滋賀の野洲養護学校での寄宿舎を中心とした事例検討会に参加した。子どものケース検討は興味深いもので、重要なものと思った。小・中・高と寄宿舎(そして家庭)と子どもの発達と障害、生活の姿を総合的に検討できることはいまどこでも難しくなってきている。個人情報だといって、回避されてしまうこともあり、家庭や教師や子どもといったばらばらに責任を押しつけ合うということにもなっている場合もある。
電車の中で、NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』(文藝春秋、2010年11月)を読み終わる。最後の章で不覚にも電車の中で胸が詰まってしまう。これについては、また書きたい。
松本先生の余録は最後の部分。京都府単独の訪問教育制度の発足秘話である。京都府下南部の全員就学を支える制度としての訪問教育として位置づけるられるものであるが、コメントさんのように施策として多様な選択肢が用意されたわけではないともいえるかもしれない。
-その4-
(3)京都府の初の全国初の訪問教育制度の実施
桃山分校の1年次、72年度となった頃、京都府教育委員会は、全国の都道府県で最初に全員就学の方針を確認していた。さらにそれを徹底しようとするとき、病虚弱・重症児などの在宅の通学・寄宿舎入舎の困難な事例をどうするかの課題があった。
2学期になって、府教委の学校教育課・保健体育課・教職員課と府教育研究所から関係する担当者、学校から与謝の海本校、桃山分校・向日が丘から各1名が集まった。訪問教育制度の内容と実施要綱案を学校教育課が主催しながら秘密会として検討するというものだった。秘密会とするのは、義務教育として学籍をつけての訪問教育は、国の制度にも全国の都道府県にも例ののないもの、予算的にも府単費持ち出しであり、知事部局の了解が得られないやもしれない時のことをおもんばかってのことだった。
案の定、財政折衝は、暗礁に乗り上げた。財政課レベルにおける交渉から、総務部長・教育長レベルの折衝も合意にいたらず、ついに最終の知事直接決済事項となる。
2月に入っていたのではなかったか、長澤学校教育課長(故人)から、「夕方5時から知事と会ってくる。これが最後だ。東城君(義務教育係長。故人)といってくる」と電話があった。
あくる朝、どうだったかなと思っている所へ電話があった。「できたぞ!通ったぞ!」と。すでに知事も事の概略は承知されていたのだが、もう一度、就学猶予・全国動向・子ども達・父母達の実態ねがい・全員就学を京都府がリードすることの意義などについての説明応答の後、「それにしても教員を家庭に訪問させて教えることを、養護学校の教員にさせていいのか。養護学校の教員は嫌がらずにやってくれるのか」と聞かれて、「やってくれます。大丈夫です!じつは養護学校の教員諸君が、『学校に来れない子達を放っておかないで、一人残らずやりましょうといってくれているんです』と言った時には脚が振るえたっちゃ。そしたら知事が『そうかあ』といって、しばらく眼をつむってじっとしておられるんだ。そして、眼をあけて、『よしっ、やりましょう。予算をつけましょう』といわれたんだ」ということだった。私には電話の言葉や響きの感動が、今も脳裏にある。
桃山分校の2年次、73年4月から与謝の海本校、桃山分校、京都市域は市立呉竹養護学校が担当して、京都府全域にわたっての全員就学の態勢は大きく前進したのだった。
2年次の分校は、児童生徒102名内訪問教育21名。教職員28名。もはや独立校に匹敵する態様で、本格開校も進めていった。
(4)養護学校教育全員就学義務制政令公布
1973(昭和41)年11月20日朝、一般的に「養護学校義務制実施、昭和54年(79年)4月より」といわれる政令公布がマスコミによって大々的に報じられた。私は、これの、都道府県において養護学校必置を義務とすることよりも、「全員就学を原則とする」としたところが感慨無量であった。義務制実施と全員就学原則は本来別のもので、義務制実施が自動的に全員就学を実現するものではなく、就学猶予免除はそのままということはあり得ることだった。
その朝、職員朝礼で、「義務制実施全員就学、政令公布された」ことを告げた。「それがどうした。すでに当たり前のこと」とでもいうような皆の反応だった。与謝の海開校時の「石にかじりついてでもやりきる」と意思統一し、全力投球の実践追求に明け暮れした集団と、その積み上げで京都においては全員就学が当然となっている後発の学校現場とでは差があるのだなと納得した。
「ついにやりきったな」と、府教委や与謝の海と電話せずにいられなかった。その日一日中、私は「よし、やりきれた。これで全員就学はゆるぎないものとなった。もうつぶされないぞ」と体中の血がわきたつ感動に浸り続けていた。
