昨日までの集中講義、土日の卒論修論検討、今日、積み残しの卒論の検討を終えた。まだ、検討ができていない学生さん達がいるのだが、持ち越しとなった。機械的に、年賀状を印刷して、投函するが、インクが無くなったりで、買いに行ったりする。夕食を食べるとさすがにこの間の疲れが出て、爆睡してしまった。もう、残すところ2日となっているにも関わらず…。
集中講義では、反省も多い。
・河野勝行さんの『肢体不自由教育の出発』は吟味不足だった。大阪府立養護学校として設立された後の堺養護学校が寄宿舎を設置しなかったこともつっこんでみたい今後の課題である。この段階で、兵庫の市立の肢体不自由養護学校がいくつか設立されていたのではないかと思う。それとの関係で、寄宿舎設置がなかったのかもしれない。堺養護学校に寄宿舎が設置されなかったことによって、大阪、奈良の養護学校にはその後も寄宿舎が設置されることなく今日に至っている。
・与謝の海の『坂の上のタンポポ』の本を行き帰りに読んだり、『わたしだって』の本に再度目を通したりしたが、これまでの自分の理解は浅かったなあと思わざるを得ない。『坂の上のタンポポ』は、開校20周年を記念して寄宿舎の先生方が出版したものだが、良くできた本だと思った。こなれない実践記録のあつめたものではなく、物語となっていることから、実践がよくかみくだかれていると感じた。『わたしだって』では、田中先生の子どもへのアプローチについての弱さの指摘は、胸に突き刺さった。ただ、「可逆操作」の概念を使うことにはいまだ抵抗があるのだが…。
・『夜明け前の子どもたち』のミツイ君について、未使用フィルムをつかっての検討は一つの試みだったが、学生さん達にとって、今から40年以上も前のフィルムをみて子どもの発達を検討することがどのような意味をもつのかととまどいもあったようである。田中先生の三井君に関する後の行ったコメントをききながら(「びわこ学園療育記録」)、回転可逆操作の階層のもつれを指摘しているところが、貴重に思った。だが、ミツイ君の発達は連結可逆操作の階層に入っていると思われるのだが…。そこを統一して説明することが課題だと思った。運動会の場面での、歩行は次元可逆操作の階層への移行の兆しを見せているととりたいのだが…。Oさんと対談という形式を取ったが、ボクの力量不足なのか、なかなか掛け合いが難しかった。
・学生さん達の意識もだいぶ違ってきているかなと思った。「がんばりよ健太」の見方も、「よくつくられたもの」と少しさめた見方をしている学生もいた。生きづらさのある家族も多いし、社会的にも新自由主義的な自己責任論の影響も強いのではないかとおもった。僕たちは、だいぶ単純かなと思ってしまう。
集中講義では、反省も多い。
・河野勝行さんの『肢体不自由教育の出発』は吟味不足だった。大阪府立養護学校として設立された後の堺養護学校が寄宿舎を設置しなかったこともつっこんでみたい今後の課題である。この段階で、兵庫の市立の肢体不自由養護学校がいくつか設立されていたのではないかと思う。それとの関係で、寄宿舎設置がなかったのかもしれない。堺養護学校に寄宿舎が設置されなかったことによって、大阪、奈良の養護学校にはその後も寄宿舎が設置されることなく今日に至っている。
・与謝の海の『坂の上のタンポポ』の本を行き帰りに読んだり、『わたしだって』の本に再度目を通したりしたが、これまでの自分の理解は浅かったなあと思わざるを得ない。『坂の上のタンポポ』は、開校20周年を記念して寄宿舎の先生方が出版したものだが、良くできた本だと思った。こなれない実践記録のあつめたものではなく、物語となっていることから、実践がよくかみくだかれていると感じた。『わたしだって』では、田中先生の子どもへのアプローチについての弱さの指摘は、胸に突き刺さった。ただ、「可逆操作」の概念を使うことにはいまだ抵抗があるのだが…。
・『夜明け前の子どもたち』のミツイ君について、未使用フィルムをつかっての検討は一つの試みだったが、学生さん達にとって、今から40年以上も前のフィルムをみて子どもの発達を検討することがどのような意味をもつのかととまどいもあったようである。田中先生の三井君に関する後の行ったコメントをききながら(「びわこ学園療育記録」)、回転可逆操作の階層のもつれを指摘しているところが、貴重に思った。だが、ミツイ君の発達は連結可逆操作の階層に入っていると思われるのだが…。そこを統一して説明することが課題だと思った。運動会の場面での、歩行は次元可逆操作の階層への移行の兆しを見せているととりたいのだが…。Oさんと対談という形式を取ったが、ボクの力量不足なのか、なかなか掛け合いが難しかった。
・学生さん達の意識もだいぶ違ってきているかなと思った。「がんばりよ健太」の見方も、「よくつくられたもの」と少しさめた見方をしている学生もいた。生きづらさのある家族も多いし、社会的にも新自由主義的な自己責任論の影響も強いのではないかとおもった。僕たちは、だいぶ単純かなと思ってしまう。
