★自民党の下村博文。
やっぱり、違法献金、つまり贈収賄があったということですね。
加計問題では、カネの裏取引、つまり贈収賄がなければ、安倍さんがリードする戦略特区の中で、加計の獣医学部新設は問題ないと私は本ブログで述べてきたが、今回、文春砲が炸裂したように、裏でカネのやり取りがあったとすれば、加計問題は別の面、つまり刑事事件の対象になって来る。
加計の秘書が下村事務所に計200を持って来たが、領収書は11枚、つまり1枚につき20万円以下になるように小細工をした訳だ。
20万円以下に小分けにすれば、パーティー券の購入者の法人名や氏名を公開しなくて済む。
しかもそのカネの受け取りは下村が文部科学大臣であった2013年と14年に計200万円を受け取ったということは、獣医学部の認可に伴う受託収賄罪に該当する。
昨日の釈明会見で下村は、「加計からではなく、別の11の個人と企業から、たまたま秘書室長が預かったもの」と説明したが、加計学園は、「11名は加計学園関係の個人と関連会社」と証言した。これで下村の化けの皮がはがれた。
なお、会見で下村は、「下村事務所の誰かの内部告発がなければ、この200万円パーティー券の問題は暴露されることはなかった」と述べたが、その内部告発者は都議選板橋区で都ファから立候補している平慶翔(下村の元秘書、平愛梨の弟、サッカー長友の義弟)を指しているのだが、平慶翔はすかさず、下村事務所を退職した際、書かされたという「金銭横領」と「事務所のパソコン隠匿」を認めた自筆署名入りの上申書は捏造であると弁護士を通じて訴えた。
その自筆署名は自分(平)の筆跡と異なるという。
その金銭横領とパソコン隠匿を認めた文書と退職願いの文書は既にネットに公開されているのだが。
都議選投開票を前にして、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の怪談話になって来た、ドクロ城の攻防戦。もはや正規戦でなく、糞尿の掛け合いだな。(笑)
★韓国ソウルの米国大使館。
ソウルで数千人が集まり、日本大使館からも近い米国大使館に対して「サード反対の人間鎖デモ」を強行した韓国。
これに対して米国大使館は、それを許した韓国政府にウイーン条約違反であると公式に文書で抗議したという。
当然ですね。
東京の六本木の近くにある狸穴(まみあな)にロシア大使館があるが、常時、警察の機動部隊はロシア大使館に通じる道路にデモ隊が入れぬように、バリケード態勢を築いている。狸穴(まみあな)とは本当の地名だから、ロシア大使館にはピッタリ。
そしてロシア大使館の横というか、裏手には米国大使館がバックについているアメリカンクラブがあるのだから、面白い。アメリカンクラブに一歩入れば、そこは完全にアメリカのセレブ・クラブですね。
さて、話がそれたが、日本も韓国政府に慰安婦像と大使館前の集会はウイーン条約違反であると、事あるごとに韓国政府はもちろん、世界に向けて発信し続けなければダメですよ。特に朝日新聞が好きな国連には。
安倍さんや菅さん、岸田さんは間抜けな三バカ大将だからなあ。
★中国人の堕落論。
日本に留学中の中国人が、坂口安吾の「堕落論」に興味を持った。
「堕落」という言葉と解説に興味をそそられたからだという。
そして、その日本語の本をクラスにいた中国人留学生に中国語に翻訳してもらったところ、解説とは違う意味になったことに気づいた。
不思議に思った中国人は翻訳してくれた中国人に、なぜ原文の日本語の意味と違うのかと尋ねると、翻訳した中国人は「世の中にこんな考え方をする人はいない。だからこのように訳さなければ道理が通らない。だからこう翻訳したアル」とな。
ひえ~、中国人は恐ろしい。
坂口安吾の思想は彼独自の世界観であり哲学である。
それに対する批評は許されるが、その思想は道理に合わないから意味を変えるというのは、中国の共産党独裁による他の思想を認めないという独善教育の結実なんだな。
坂口安吾の「堕落論」(1947年刊)とは、
終戦後のすっかり変わり果てた世相を見ながら、戦争に負けたから堕落するのではなく、元から堕落の本性が備わっているのが人間であるとする。
しかしながら、一方でまた人間とは、堕落しきることもできない性質も持ち合わせ、完全なる自由を許されると不可解な不自由さを感じ、人間を超える神聖的なるものを追い求めて止まない生き物であるとする。
そして人間の本性は、政治の変革などでは変わることも救われることもなく、そうした他者からの借り物ではなく、人間の真理を生み出すためには、堕落するべき道を正しく堕落することが大事である。
敗戦で世も変わり果て、戦場から帰還した生き残りの兵士も闇屋になり、涙を流して夫や恋人を見送り、亡夫の位牌に泣いていた女にもやがて新しい男ができる。
それは人間が変わったのでなく、元から人間とはそうしたものであり、変化したのは世の中の表層だけである。
戦争中、私(坂口安吾)は、死と隣り合わせの空襲の中、爆弾や焼夷弾に逃げ惑いながらも狂暴な破壊に興奮していた。そして、この時ほど人間を愛した時はなかった。
一人の馬鹿者であった私は、惚れ惚れとその破壊の美しさに見とれていたのだ。
あの天啓の破壊の下では、死の訪れはあったが、堕落はなかった。
死の運命に従順な人々の美しさがあった。
それに比べれば、敗戦後の生活はただの堕落にしか過ぎない。
そして堕落する道を追求し、極めることにより、自分自身を、そして日本を発見し救わなければならない。表層に見える救いなどは、上辺だけの愚にもつかぬものなのだ。
(坂口安吾の堕落論)
(じゅうめい)