タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

雨の中の登山

2023年06月02日 | 山歩きから
仲間たちとの裏山歩き、今日も雨です。でも、タカ長は行くつもりでした。

Kohdai君にレクチャーすることが残っているからです。しかし、Kohdai君の都合が悪くなって、、、、、、、

他の仲間も裏山に行く雰囲気がないので、タカ長もお休みにしました。寒い時期の雨中登山は嫌ですが、この時期になれば問題ナシ(?)

と言うことで、これからは、たまには雨の裏山を歩くつもりになっています。

    

女房殿と夏山登山の思い出を話しました。北アルプス、燕岳登山のことです。

その日は雨が予想されたので、雨具のズボンだけは着用して出発するように指示していました。しかし、女房殿ともう1名はタカ長の指示を無視したようです。

タカ長はそこらの具体的なことは忘れているのですが、女房殿は「縦走中に雨が降り出し、雨具を着るのに苦労した」と言っていました。

    

Kohdai君にレクチャーしたかったのはそのことだけではありません。雨具のたたみ方、もその一つです。

7月に富士登山を予定しているKohdai君ですが、早々に東京の親戚に行くようです。そのため彼と話が出来る時間も多くないのです。

このようなレクチャーは玄関先でも出来るので、言い残したことは「押しかけレクチャー」することにします。

アメリカから帰国して、忙しい時間をやりくりして富士山に登りたいという彼の希望が無事に叶うことを願っていますから。

    

タカ長も今年は仲間に世話してもらい乗鞍岳に行くつもりです。

標高の高いところでタカ長の体がどのように反応するか、それは行ってみないと分かりません。空気のうすいところを歩くと心臓に負担がかかるようなら、バスの中からハイマツの風景を見るだけでもヨシとする。そのような思いで行くことにしました。

その日は雨登山にならないよう願っています。


伯耆大山の想い出~3

2021年02月20日 | 山歩きから
タカ長の山ときどきタカ見と同じ内容です。

伯耆大山の想い出を書いていますが、タカ長が初めて大山を縦走したのは三鈷峰から剣ヶ峰、弥山だと思っていました。しかし、それはタカ長の記憶違いであることが分かりました。

机の奥の方を探していたら、捨てないでおいた古い山日記が出てきたのです。

初めて山らしい山に登った。と言う文で始まる山日記の骨子を紹介します。

1960年7月16日18時15分貸切バスで出発。 三次・米子経由
   7月17日 2時30分 大山寺着  仮眠

        5時45分 登山開始 夏道を登る
        8時10分 頂上着  ガスが巻いてくる
        時間記録ナシ 縦走開始
             ユートピア着  時間が遅れているので三鈷峰には登らない
             上宝珠越えから砂滑りを通って元谷に下りる

      
             画像はネットより借用したものです

今では信じがたい気持ちですが、大山の尾根を団体で縦走していたことは間違いありません。

その頃は今ほど崩落が進んでいなかったのでしょうが、それでも難所続きで、「細い所では1尺もない尾根」と山日記にも書いていました。

「終始ガスっていたのは残念だが、ガスが無かったら足がすくんでいたかも」とも書いています。

大山には何度も登っているので記憶が錯綜していますが、初めての大山であの尾根を団体で歩いたことは間違いありません。

その頃、大山登山と言えば縦走するものだと思っていました。

要するに、あの頃の登山者は若かったということでしょう。もし今、あの尾根が縦走禁止で無かったとしても、この歳になると縦走は絶対に無理ですね。


伯耆大山の想い出~2

2021年02月17日 | 山歩きから
伯耆大山には何度も登っています。

伯耆大山は広島から一番近い、アルペン的な風貌を持った山です。だから、タカ長だけではありませんが、広島の山好きは大山に通うことになるのです。

その頃の記録は手元にありませんが、3月と9月以外は一応大山に登っているはずです。その中で一番の思い出は昨日も紹介した初めての冬山大山です。

    

