タカ長の山ときどきタカ見と同じ内容です。
伯耆大山の想い出を書いていますが、タカ長が初めて大山を縦走したのは三鈷峰から剣ヶ峰、弥山だと思っていました。しかし、それはタカ長の記憶違いであることが分かりました。
机の奥の方を探していたら、捨てないでおいた古い山日記が出てきたのです。
初めて山らしい山に登った。と言う文で始まる山日記の骨子を紹介します。
1960年7月16日18時15分貸切バスで出発。 三次・米子経由
7月17日 2時30分 大山寺着 仮眠
5時45分 登山開始 夏道を登る
8時10分 頂上着 ガスが巻いてくる
時間記録ナシ 縦走開始
ユートピア着 時間が遅れているので三鈷峰には登らない
上宝珠越えから砂滑りを通って元谷に下りる
画像はネットより借用したものです
今では信じがたい気持ちですが、大山の尾根を団体で縦走していたことは間違いありません。
その頃は今ほど崩落が進んでいなかったのでしょうが、それでも難所続きで、「細い所では1尺もない尾根」と山日記にも書いていました。
「終始ガスっていたのは残念だが、ガスが無かったら足がすくんでいたかも」とも書いています。
大山には何度も登っているので記憶が錯綜していますが、初めての大山であの尾根を団体で歩いたことは間違いありません。
その頃、大山登山と言えば縦走するものだと思っていました。
要するに、あの頃の登山者は若かったということでしょう。もし今、あの尾根が縦走禁止で無かったとしても、この歳になると縦走は絶対に無理ですね。
伯耆大山の想い出を書いていますが、タカ長が初めて大山を縦走したのは三鈷峰から剣ヶ峰、弥山だと思っていました。しかし、それはタカ長の記憶違いであることが分かりました。
机の奥の方を探していたら、捨てないでおいた古い山日記が出てきたのです。
初めて山らしい山に登った。と言う文で始まる山日記の骨子を紹介します。
1960年7月16日18時15分貸切バスで出発。 三次・米子経由
7月17日 2時30分 大山寺着 仮眠
5時45分 登山開始 夏道を登る
8時10分 頂上着 ガスが巻いてくる
時間記録ナシ 縦走開始
ユートピア着 時間が遅れているので三鈷峰には登らない
上宝珠越えから砂滑りを通って元谷に下りる
画像はネットより借用したものです
今では信じがたい気持ちですが、大山の尾根を団体で縦走していたことは間違いありません。
その頃は今ほど崩落が進んでいなかったのでしょうが、それでも難所続きで、「細い所では1尺もない尾根」と山日記にも書いていました。
「終始ガスっていたのは残念だが、ガスが無かったら足がすくんでいたかも」とも書いています。
大山には何度も登っているので記憶が錯綜していますが、初めての大山であの尾根を団体で歩いたことは間違いありません。
その頃、大山登山と言えば縦走するものだと思っていました。
要するに、あの頃の登山者は若かったということでしょう。もし今、あの尾根が縦走禁止で無かったとしても、この歳になると縦走は絶対に無理ですね。
伯耆大山には何度も登っています。
伯耆大山は広島から一番近い、アルペン的な風貌を持った山です。だから、タカ長だけではありませんが、広島の山好きは大山に通うことになるのです。
その頃の記録は手元にありませんが、3月と9月以外は一応大山に登っているはずです。その中で一番の思い出は昨日も紹介した初めての冬山大山です。
その頃、この遭難者のルートを下りて亡くなった登山者がいたはずです。その罠に落ちないためリーダーのKは実に慎重に行動していました。
リーダーのKを信頼していたからでしょうか、グレイアウトの状態になっても怖さは感じませんでした。
しかし、無事に生還して、大山寺から雲のかかった山頂を見た時には泣けてきました。生還の喜びと山の怖さを教えられた瞬間でした。
初めての夏山は三鈷峰から山頂、弥山への縦走でした。
三鈷峰で北壁の展望を楽しんでいたら冷たい風が吹いてきて、北壁はあっという間に雲の中に消えました。山の天気は一瞬で変わることを体感しました。
その二つの経験がタカ長の登山の下敷きになっています。
慎重な登山活動をするためには、最初の段階で山からぶん殴られるような経験をするのが良いのかも分かりません。
画像はネットより借用したものです
甘い言葉で誘われて、運よく天気に恵まれて、良かった良かったで終わってしまうと、その後の登山で隙が出ます。