田中昌人先生は、1972年に出版された(それまでは、雑誌に連載されていた。)物理学者と哲学者による共同研究の自然科学の到達点を理論的に総括された「現代自然科学と唯物弁証法」著者 岩崎允胤・宮原将平に非常に共鳴されていた。
田中昌人先生は、独特の言い回しを「考案」されたが、多くの研究成果に非常に「貪欲」だったと言えば悪いかもしれないが、私にはそう見えた。
特に「現代自然科学と唯物弁証法」は、ある意味理系と文系の連携研究であり、自然科学分野における法則と哲学分野における法則を照合した点で、非常に評価されていた。このことが大事なんです、と聞いた覚えがあります。
田中昌人先生の独特の言葉は、心理学主義やその他のさまざまな教条主義的傾向を克服するためのものでした。そのため、このような言い方でいいんでしょうか、みなさんに分かってもらえるでしょうか。こういう言葉で言っていますけれど、別にそういわなくてもいいんです。
何回も聞きました。
だから、私は田中昌人先生の言葉をそのまま使ったりしませんでした。
可逆の具体的なことを説明したり、発達を成長と私は言ったりしてきました。
田中昌人先生の用語を養護学校の先生が親に対してA君は一次元可逆操作の段階で…と説明しているのを聞いて、何という言い方だ、自分は分かっているんかいな、もっとかみ砕いて説明できひんのか、と憤慨したことがしばしばありました。
だから、田中昌人先生の発達用語は具体的内容であって、言葉を使うかどうか出ないと思ってきました。そのことを田中昌人先生と話し合ったことがあります。先生は、肯定されていました。
だだ、最近特にいわゆる「発達障害」だけを強調する人の中には、発達の基本原理を理解していないように思えてならない。その点では、可逆、回転可逆操作の階層、二次元などの言葉の意味は重要だと痛感しています。
一昨年、特別ニーズ学会で京都のある高校の教師が、高校における「発達障害」について発表したものを指導主事などを交えた部長会議で再報告。
そして、「発達障害」についての指導に一番有効的な考えは、海軍山本五十六の語録であり、特に「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
を賛美していたので驚き、田中昌人先生の発達論、特に可逆を考え続けていました。
さすがに、その教師は、山本五十六の「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」を引用していませんでしたが。
大変な時代になってきたと痛感し、改めて田中昌人先生をはじめさまさまな人の「古いとされる著作」を再検討・再評価しています。
戦後は、交通手段の発達によって寄宿舎は急速に姿を消し、学校の寄宿舎は,僻地などに限定されて設置されてきました。
しかし、障害児教育分野では、盲・聾学校の生徒が遠隔地から来ることもあり寄宿舎が設置されてきたりしまたが、それも普通学校の寄宿舎と設備や予算面で何ら変わらない行財政制度でした。そのため、盲・聾学校の寄宿舎の設備では緊急避難時の対応策が障害に応じてとられないなどの問題があり、その改善費用は、すべて設置者である都道府県及び政令指定都市及び市町村(富裕)の単費(その行政だけの費用でまかなう。)とされてきました。
長く、障害児学校の建設費は、国が二分の一、設置者が二分の一と制度的にはされてきましたが、国は、建設費を限定していたため実質的に建設費のほとんどは設置者の「持ち出し」(その行政だけの費用でまかなう。)とされてきました。
教職員などの人件費は、都道府県立の場合は、国庫補助と都道府県との複雑な財政配分になっていました。ただ、京都の場合を例にとると府立はもちろん義務教育段階までは、国庫補助と都道府県との複雑な財政配分によって決まり、京都市(政令指定都市)の義務教育教職員も含まれていました。ところが、京都市の義務教育以外の高校や養護学校は、国庫補助と京都市との関係で財政配分するという仕組みです。
この予算上で、養護学校の寄宿舎は国の設置基準を遙かに上回る単費持ち出しが必要であったため、行政も議会もその設置をしないという問題があったのです。
さらに、養護学校での寄宿舎教職員の労働基準監権は人事委委員会の監督権下か、労働基準監督権下か、戦後いろいろあって、各度道府県と各都道府県労働基準監督局(現在労働局)と協議し、その分担がされました。そして、寄宿舎は医療職場とされて、労働基準監督署の監督下に置かれています。ただし、労働災害は、労災補償ではなく公務災害補償です。
この問題をめぐって、10年ほど前に京都府人事委員会と京都労働局とやりとりしましたが、労働基準監督権の行使を「建物」で区分しているということでした。従って、京都府人事委員会は府立学校に対して労働基準監督の立場から立ち入り調査をし、府立学校の安全衛生や労働基準についての改善指導をしてきていますが、寄宿舎はすべて対象外とされています。
