今朝の室温は23℃、半袖のTシャツ1枚ではチョッと肌寒いくらいです。
このまま秋に向かって一直線、、、ならうれしいのですが、まだまだ残暑が続きそうですね。
私たちの山歩きは「おしゃべり登山」です。いつも誰かが何かを話しています。
登山の教科書的にいえば、おしゃべりしながらの登山はエネルギーのロスになるので認められていないはずですが、、、
私たちのグループでがおしゃべり登山が普通の登山で、、、
おしゃべりする声が聞こえなくなると、チョッときついのだろうか、とか、、、
何かあったのだろうかと、心配になるのです。
昨日の裏山歩きもおしゃべりしながらの山歩きでした。その時の話ですが、、、、
「人生は運だ」というようなことを話しながら歩きました。何かのはずみでそのような話題になったのですが、、、
同じようなことを言う仲間は他にもいます。人生は運、、、もう少しいえば努力ではないということ???
タカ長のことを言っても仕方ありませんが、学校を出て就職し、、、
その職場の、直属の上司が山好きで、その上司に誘われて山に行ったのが登山人生の始まりです。
田舎育ちのタカ長にとっては、山は、、、たとえば薪を取りに行くところでした。
だから、山に誘われたとき「何をしに行くのですか?」と答えたことを今でも覚えています。
その時から始めた山歩きの延長線上に、今の仲間たちとの山歩きがあるのですが、、、、、
そしてその山歩きをすることで幸せな年金生活をしているのですから、いま思えばその上司との出会いは運命的、、、
しかし、私が望んでその上司についたわでではありません。すべて運です。
考えてみれば人との出会いは運まかせ、自分であれこれ画策して出会いを演出することは少ないのではないでしょうか?
あの人に出遭ったために白い粉に手を出すことになり、、、、というような例もあれば、、、、
あの人から引き立てられて道が開けてきたというような出遭いもあります。そこでも運が大きく左右します。
また、ひととの出会いばかりでなく、人生のあらゆる段階で、自分だでの努力ではどうすることも出来ないことに遭遇します。
タカカノの甥はかの有名な自動車会社に努めていましたが、その会社が不正を行って仕事は激減、、
転職を余儀なくされました。これなど本人にはまったく落ち度のない、天から降ってきた災難ともいえます。
人生を生きていく段階で、そのようなことに出遭う人もいれば大過なく仕事人生を卒業する人もいます。
それもまた運と言えば運、当人の努力ではどうすることもできません。
昨日仲間と話したのは、彼の友だちが運のよい仕事人生を過ごしてきたということです。
といても、、、、例えば、豊臣秀吉のような、特別な出世物語ではありません。
普通の人がチョッとだけ儲けた、という程度の話ですが、そのような話をしながら、、、、、、
そして帰宅してから、運についてあれこれ考えました。
タカ長のささやかに人生経験から言っても「人生は運」ということに違和感を感じることはありませんが、、
だからと言って、人生は運だから勉強しなくてもいい、ということにはなりません。
運がめぐってきても、自分に力がなければその運に乗ることはできません。そのために勉強はしないといけないのですが、、、
若い時は学校での勉強も大切、、、しかし、ひと歳ひろってタカ長のような歳になると、、、
その勉強は、、いま流のことばでいえば「感謝力」を身につけることではないかということに思い至りました。
運に乗れるか乗れないか、そのキーワードは「感謝力」というわけです。
昨日仲間から聞いた友だちの話も、、、、
その人が「感謝力」をお持ちなので、秀吉的な大出世でなくても、ご自分の人生は運が良かったとふり返ることが出来たのだと思います。
反対に、、その「感謝力」を持っていないと、何百億円儲けても、自分は運が良かったとは思えないはずです。
タカ長など人のことを偉そうにあれこれ言うことはできませんが、その「感謝力」がないためにせっかくの運に乗れない人を身近に見ています。
人のことは見えても自分のことは分からないのが人生、、、
偉そうなことは言わないで、その「感謝力」だけは磨きつづけたいと願っているタカ長です。
このまま秋に向かって一直線、、、ならうれしいのですが、まだまだ残暑が続きそうですね。
私たちの山歩きは「おしゃべり登山」です。いつも誰かが何かを話しています。
登山の教科書的にいえば、おしゃべりしながらの登山はエネルギーのロスになるので認められていないはずですが、、、
私たちのグループでがおしゃべり登山が普通の登山で、、、
おしゃべりする声が聞こえなくなると、チョッときついのだろうか、とか、、、
何かあったのだろうかと、心配になるのです。
昨日の裏山歩きもおしゃべりしながらの山歩きでした。その時の話ですが、、、、
「人生は運だ」というようなことを話しながら歩きました。何かのはずみでそのような話題になったのですが、、、
同じようなことを言う仲間は他にもいます。人生は運、、、もう少しいえば努力ではないということ???