その頃、この遭難者のルートを下りて亡くなった登山者がいたはずです。その罠に落ちないためリーダーのKは実に慎重に行動していました。

リーダーのKを信頼していたからでしょうか、グレイアウトの状態になっても怖さは感じませんでした。

しかし、無事に生還して、大山寺から雲のかかった山頂を見た時には泣けてきました。生還の喜びと山の怖さを教えられた瞬間でした。

初めての夏山は三鈷峰から山頂、弥山への縦走でした。

三鈷峰で北壁の展望を楽しんでいたら冷たい風が吹いてきて、北壁はあっという間に雲の中に消えました。山の天気は一瞬で変わることを体感しました。

その二つの経験がタカ長の登山の下敷きになっています。

慎重な登山活動をするためには、最初の段階で山からぶん殴られるような経験をするのが良いのかも分かりません。

    
                  画像はネットより借用したものです

甘い言葉で誘われて、運よく天気に恵まれて、良かった良かったで終わってしまうと、その後の登山で隙が出ます。

初めての冬山でこのような尾根を歩いてしまうと、冬山は怖いものだと言われても、もう一つ実感がわかないのではないでしょうか。

体力も能力もないタカ長が、時にはバカなことをしながらも、今日まで事故なく登山が出来ているのは、最初の段階で、伯耆大山からぶん殴られたような経験をしているからかも分かりません。

その意味で、伯耆大山はタカ長の大切な山の先生です。



伯耆大山の想い出~1

2021年02月15日 | 山歩きから
先日、古い鳥友から電話がありました。

このブログの更新が止まっているけど元気なのか、と言う電話です。

このブログの容量がいっぱいになり、これからはタカ長の山ときどきタカ見に引っ越しする、と案内したはずですが、それを見ていなかったのでしょうか?

何かにつけてドジをする歳ですから深くは考えません。

このブログも写真の枚数を減らせばもう少しは更新できますから、これからは週1くらいは更新しましょうか?

    

タカ長の山ときどきタカ見と同じような内容です。

YAMAPからの情報です。

正直言うと、アホかぁ、、、、と思いました。

突然の吹雪、ホワイトアウト。冬の大山ならそんなの当たり前じゃん。

タカ長の知っている冬の大山はいつも吹雪状態です。

チョット吹雪くだけで遭難騒ぎを起こすような人は冬の大山に行くなやぁ、、、、と思うのです。

    

右が正規のルート、左が遭難者の軌跡です。

大きな青〇のところでビバークしたところを保護されました。

タカ長が初めての冬山で下りたのも右のルートです。

そのときは猛吹雪、ホワイトアウトではなくてグレイアウト、それもブラックに近い状態でした。その中をリーダーのKさんは頻繁に下山ルートを確認しながら、無事に夏山コースの尾根に下りて行きました。

さすが、広島高等師範学校山岳部OBの猛者です。

この登山者が今どきの器機を持っているのに、何故ルートを外したのか、タカ長には理解できないところがあります。

生意気なことを言うようですが、そのレベルの登山者は冬の大山に登ってはいけません。冬の大山は吹雪くことが普通で、晴れることのほうが珍しいのです。

そのようなことを前提に登山計画を立て、自分の能力を冷静に見ないといけません。

ともあれ伯耆大山のこのコースは、タカ長には忘れることが出来ないコースなのです。

お粗末なリーダーと行っていたら、タカ長の人生はあの時で終わったかも分からないのですから、、、、、、。

タカ長の山ときどきタカ見は毎日更新するよう頑張っています。

こちらのほうをお気に入り登録して頂けると幸いです。



たった独りの山旅~7

2021年02月01日 | 山歩きから
「たった独りの山旅」と言うタイトルですが、寄り道みたいな話題です。

たった独りの山旅ではなく、タカカノと二人で行った信州の高原歩きです。

    

昭和40年のゴールデンウイークに信州の高原歩きをしました。証拠物件の写真が残っていました。

古くから登山をされている人は記憶にあると思いますが、昭和40年のゴールデンウイークと言えば全国の山で大量遭難が起こった年です。

死亡62名 重症12名 軽症29名 行方不明1名

    

その時タカ長たちは菅平高原にいました。

前日から天気が悪かったので、少しでも雨が凌げると思い、運よく見つけて東屋みたいなものの下にテントを張りました。

その東屋が深夜に倒壊。

テントを張る場所が少し違っていたら、死亡者の数字が64名になったかも分かりませんし、運が良くても重症者が14名になっていたかもわかりません。

そのように考えると今でもゾッとします。タカ長には想い出の写真です。

    

