★韮崎大村美術館。
12日は非常に混雑すると思ったので、13日に韮崎大村美術館に行って来ました。
目当ては宮尾登美子の「序の舞」のモデルとなった京都画壇の上村松園でしたが、やはり素晴らしかった。
展示されている絵画は女流の素晴らしい作品で、女子美大の元理事長であった大村さんの眼力の凄さを見る思いがしたものです。
作品を堪能してから、近接している露天風呂に入り、それから蕎麦を御馳走になりました。
そうして半日を過ごしてみると、心がほっこりと癒やされ、大村さんの滅私奉公の社会貢献というか人柄がヒシヒシと感じられものです。
神は人を見て、ノーベル賞を与えている、ということですね。
さて、韮崎、何の観光資源もない町だが、戦国時代は武田勝頼が築城した「新府城」があった。しかし、武田勝頼の本質は世襲ボンボンの世間知らず、だから血吹雪を顔に浴びて勝ち上がってきた織田信長、徳川家康連合軍の敵ではなかった。
新府城を攻め落とされ、勝頼一族は甲府の天目山に逃げ惑った時には、600名いた家臣団は約40名に激減しており、しかも一族の仲であり山田信茂を頼って逃げて来たのだが、山田信茂に鉄砲を撃たれて反旗を翻され、行き場を失ってしまった。
最後に、織田徳川連合軍の獰猛で血に飢えた落ち武者狩り部隊と一戦を交え、勝頼は正室(北条の姫)と多数の美麗な側室を刺し殺してから、自身も自刃して果てた。
真田昌幸からは山田と命運を共にせず、真田の本城・上田城に入ることを強く勧められたが、それを拒否したのは世襲ボンボンの世間を見る目の無さであったろう。
なお、山田信茂は、「最後に裏切るとは卑怯の極み」と織田信長に断罪され、首を刎ねられている。
そんな歴史絵巻に思いを馳せながら、新府城跡の傍らでじっとしていると、韮崎の遠景は美しい茜色に染まり、かつての栄華盛衰を示すかのように一瞬輝いた。
その風景は勝頼も見ていたに相違ない。
(じゅうめい)