タカ長のことを言っても仕方ありませんが、学校を出て就職し、、、
その職場の、直属の上司が山好きで、その上司に誘われて山に行ったのが登山人生の始まりです。
田舎育ちのタカ長にとっては、山は、、、たとえば薪を取りに行くところでした。
だから、山に誘われたとき「何をしに行くのですか?」と答えたことを今でも覚えています。
その時から始めた山歩きの延長線上に、今の仲間たちとの山歩きがあるのですが、、、、、
そしてその山歩きをすることで幸せな年金生活をしているのですから、いま思えばその上司との出会いは運命的、、、
しかし、私が望んでその上司についたわでではありません。すべて運です。
考えてみれば人との出会いは運まかせ、自分であれこれ画策して出会いを演出することは少ないのではないでしょうか?
あの人に出遭ったために白い粉に手を出すことになり、、、、というような例もあれば、、、、
あの人から引き立てられて道が開けてきたというような出遭いもあります。そこでも運が大きく左右します。
また、ひととの出会いばかりでなく、人生のあらゆる段階で、自分だでの努力ではどうすることも出来ないことに遭遇します。
タカカノの甥はかの有名な自動車会社に努めていましたが、その会社が不正を行って仕事は激減、、
転職を余儀なくされました。これなど本人にはまったく落ち度のない、天から降ってきた災難ともいえます。
人生を生きていく段階で、そのようなことに出遭う人もいれば大過なく仕事人生を卒業する人もいます。
それもまた運と言えば運、当人の努力ではどうすることもできません。
昨日仲間と話したのは、彼の友だちが運のよい仕事人生を過ごしてきたということです。
といても、、、、例えば、豊臣秀吉のような、特別な出世物語ではありません。
普通の人がチョッとだけ儲けた、という程度の話ですが、そのような話をしながら、、、、、、
そして帰宅してから、運についてあれこれ考えました。
タカ長のささやかに人生経験から言っても「人生は運」ということに違和感を感じることはありませんが、、
だからと言って、人生は運だから勉強しなくてもいい、ということにはなりません。
運がめぐってきても、自分に力がなければその運に乗ることはできません。そのために勉強はしないといけないのですが、、、
若い時は学校での勉強も大切、、、しかし、ひと歳ひろってタカ長のような歳になると、、、
その勉強は、、いま流のことばでいえば「感謝力」を身につけることではないかということに思い至りました。
運に乗れるか乗れないか、そのキーワードは「感謝力」というわけです。
昨日仲間から聞いた友だちの話も、、、、
その人が「感謝力」をお持ちなので、秀吉的な大出世でなくても、ご自分の人生は運が良かったとふり返ることが出来たのだと思います。
反対に、、その「感謝力」を持っていないと、何百億円儲けても、自分は運が良かったとは思えないはずです。
タカ長など人のことを偉そうにあれこれ言うことはできませんが、その「感謝力」がないためにせっかくの運に乗れない人を身近に見ています。
人のことは見えても自分のことは分からないのが人生、、、
偉そうなことは言わないで、その「感謝力」だけは磨きつづけたいと願っているタカ長です。