎず
 *入り口に土間や台所がある分を差し引くと
 *実質的に居間兼寝室として使える空間はわずか四畳半にすぎない
 *夫婦や親子で暮らすとなれば、プライバシーなどあったもんじゃない
 ☆木戸は「長屋木戸」と呼ばれ、防犯のために設置されていた
 *長屋の大家や長屋の住人が午前六時頃に開け、午後十時頃)に開めた

⛳「田沼意次のバブリー政策」なくして蔦重なし
 ☆蔦重が青春を過ごした時期は、「田沼時代」とバッチリ重なっていた
 *この時代は賄賂政治が横行した時代として批判されることが多い
 ☆度を越した賄賂ぶりを表すエピソードも伝わっている
 *意次の家に「京人形一体」と書かれた大きな木箱が贈られてきた
 *開けてみると、中から本物の祗園の舞妓が
 *「おめでとうさんどす~」と出てきた
 *都市伝説の一つにすぎないが、いかにもありそうだからコワイ

⛳田沼意次、家禄六百石から老中へとスーパー大出世
 ☆意次の父は、紀州藩の足軽にすぎなかったが
 *藩主の徳川吉宗が八代将軍になると
 *それに付き従って江戸に入り
 *旗本として登用されるという出世を果たした
 ☆江戸本郷で生まれた意次
 *十七歳のときに父が亡くなると嫡男として家禄を継いだ
 *まだそのときの家禄は六百石にすぎなかった
 ☆その後の意次の出世ぶりは目覚ましい
 *三十代の若さで将軍側近として仕える御側御用取次に任じられた
 ☆意次が四十歳のとき、さらなる出世につながる出来事が起きた
 *意次は、大規模な百姓一揆を見事に解決した

 ☆家重の特命で評定所の審議に出席した意次
 *農民側の首謀者たちを「獄門」に処す一方
 *藩主を改易し、藩主の意向を受けて農民を抑えつけようとした
 *老中や若年寄など、幕府の重職たちまで罷免するという
 *前代未間の厳しい処置を言い渡し、その辣腕ぶりを発揮した
 ☆公平な裁きは幕府内でも高く評価され
 *将軍の家重も意次に信頼を寄せて重用するようになり
 *息子の家治にも意次を重用するようにと遺言した。
 *家治が十代目の将軍になると
 *意次は側近として最高職の側用人に任じられた
 *築城を許されて二万石の城持ち大名となった意次
 (スタート時から比べると禄高は100倍になった)
 *老中格、そしてついに老中へとスーパー大出世を果たした
                         (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』





『表長屋・裏長屋』『田沼意次バブリー政策』『田沼意次大出世』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事、ネットより画像引用)

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