信州だけではありませんが、そのころ具体的にどこにテントを張っていたのか記憶が無くなりました。キャンプ指定地に張ったことは少ないような気がしています。

これは高原歩きの最後、野辺山高原で撮ったものです。この野辺山高原のどこでテントを張ったのかはまったく記憶がありません。

信州の高原歩きをしたのはこの時だけではありませんが、記憶に強く残っているのは、大量遭難のあった昭和40年のゴールデンウイークの山旅です。


たった独りの山旅~6

2021年01月27日 | 山歩きから
このシリーズを書きながら考えていたことです。

たった独りの山旅には賛否両論あると思いますが、それとは別に、独りであるがゆえに人さまから好意を受けたことが少なからずあることが想いだされました。

その一つです。

甲斐駒ヶ岳を下山したあと余った時間を使って能登半島の最先端まで観光しました。宿泊は民宿。

民宿の玄関を開けて開口一番「安く泊めて、、、、」と言うと、対応に出た親父さんから

「お兄ちゃん、安く泊めてやりたいけど、うちも趣味でやっているのではないから、、、」と言われてしまいました。

あの時の親父さんの言葉は今も耳の底に残っています。

玄関を開けた、薄汚れた若者からいきなり「安く泊めてくれ」と言われた親父さんは、ただ同然で泊めてくれと言われている、と思われたのでしょう。

当然のことですが、料金を聞くとタカ長の想定内、気持ちよく泊めてもらいました。

「明朝早くナマコを採りに行くけど一緒に行くか?」と誘われました。もちろん異論はありません。翌朝早起きして、親父さんと小さな舟に乗ってナマコ採りを経験したのは言うまでもないことです。

翌朝親父さんと小舟で海に出たタカ長、教えられるまま体を小舟から乗り出しナマコをつき、少しだけ採ることが出来ました。

この民宿で記憶しているのはその程度のことですが、他にもいろいろな好意を受けているはずです。

    

生意気ざかりだった若いころには気づかなかったことが、この歳になると少しは見えてきます。自分で考える以上に多くの人の好意に支えられ、タカ長の「たった独りの山旅」が継続できていたように思います。

これがもしグループ登山だったら、おそらくこのような展開にはならなかったはずです。

淋しい独り歩きだったからこそ多くの人から手をさしのべられた、青春のころの貴重な記憶です。


たった独りの山旅~5

2021年01月24日 | 山歩きから
このシリーズを書きながら昔の登山を思い出してみました。

ここで書いたように、たった独りの山旅は淋しいものですが、そのようなことを考えながら山を歩いていることは少なかったようです。

       

その頃は串田孫一の影響を受けていたようで、単独行のときはベレー帽を被って、スケッチブックを持って山を歩いていました。

そのような時は見るものが多くて、淋しさを感じる時間はありませんでした。楽しい時間ばかりでした。

その頃、山を歩きながら楽しいとか淋しいとか、そのようなものとはまったく違った感情を持った経験が1回だけあります。

    

木曽駒ケ岳に登ったときのことです。

その日、北沢峠のテントを出発して、仙水峠に登り、摩利支天の岩壁に圧倒されたあと駒津峰をへて無事甲斐駒ヶ岳の山頂に立つことが出来ました。

その登山のどの段階からか記憶にありませんが、唐突に親父のことが頭に浮かんだのです。

実際には無理なことですが、このような山に連れてきてやると喜ぶのではないか、というようなことを想った記憶もあります。

親父は健在で同居していましたから、亡き親父を思い出したと言うようなドラマチックなものではありません。幼少のころから親父に連れられて旅行していたタカ長が、初めて親父をどこかへ連れて行ってやりたいと思った時だったのかも分かりません。

そのような思いにとらわれると帰心矢の如し、双児山経由で北沢峠に下りるとすぐにテントを撤収、その足で戸台に下山してしまいました。

戸台に下山した翌日広島に帰ったのならこの物語はめでたく完成します。

しかし、戸台に下山したころには親父のことなどどこかへ霧散していました。

    
                  画像はネットより借用

そのときの山旅は天気に恵まれ、予備日を使う必要がありませんでした。その上に予定を早めての下山で1日の余裕が出来ました。その時間を無駄にすることなど考えられません。

その余った時間を使って戸隠高原、そして能登半島の最先端まで放浪しました。遊び過ぎて時間が無くなり、仕方なく特急列車を乗ることになりました。

そのような山旅をして、広島に帰ったときの所持金は100円だけ。その時代、広島のバスセンターから自宅までのバス代が65円でした。まさにギリギリのご帰還です。

それにしてもあの時の親父への気持ち、あれは一体何だったのでしょうか?未だに答えが見つからない、たった独りの山旅の記憶です。


たった独りの山旅~4

2021年01月20日 | 山歩きから
    白い雲に憧れて  霧まく尾根を行く夢は

   星空仰ぎ 山男  カンテラふって 山男


    

「雲に消えゆく山男」でこのように歌われているカンテラとは、このランタンだと思います。

タカ長が子どものころはわが家にも石油を使う、文字通りのカンテラがありましたが、山では石油を利用するカンテラは使わないと思っているのです。しかし、タカ長より前の、古い時代のことは知りません。

