田村一二の敗戦前後の回想 田村一二『ちえおくれと歩く男』柏樹社、1984年10月 pp.75-76
ソ連が参戦してからは情勢が変わって、それまでは「余人をもってかえ難し」とかいうことで、連隊区司令部に召集を免除してもらっていたのが、もういかん、いつ応召してもよいように準備をしておけ、石山学園の方も後任を探しておけという県からの通達が来たときは弱りました。
(散髪、爪切りをし、「遺髪」「遺爪」「遺言」など)全部揃えて奉公袋におさめるまで何の感動も感慨もなく、全く機械的、事務的にやりました。
もう気持ちが一種の戦争心理というようなものになっとったんとちがいますかな。
分会で、あと一週間ぐらいやろうといわれたある日、ちょっとした野菜を持って、伊丹万作さんを見舞いに行きました。万作さんは京都市の自宅で静養していました。
烏丸車庫の前のラジオ屋の店頭にたかっているいるたくさんの人と一しょに、天皇陛下の放送を聞きました。
あたりを見回しましたが、誰も泣いている人はいませんでしたなあ。みんなぽかんとした顔で…。僕もそんな顔やったやろと思います」。内心は正直いうて、ほんまに、ほっとしました。これから先どうなるかはわからんけど、やれやれと思いました。
万作さんが臥たまま、
「アメリカが勝ちましたな、しかし、これから、アメリカは苦労しますなあ」
と言ったのが、はっきり耳に残っています。
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