ようするに、寄宿舎で働く人々は労働基準監督署に申告するか、臨検を求めるしかなかったのですが、永くこの問題は取り上げられてきませんでした。
これは一例ですが、障害児学校の寄宿舎の置かれている制度上の問題の一部を紹介させていただきます。
tama先生は、田中昌人先生が提起した「京都府森永ミルク中毒追跡調査委員会の臨床心理検診の責任者として、法廷での証言である。この証言は、検診当時、15~16歳の被災者に対して13歳前後の重要な発達の質的転換期をどのように乗り越えていっているのかを中心に心理学の立場からその被災の実態や因果関係を明らかにすることを課題としたものだった。9~10歳の発達の質的転換期、そして14歳頃の転換期について、今日に至るまでどのような研究の成果と到達点、そして課題があるのか」を書いておられた。
可逆操作、質的転換期などなど、田中先生独特の表現がある。(これは田中先生が引用文献を示さずに独自の分析と考えで表現されていることもあるが。)
かって、大学の院生やドクターコースの生徒が関わったが、そこで学んだ研究者は、さかんに「9~10歳の発達の質的転換期と15~16歳質的転換期」を論述していたが、今はそのことについて触れず実質的にその論述を否定する人が少なくない。
自分の研究過程で、かって主張、論述していたことに触れながら、自分の研究から来る新たな論述を展開されるべきではないか、いや研究者の基本的モラルであるとさえ思うのだが、そうではない傾向があまりにも多い。
例えば、教師の一部でさかんに使われる「子どもの心によりそって」という表現も、日本語としておかしいだけでなく、教育として生徒を育てる、発達する方向を示している意味ではない。
「子どもの心によりそって」とは、
子どもの話を、聞いたり話をするだけではなく、目をくばる、気にしているよというサインを送り続ける。そして、そうよ、そうよ、あなたの言うとおりよ、私はあなたの味方よ、あなたの立場と同じよ。
ということだと「子どもの心によりそって」の表現をしばしば使う教師たちは言う。
ここには、次元可逆とか、可逆という概念は全くなく、子どもたちが発達せずに留まるように援助することが大切なのだという考えがある。言葉はなにか、優しさや思いやりを言っているかのようで「非情」な思いやりとしか言えない考えが出されているが、これを裏付け、確信させているのがかって京都府森永ミルク中毒追跡調査に関わった「大学の院生やドクターコースの生徒」だったから深刻であると思う。
『夜明け前の子どもたち』の映像の中で、子どもたちが石を持って坂道を登シーンの時に、田中昌人先生が、
「子どもたちが平地から坂道(抵抗が加わる)にさしかかって登るようになると、その足どりは一歩一歩確かめながら進み。
斜めの姿勢になりながらも背筋がピーンと伸びるようになるとともに、手に持った石をしっかり持つようになる。
それまで(平地では)は、歩いては、落とし、歩いては落とししていたのに、石を両手で、ぎゅっと握りしめ、、しっかりと握りしめ。今度は、落とすことなく、前に、前にとゆっくりたしかな歩みを続けている。
斜めの姿勢になったとき、平地と比べてからだの自由が奪われるのではなく、しっかりと自分の内面の力を出して外界をとりいれて自分のものにして行くたしかな姿が見られる感動的なシーンです。
何度見ていてもここに人間発達の基本を子どもたちが教えてくれている。」
と発達の基本、可逆を言っておられた。
すなわち、子どもたちの前にある「抵抗物」をすべて取り除いていたのでは、子どもは発達しない。
子どもに「たしかな抵抗」(むやみやたらという意味ではない)が加わることで、子どもたちの内面からそれを「とり入れつつ」も「それをのりこえようとする内面の力」が立ち現れる。それをしっかり援助して、ゆっくりであってもたしかなものにして、坂道を登り切るようにするような発達の援助をする。学校教育(学校教育だけではないが)はそういう意味でも重要な意味を持つ。と私は理解した。
子どもたちが、重大な過ちをしているのに「間違いを間違いとして」「間違いから学んで」「同じ間違いをしないように」ということでもあると理解した。 「それは間違っている。」と教師が生徒に間違いをきっぱり指摘する、言うことも子どもの発達を援助するためには重要なのであるが、それは生徒を追い詰めるだけだ、と言う論調は、時と場合や場面転換や連関すらも分かっていないのである。
生徒が生命に関わる重大な行動をしているのに、「そうよ、そうよ、あなたの言うとおりよ、私はあなたの味方よ、あなたの立場と同じよ。」と言い切っている教師が意外に多いが、これは見過ごすことの出来ない非教育的行為であるとも思う。このように書けば、そんなことはあまりないでしょ、と言われるかもしれないが、現実は「そんなことはあまりない」どころではない。