5.むすび
思い起こせば、与謝の海の開校と軌を一にしたように、国会において繰り返し就学猶予免除問題がとりあげられ出した。そして全国あちらこちの地方議会においてもとりあげられ始めた。
71年、京都府議会においては、京都北部障害者問題連絡会(北障連)の署名請願の「就学猶予免除の撤廃にうjちえの国への意見書提出要請について」に基づき、委員会での相当な討議を経て、全会派賛同の下に意見書が採択・提出されたこともあった。
与謝の海本校開校の70年度に、調査見学来校者が2000人、翌年度は2学期を終えた頃だったか2000人を越えたと事務室から聞いた記憶がある。桃山分校にも「京都の障害児教育を知りたい」と全国からかなりの来校者があった。
ともし火は、正に全国に燎原の火のように広がり、「納得の上で普遍性を実現していく」国民大衆の高まりが、国の教育政策として打ち立てられていったとみられる。
電車の中で、NHK「無縁社会プロジェクト」取材班『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』(文藝春秋、2010年11月)を読み終わる。最後の章で不覚にも電車の中で胸が詰まってしまう。これについては、また書きたい。
松本先生の余録は最後の部分。京都府単独の訪問教育制度の発足秘話である。京都府下南部の全員就学を支える制度としての訪問教育として位置づけるられるものであるが、コメントさんのように施策として多様な選択肢が用意されたわけではないともいえるかもしれない。
-その4-
(3)京都府の初の全国初の訪問教育制度の実施
桃山分校の1年次、72年度となった頃、京都府教育委員会は、全国の都道府県で最初に全員就学の方針を確認していた。さらにそれを徹底しようとするとき、病虚弱・重症児などの在宅の通学・寄宿舎入舎の困難な事例をどうするかの課題があった。
2学期になって、府教委の学校教育課・保健体育課・教職員課と府教育研究所から関係する担当者、学校から与謝の海本校、桃山分校・向日が丘から各1名が集まった。訪問教育制度の内容と実施要綱案を学校教育課が主催しながら秘密会として検討するというものだった。秘密会とするのは、義務教育として学籍をつけての訪問教育は、国の制度にも全国の都道府県にも例ののないもの、予算的にも府単費持ち出しであり、知事部局の了解が得られないやもしれない時のことをおもんばかってのことだった。
案の定、財政折衝は、暗礁に乗り上げた。財政課レベルにおける交渉から、総務部長・教育長レベルの折衝も合意にいたらず、ついに最終の知事直接決済事項となる。
2月に入っていたのではなかったか、長澤学校教育課長(故人)から、「夕方5時から知事と会ってくる。これが最後だ。東城君(義務教育係長。故人)といってくる」と電話があった。
あくる朝、どうだったかなと思っている所へ電話があった。「できたぞ!通ったぞ!」と。すでに知事も事の概略は承知されていたのだが、もう一度、就学猶予・全国動向・子ども達・父母達の実態ねがい・全員就学を京都府がリードすることの意義などについての説明応答の後、「それにしても教員を家庭に訪問させて教えることを、養護学校の教員にさせていいのか。養護学校の教員は嫌がらずにやってくれるのか」と聞かれて、「やってくれます。大丈夫です!じつは養護学校の教員諸君が、『学校に来れない子達を放っておかないで、一人残らずやりましょうといってくれているんです』と言った時には脚が振るえたっちゃ。そしたら知事が『そうかあ』といって、しばらく眼をつむってじっとしておられるんだ。そして、眼をあけて、『よしっ、やりましょう。予算をつけましょう』といわれたんだ」ということだった。私には電話の言葉や響きの感動が、今も脳裏にある。
桃山分校の2年次、73年4月から与謝の海本校、桃山分校、京都市域は市立呉竹養護学校が担当して、京都府全域にわたっての全員就学の態勢は大きく前進したのだった。
2年次の分校は、児童生徒102名内訪問教育21名。教職員28名。もはや独立校に匹敵する態様で、本格開校も進めていった。
(4)養護学校教育全員就学義務制政令公布
1973(昭和41)年11月20日朝、一般的に「養護学校義務制実施、昭和54年(79年)4月より」といわれる政令公布がマスコミによって大々的に報じられた。私は、これの、都道府県において養護学校必置を義務とすることよりも、「全員就学を原則とする」としたところが感慨無量であった。義務制実施と全員就学原則は本来別のもので、義務制実施が自動的に全員就学を実現するものではなく、就学猶予免除はそのままということはあり得ることだった。