初めての冬山でこのような尾根を歩いてしまうと、冬山は怖いものだと言われても、もう一つ実感がわかないのではないでしょうか。
体力も能力もないタカ長が、時にはバカなことをしながらも、今日まで事故なく登山が出来ているのは、最初の段階で、伯耆大山からぶん殴られたような経験をしているからかも分かりません。
その意味で、伯耆大山はタカ長の大切な山の先生です。
伯耆大山は広島から一番近い、アルペン的な風貌を持った山です。だから、タカ長だけではありませんが、広島の山好きは大山に通うことになるのです。
その頃の記録は手元にありませんが、3月と9月以外は一応大山に登っているはずです。その中で一番の思い出は昨日も紹介した初めての冬山大山です。
その頃、この遭難者のルートを下りて亡くなった登山者がいたはずです。その罠に落ちないためリーダーのKは実に慎重に行動していました。
リーダーのKを信頼していたからでしょうか、グレイアウトの状態になっても怖さは感じませんでした。
しかし、無事に生還して、大山寺から雲のかかった山頂を見た時には泣けてきました。生還の喜びと山の怖さを教えられた瞬間でした。
初めての夏山は三鈷峰から山頂、弥山への縦走でした。
三鈷峰で北壁の展望を楽しんでいたら冷たい風が吹いてきて、北壁はあっという間に雲の中に消えました。山の天気は一瞬で変わることを体感しました。
その二つの経験がタカ長の登山の下敷きになっています。
慎重な登山活動をするためには、最初の段階で山からぶん殴られるような経験をするのが良いのかも分かりません。
画像はネットより借用したものです
甘い言葉で誘われて、運よく天気に恵まれて、良かった良かったで終わってしまうと、その後の登山で隙が出ます。
初めての冬山でこのような尾根を歩いてしまうと、冬山は怖いものだと言われても、もう一つ実感がわかないのではないでしょうか。
体力も能力もないタカ長が、時にはバカなことをしながらも、今日まで事故なく登山が出来ているのは、最初の段階で、伯耆大山からぶん殴られたような経験をしているからかも分かりません。
その意味で、伯耆大山はタカ長の大切な山の先生です。
先日、古い鳥友から電話がありました。
このブログの更新が止まっているけど元気なのか、と言う電話です。
このブログの容量がいっぱいになり、これからはタカ長の山ときどきタカ見に引っ越しする、と案内したはずですが、それを見ていなかったのでしょうか?
何かにつけてドジをする歳ですから深くは考えません。
このブログも写真の枚数を減らせばもう少しは更新できますから、これからは週1くらいは更新しましょうか?
タカ長の山ときどきタカ見と同じような内容です。
YAMAPからの情報です。
正直言うと、アホかぁ、、、、と思いました。
突然の吹雪、ホワイトアウト。冬の大山ならそんなの当たり前じゃん。
タカ長の知っている冬の大山はいつも吹雪状態です。
チョット吹雪くだけで遭難騒ぎを起こすような人は冬の大山に行くなやぁ、、、、と思うのです。
右が正規のルート、左が遭難者の軌跡です。
大きな青〇のところでビバークしたところを保護されました。
タカ長が初めての冬山で下りたのも右のルートです。
そのときは猛吹雪、ホワイトアウトではなくてグレイアウト、それもブラックに近い状態でした。その中をリーダーのKさんは頻繁に下山ルートを確認しながら、無事に夏山コースの尾根に下りて行きました。
さすが、広島高等師範学校山岳部OBの猛者です。
この登山者が今どきの器機を持っているのに、何故ルートを外したのか、タカ長には理解できないところがあります。
生意気なことを言うようですが、そのレベルの登山者は冬の大山に登ってはいけません。冬の大山は吹雪くことが普通で、晴れることのほうが珍しいのです。
そのようなことを前提に登山計画を立て、自分の能力を冷静に見ないといけません。
ともあれ伯耆大山のこのコースは、タカ長には忘れることが出来ないコースなのです。
お粗末なリーダーと行っていたら、タカ長の人生はあの時で終わったかも分からないのですから、、、、、、。
タカ長の山ときどきタカ見は毎日更新するよう頑張っています。
こちらのほうをお気に入り登録して頂けると幸いです。
このブログの更新が止まっているけど元気なのか、と言う電話です。
このブログの容量がいっぱいになり、これからはタカ長の山ときどきタカ見に引っ越しする、と案内したはずですが、それを見ていなかったのでしょうか?
