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『蔦屋重三郎、吉原に誕生』『狂歌』『田沼意次』『山東京伝』

2025年03月09日 | 歴史上の人物
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す1

蔦屋重二郎、流星の如く吉原に誕生
 ☆1750年蔦屋重三郎は江戸吉原で生まれた
 *父のは尾張、母のは江戸の人だった
 *父は、尾張から江戸へ出てきて津与と出会い、結ばれた
 *一説に、父は遊郭で働いていた人、母は元遊女ともいわれている
 (推測の域を出ない)
 ☆当時の吉原は、幕府公認の遊郭として栄えに栄えていた
 *仕事はいくらでもあった
 *尾張から一旗揚げようと江戸へ出てきた商人はたくさんいた
 ☆重三郎は吉原で生まれ、吉原で幼少時代を過ごした
 *重三郎の「重」の字は、父の名の一字をもらったもの
 ☆父親にとって愛すべき子供だった
 *重三郎がまだ幼いうちに両親は離婚する
 *重三郎は喜多川氏に養子に出される
 *両親と離れた重二郎は、養子先でお金に困ることなく成長した
 *重二郎の養子先の喜多川氏は、吉原仲之町の引手茶屋
 *遊女を客に仲介する場所の蔦屋本家で「蔦屋」重三郎となった
 *彼は、吉原をホームグラウンドとして育つ

⛳蔦屋重三郎は、若い頃から「景気のいい時代」の真っただ中
 ☆蔦重が養子に入ってから十数年ほど経った頃、九代家重の時代
 *一揆が多発したり飢饉が起きたりして世情は不安定
 *家重は病気のため、言語不明瞭よく問き取れなかった
 *言葉を理解できるのは、側近として仕えていた大岡忠光くらい
 *家重は、忠光を「側用人」として重用した
 *側用人に取り立てられた忠光は
 *その地位を悪用するようなことなく
 *家重の信頼に応えて職務をよく果たした
 ☆忠光の遠い親戚にあたるのが
 *吉宗時代に江戸南町奉行を務めた名奉行「大岡越前守」大岡忠相だ
 ☆家重は息子の家治に「側用人を置くがよい、田沼意次を重用せよ」と
 *いう遺言を残した
 *この遺高がその後の日本の政治、経済、文化を大きく変えてた
 *世にいう「田沼時代」を出現させた
 ☆田沼意次が十代将軍家治の側用人となったのが1767年
 *蔦重が十八歳、オイラこと山東京伝は、まだ七歳の小僧っ子だ
 *田沼時代と呼ばれるバブリーな時代が始まる
 *二人とも若い頃から景気のいい時代の真っただ中にいて
 *それを肌で感じ取って育った江戸っ子だった

⛳和歌のパロデイー「狂歌」の大ブーム到来
 ☆田沼時代にはいろいろな改革が行われた
 *江戸っ子にとって最も身近で大きな出来事
 ☆狂歌の大ブーム、狂歌は、簡単に言えば和歌のパロディーだ
 *和歌のパロディーを作り、社会や政治を面白おかしく風刺した
 *狂歌会は、当初下級武士と町人、5人のささやかな集まりがスタート
 *そこには、のちに「狂歌三大家」と呼ばれるうちの
 *唐衣橘洲と四方赤良の二人が参加していた
                         (敬称略)
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⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』




『蔦屋重三郎、吉原に誕生』『狂歌』『田沼意次』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より画像引用)

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