その朝、職員朝礼で、「義務制実施全員就学、政令公布された」ことを告げた。「それがどうした。すでに当たり前のこと」とでもいうような皆の反応だった。与謝の海開校時の「石にかじりついてでもやりきる」と意思統一し、全力投球の実践追求に明け暮れした集団と、その積み上げで京都においては全員就学が当然となっている後発の学校現場とでは差があるのだなと納得した。
「ついにやりきったな」と、府教委や与謝の海と電話せずにいられなかった。その日一日中、私は「よし、やりきれた。これで全員就学はゆるぎないものとなった。もうつぶされないぞ」と体中の血がわきたつ感動に浸り続けていた。
5.むすび
思い起こせば、与謝の海の開校と軌を一にしたように、国会において繰り返し就学猶予免除問題がとりあげられ出した。そして全国あちらこちの地方議会においてもとりあげられ始めた。
71年、京都府議会においては、京都北部障害者問題連絡会(北障連)の署名請願の「就学猶予免除の撤廃にうjちえの国への意見書提出要請について」に基づき、委員会での相当な討議を経て、全会派賛同の下に意見書が採択・提出されたこともあった。
与謝の海本校開校の70年度に、調査見学来校者が2000人、翌年度は2学期を終えた頃だったか2000人を越えたと事務室から聞いた記憶がある。桃山分校にも「京都の障害児教育を知りたい」と全国からかなりの来校者があった。
ともし火は、正に全国に燎原の火のように広がり、「納得の上で普遍性を実現していく」国民大衆の高まりが、国の教育政策として打ち立てられていったとみられる。
その朝、職員朝礼で、「義務制実施全員就学、政令公布された」ことを告げた。「それがどうした。すでに当たり前のこと」とでもいうような皆の反応だった。
後発の学校現場とでは差があるのだなと納得した。
と松本先生が述べられている。この「差」なるものは、ズーッと桃山養護学校に「影」を落としていたと思えてならない。その例はいくらでも挙げることが出来るが、一例だけをあげておきたい。
京教組障害児教育部と府教委交渉の席で、桃山養護学校の仲間から突然、「腰痛健診をやめてほしい。」「授業の邪魔になる。」と言う発言があった。そのため当時腰痛に苦しんでいた向ヶ丘養護学校の仲間から激しい反論が行われ、交渉どころではなくなった。
「そのようになるのも府教委の腰痛健診がずさんだからだ。もっと、受診しやすい条件をつくることが基本ではないか。」ということで、交渉にピリオドを打っようにしたが、交渉後、桃山養護学校の仲間と向ヶ丘養護学校の仲間との感情的対立は、収まらなかった。
何ごとも授業優先と桃山養護学校の仲間は言いのけたが、私には大いなる問題しか残らなかった。
松本先生は、「義務制実施全員就学、政令公布された」と言われたが、これは、「第26条 すべて国民は、……」を引用して言われた発言でであった。
ところが日本国憲法は、「すべて国民は、」の文と「何人も、」の部分が「区別」されている。
「義務制実施全員就学」の中には、日本国籍を有しない子どもたちは、法的に排除されていたことがていねいに述べられていない。
この重大な問題、すなわち、朝鮮国籍や韓国籍や他の国籍を持った子どもたちの教育は、日本では排除されていたのである。
が、しかし、その子どもたちも養護学校に入学出来た。それは、「すべての子どもに等しく教育を」という考えですすめられた運動の成果でもあったのである。
「すべて国民は、」ではなく「すべての子どもが(何人も、)教育が保障され」るようになった、と言ってほしかった。
私たち、京教組障害児教育部は、当時そのようなスタンスをとり続けた。
知事は憲法から考えてもっと先行きを考えていた、と書かせていただいた。
最近、もう一度、蜷川知事の話を読み直してみて、気がついたことがある。
障害児教育ではよく憲法の
「第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
を引用してすべての子どもに等しく教育を、と言い不就学をゼロにする運動がすすめられた。ところが、蜷川知事はその条項の前にある、
「 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
を踏まえて発言していたのではないかと思い至った。
1970年代初頭、障害児・者関係者の中で蜷川知事に要請しても具体的回答がなく、「抽象的な話が多い」という不満がしばしば出されていた。
しかし、最近、もう一度「抽象的な話が多い」という話を読み直してみたら、「個人として尊重される。」「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を繰り返し、具体的に述べていたことが解った。