何かにつけてドジをする歳ですから深くは考えません。
このブログも写真の枚数を減らせばもう少しは更新できますから、これからは週1くらいは更新しましょうか?
タカ長の山ときどきタカ見と同じような内容です。
YAMAPからの情報です。
正直言うと、アホかぁ、、、、と思いました。
突然の吹雪、ホワイトアウト。冬の大山ならそんなの当たり前じゃん。
タカ長の知っている冬の大山はいつも吹雪状態です。
チョット吹雪くだけで遭難騒ぎを起こすような人は冬の大山に行くなやぁ、、、、と思うのです。
右が正規のルート、左が遭難者の軌跡です。
大きな青〇のところでビバークしたところを保護されました。
タカ長が初めての冬山で下りたのも右のルートです。
そのときは猛吹雪、ホワイトアウトではなくてグレイアウト、それもブラックに近い状態でした。その中をリーダーのKさんは頻繁に下山ルートを確認しながら、無事に夏山コースの尾根に下りて行きました。
さすが、広島高等師範学校山岳部OBの猛者です。
この登山者が今どきの器機を持っているのに、何故ルートを外したのか、タカ長には理解できないところがあります。
生意気なことを言うようですが、そのレベルの登山者は冬の大山に登ってはいけません。冬の大山は吹雪くことが普通で、晴れることのほうが珍しいのです。
そのようなことを前提に登山計画を立て、自分の能力を冷静に見ないといけません。
ともあれ伯耆大山のこのコースは、タカ長には忘れることが出来ないコースなのです。
お粗末なリーダーと行っていたら、タカ長の人生はあの時で終わったかも分からないのですから、、、、、、。
タカ長の山ときどきタカ見は毎日更新するよう頑張っています。
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「たった独りの山旅」と言うタイトルですが、寄り道みたいな話題です。
たった独りの山旅ではなく、タカカノと二人で行った信州の高原歩きです。
昭和40年のゴールデンウイークに信州の高原歩きをしました。証拠物件の写真が残っていました。
古くから登山をされている人は記憶にあると思いますが、昭和40年のゴールデンウイークと言えば全国の山で大量遭難が起こった年です。
死亡62名 重症12名 軽症29名 行方不明1名
その時タカ長たちは菅平高原にいました。
前日から天気が悪かったので、少しでも雨が凌げると思い、運よく見つけて東屋みたいなものの下にテントを張りました。
その東屋が深夜に倒壊。
テントを張る場所が少し違っていたら、死亡者の数字が64名になったかも分かりませんし、運が良くても重症者が14名になっていたかもわかりません。
そのように考えると今でもゾッとします。タカ長には想い出の写真です。
信州だけではありませんが、そのころ具体的にどこにテントを張っていたのか記憶が無くなりました。キャンプ指定地に張ったことは少ないような気がしています。
これは高原歩きの最後、野辺山高原で撮ったものです。この野辺山高原のどこでテントを張ったのかはまったく記憶がありません。
信州の高原歩きをしたのはこの時だけではありませんが、記憶に強く残っているのは、大量遭難のあった昭和40年のゴールデンウイークの山旅です。
たった独りの山旅ではなく、タカカノと二人で行った信州の高原歩きです。
昭和40年のゴールデンウイークに信州の高原歩きをしました。証拠物件の写真が残っていました。
古くから登山をされている人は記憶にあると思いますが、昭和40年のゴールデンウイークと言えば全国の山で大量遭難が起こった年です。
死亡62名 重症12名 軽症29名 行方不明1名
その時タカ長たちは菅平高原にいました。
前日から天気が悪かったので、少しでも雨が凌げると思い、運よく見つけて東屋みたいなものの下にテントを張りました。
その東屋が深夜に倒壊。
テントを張る場所が少し違っていたら、死亡者の数字が64名になったかも分かりませんし、運が良くても重症者が14名になっていたかもわかりません。
そのように考えると今でもゾッとします。タカ長には想い出の写真です。
信州だけではありませんが、そのころ具体的にどこにテントを張っていたのか記憶が無くなりました。キャンプ指定地に張ったことは少ないような気がしています。
これは高原歩きの最後、野辺山高原で撮ったものです。この野辺山高原のどこでテントを張ったのかはまったく記憶がありません。
信州の高原歩きをしたのはこの時だけではありませんが、記憶に強く残っているのは、大量遭難のあった昭和40年のゴールデンウイークの山旅です。