ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

肢体不自由教育論

2010年12月26日 08時42分49秒 | その他
京都の大学で、肢体不自由教育課程論の集中講義(講義計画は以下の通り)。土日は、卒論修論の検討で大学に行く。

24日-ガイダンス・肢体不自由児の発達と療育・教育の展開
 ・肢体不自由教育の基礎概念
 ・河野勝行『肢体不自由教育の出発-大阪府立堺養護学校の草創と開拓者たち』
 ・京都府教育委員会広報映画「人」1968年頃
 ・障害の重い子ども達の学校
  「障害児のとりで-京都府立与謝の海養護学校」(1971年)
  「ぼくらの学校」(1981年)
 ・明日の福祉「きみの歌をうたおう」(奈良県立明日香養護学校・西村圭也)
27日-肢体不自由児の学習と生活
 ・肢体不自由学級と進路、家族の絆と生活、思春期と自立・寄宿舎の生活
  「がんばりよ健太」より
 ・家族の絆-重症心身障害児「海くんが笑った」
 ・肢体不自由のある子ども達の絵本紹介
 ・バリアフリーや生活補助具の紹介
 ※ゲスト講師・Sさんご夫妻(元教師、兵庫県立まちづくり研究所)
 
28日-重症心身障害児の療育と発達-「夜明け前の子ども達」から
 ・「夜明け前の子どもたち」(1968年)
 ・びわこ学園療育記録にみる「ミツイ君」の発達
 ・「夜明け前の子どもたち」未使用フィルムの検討
   -「ミツイ君」の歩行場面の検討
 ※ゲスト・Oさん(「夜明け前の子どもたち」音響担当)

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2 コメント

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近い見とおし (河野勝行さんの発言)
2010-12-26 11:42:15
1970年代前半 大津で日教組全国教研があった。
この時には、養護学校不要論を唱える障害者(当時から障害者は個性だ、社会がつくり出したんだとして、いわゆる「障害者」と必ず「」をつけていた。)と支援者と称する人々がやってきて、障害児教育分科会はやじと怒号と暴力の開幕となった時だった。
レポーターの発言は制止され、マイクを持った「障害者」は延々と教師を非難し、無理やり機能訓練をやらされた。それは、「障害者」差別だ、それをした教師がそこにいる。
差別を認め、自己批判をせよ、と司会者、共同研究者に詰め寄った。
司会者も共同研究者も動揺して、発言した「障害者」の担任に発言を求めた。
私たちは、教育研究集会を糾弾集会のようにするのは認められない、と言い会場は騒然となった。
「障害者」の意見も聞かない研究集会は差別だ、の激しいやじと怒号の中で司会者は元担任の発言を求めた。
私は、障害者の意見って特定の障害者がマイクを握り、支援者がそれを取り巻きもう一時間以上しゃべっている。
彼の意見が障害者の意見を代表しているわけでもないし、分科会のルールを守らないと全国から来た人々が発表出来なくなる、と司会者に詰め寄ったが、障害者の意見を聞かないとと固持。
結局、元担任は前で養護学校での機能訓練の取り組みを話した。が、それが差別だ、また「障害者」がマイクを握り、延々話した。
その時、河野勝行さんが発言して、
健常者を見ていると、ああ私はあのようになれない、と思っていたけれど、養護学校で機能訓練していた時は違った。
みんなと機能訓練していて、あのようにやれれば僕も、っと近い見とおしと遠い見とおしが持てて機能訓練に打ち込めた。少しずつだけど、機能が回復したけれど、目標が養護学校で持てるようになった。
と機能訓練の見通し路線を発言して、会場の参加者に感銘を与えた。
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肢体不自由教育課程論って授業がまだあるのですね。 (元教師)
2010-12-26 20:08:54
 発達障害一色に染められた状況の中で、肢体不自由教育課程論という授業がおこなわれているのですね。
 障害種別による教育は、必要であると思っていましたが、肢体不自由教育課程論という授業がされている。
 なにか、障害児教育は健在かっと感傷にひたってします。
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