タカ長のランタンは処分したので、元山岳部長の登山講座さんの画像を使用させて頂きました。

余談ですが、このサイトはタカ長の貴重な情報源、色々なことを勉強させてもらっています。

タカ長もこのような屋根型のランタンを使用していました。テント生活で使うことが多いのですが、山径で使ったこともあります。

四国の三嶺の稜線。キリが深くて風のない夜でした。

このランタンを持って歩くと、キリの中にランタンの柱の部分が黒い影となって現れました。

ローソクの明かりの光と影、タカ長の目の前に大きな劇場が出現したようでした。

今は明るいLEDのヘッドライトがあるので、ローソクの明かりで山を歩く人はいないでしょうが、山歩きの雰囲気で言えばランタンのものです。

この歳になり、足腰が弱って目があやしくなってくると使うことのできない灯ですが、、、、、

あの風情は忘れられません。


たった独りの山旅~3

2021年01月18日 | 山歩きから
広島県の北東部にある比婆山連峰は何度も歩いた山です。

その頃、土曜日は半ドン、午前の仕事を終えてから急ぎ列車に乗り、JR比婆山駅から歩いて、比婆山連峰の竜王山の麓にある熊野神社までは長いりロード。

熊野神社から山道に入り、那智の滝を過ぎるころには夏でも陽が暮れて、竜王山の山頂近くにある小屋までは夜道を登ることになります。

小屋に素泊まりした翌日は竜王山から比婆山、吾妻山へと縦走して森脇に下り、そこからバスで三次(みよし)に出て帰る1泊2日山旅が基本的なパターンでした。

    

タカカノとテントを持って冬の竜王山に登り、山頂近くでテン泊したこともありますし、日本製鋼所山岳部の人と、無謀な(?)スキー縦走をして土地の古老から叱られたこともあります。

今から思うと時間的な感覚が合わないのですが、しかし、そのような登山をしていたことは間違いありません。弱い登山者だとか、落ちこぼれとか言っていますが、あの頃の登山者は脚力があったのでしょう。

マイカー時代になりJR比婆山駅から熊野神社まで何度も車で走りました。何度走っても長く感じるあの道を、重いザックを担いで歩いていた自分がいたなんて、自分でも信じられないのです。

    

独りで比婆山連峰の縦走したことは何度もありますが、この比婆山では淋しい思いをした記憶はありません。

しかし、怖い思いをしたことは何度もあります。

と言っても技術的なことではありません。

そのころ何度も「独りで山を歩いて怖くありませんか?」と聞かれました。

そのような質問をされて、熊が怖いとか言う人は独りで山を歩いたことがない人だと勝手に持っていました。

山で一番怖いのは夜の山で人に遭うことです。比婆山を例にすれば、、、、

    

那智の滝を過ぎるころから暗くなり、夜道を急いでいたら竜王山のほうから登山者の明かりが見え、その明かりがだんだんと近づいてくる、あの時の何とも言えないような怖さは経験した人でないと分からないはずです。

その明かりの主が普通の登山者と分かり、ホット一息ついで山情報など交換して別れて行くときの安堵感。

忘れることが出来ないたった独りの山旅の思い出です。


たった独りの山旅~2

2021年01月16日 | 山歩きから
植村彦次郎に言われるまでもなく、たった独りの山旅は淋しいものです。

夕暮れどき、厚い雲に覆われた山に入って行くときなど、登山を止めて逃げ帰りたいような衝動にかられたこともあります。

しかし、独りだけの山旅には仲間たちとの山歩きにはないものがあるので、性懲りもなく単独行をしていたのでしょう。

    

半世紀以上前、タカカノと信州を放浪したときに買ったものです。

山旅や旅行のとき買った土産物の類はほとんど処分したのですが、これだけは捨てられないで今も部屋の隅に掛けています。

山を想えば人恋し

人をおもえば山こひ志   慎太郎

    

北アルプス柏原新道を登りながら撮った針ノ木雪渓方面の写真です。細かいことを忘れてしまいましたが、百瀬慎太郎がこの方面の開拓に残した功績が大きかったことは良く知られていることです。

その百瀬慎太郎のことば。

たったこれだけの言葉の中に、登山者の心のすべてを語っているように思います。

と言っても、そのように感じるのは若い感性を持っている時だけかも?

この歳になったタカ長にはそのような感性は枯れたようで、、、、

今のタカ長はそのようなものは感じないまま、独りだけの山歩きを楽しんでいます。