「生命、自由及び幸福追求」から障害児教育も述べられていた。
もう一度、私たちは、「生命、自由及び幸福追求」という視点から障害児教育や教育、福祉、医療を見つめ直す緊急性がもとめられているように思う。
と書いたことについて、説明不足だったので書いておきます。
訪問教育制度は、教師が寝たきりの障害児の家に行って限られた時間授業をするという単なる教師の派遣ではなかったのである。
入学式を寝たきりの障害児の家で行う。それから教師が訪問する教育形態は、それまでの、「子どもが学校に行って学校教育がはじまる」という形態ではなく、「学校に行けない在宅の子どもの家に学校が行って教育がはじまる」と言う形態に学校教育のあり方が大きく広げられたのである。
だから、このことは日本の教育史上特筆すべき出来事だった、と書いた。
このことの重要な意義が理解されていたならば、義務教育段階で不登校なども含めて何らかの形で学校に行けない子どもたちに「学校が出向く」という教育形態がもっととられたはずである。
学校の授業を受けられない不登校傾向の子どもたちに対して、現在、民間施設なども含めて何らかの名目で授業に出席できない生徒の出席をカウントして、卒業させることが可能と文部科学省が見解を出している。そのため高校受験の調査書には欠席日数などがゼロもしくは実態とかけ離れた極めて少ない欠席が書かれるようになっている。
しかし、それ以前は以下のようなことなどがさまざまな方法で行われた。
ある中学校では、生徒の欠席が多いから卒業させないで留年させる(事実中学校を4年、5年在籍した生徒がいたが。)として、「卒業したかったらともかく学校に来い」と校長がいい、迷う生徒と親に学校は、零時前に中学校の門に入り、零時を過ぎたら学校の門を潜ってでる。それで、2日間の学校出席とカウントすると言い、それを実行させたのである。
真夜中、真っ暗の中学校の門を毎日出入りして欠席をなくしてもらった、と言う生徒と親の話を聞いて、なんと非情な学校だと思ったことがある。しかも、そんなことをさせながら、校長は、中学校の卒業式に来ないから卒業証書は渡せない、まで言って卒業証書を渡さなかったとのこと。
義務教育制度の仕組みを熟知しているものは、中学校長の判断で卒業させることが出来ることを知っている。しかし、「学校に行かないと卒業できない。」と思っている生徒や親には、「ともかく行かないと」と思い込ませていたのである。
その一方、不登校傾向の生徒には「登校刺激を与えていない」と中学校の学校案内には書かれていたのである。このような二面性は、多くの学校で形を変えて行われていた。
ところが、このような場合、学校が生徒の家に出向くという訪問教育制度(単に障害児だけに限定されてものではなく学校教育法には、訪問教育が出来る条文があった。)が行われていたなら、真夜中に校門を出入りすることもなかっただろうし、校長が強面に卒業証書を渡す、渡さないと言うことではなく、生徒の状況に応じて校長が生徒の家で卒業式をしてもよかったのである。
学校が出向いて、教育を保障する。
この形態を実質的に実行した点で、日本の教育史上特筆すべき出来事だったと書いた。
知事が最終決断と捉えられているが、この時の知事は府教委の提案はあまりに消極的で、もっと積極的情熱を持って教育保障の提案をすべきだと考えていたことは、府議会で質問した議員に向かって言うのではなく、教育長や府教委幹部に向かって幾度も答弁ー叱ったー有名な話しがある。
知事は憲法から考えてもっと先行きを考えていた。
このことは、蜷川知事が府庁を去る時に秘書課長から障害児教育に対する知事の想いをたくさん聞いた中の一つである。
限られた日の訪問教育。でも、学校に入れた、うちの子どもも生徒になれた。お父さんは、笑顔一杯。生活に苦労されて疲れきった気分が、雲一つない青空のようになったようだった。
それからは、寝たきりの子どもさんを家の前で日向ぼっこしたり、家族揃って出かけるようになった。
このようなことは、ほんの少し前なのに、訪問教育を受けた子どもたちやその家族の言うに言えない喜びが忘れ去られているのではないか。いや、決して忘れてはいけない。
学校が家にやって来て、寝たきりの子どもたちに「入学おめでとう」と言ったのである。
日本の教育史上特筆すべき出来事だった。
一回目の訪問教育。家族のこと。子どもたちのこと。寝たきりだった子どもが、生徒になったこと。それから、寝たきりだった子どもが、同じ棟でみるみるうちに発達したこと。
子どもが変わり、家族が変わり、同じ棟の人々が変わり、喜びに包まれた。
あの時を思い出して、涙が落ちる。