大野松雄さんの聞き取りをしているので、音楽や音について考えることが多くなった。
ふと、本屋で見つけたのが、阿久悠『無名時代』(集英社文庫、2018年、元の本は1992年に刊行されている)。以前、重松清の『星をつくった男 阿久悠とその時代』(講談社文庫)を読んでいたことが伏線にもなっていたのだが・・。とにかく、阿久悠が阿久悠になる前の自伝的小説。戦後の五〇年代末から六〇年代はじめのころ、広告会社に就職してからの出来事が記されている。「あとがき」には次のようなものがある。
外圧が存在する場として、ぼくには、広告代理店に就職したことが実に幸いだった。/ここでは、毎日、何かを求められた。求められて、「出来ません」「知りません」が禁句であるから応えようとつとめ、時には無茶もあったが、思いがけない才能を発見することもあった。とうてい自分自身では見つけられない死角の才能―たとえば、詩をかくなどということもそうである―を引きずり出してくれたのも、外圧である。/・・・さらに、それに加えて、六〇年代という時代環境も、毎日毎日に外圧を潜ませて叩いてくれた。/不況の中で蜃気楼のような夢の生活が語られ始めた不思議な時代、テレビというメディアの普及によって、価値観の地殻変動が始まった頃で、形は違うが不確かさにおいて現在に似ている(pp.322-323)
阿久悠の作詞した曲をなぞって、その力を描いた水野良樹の「解説」も印象に残った。
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