WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

沖縄の旅(9) 伊江島 ぬちどぅ宝の家

2022年04月27日 | 沖縄

観光コースではない沖縄、伊江島「ぬちどぅ宝の家」。
太平洋戦争末期、もはや日本の敗戦は確定的であったにもかかわらず、軍国政府と天皇家はおのれの体制を少しでも存続させたいがために、国民を時間稼ぎと弾除けの犠牲にしてまでもムダで無謀な抵抗を続けていた。
そして無くて済んだはずの沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下という悲惨な結果を招いてしまったのだった。まるで今のウクライナゼレンスキー政権とアメリカNATOのように。

沖縄では、米軍上陸による戦線の後退に次ぐ後退で日本軍とともに追いやられた住民たちが、ひめゆり部隊に象徴されるように、自決あるいは味方のはずの日本軍からも殺されるという凄惨な最期を迎えていた。本島南部の悲劇に比べあまり語られることは少ないのだが、米軍が上陸した離島でも同様の悲劇は起きていた。

伊江島でも米軍に追われ、いわゆるガマで負傷死、餓死、自決、日本兵による殺害が生存者の証言や記録に残されている。上陸した米軍は、本土爆撃の基地とするため、島民を他の島や本島へ強制移住させた。ポツダム宣言受諾から2年後、ようやく島へ戻った島民が見たものは広大な米軍飛行場であった。

それでも残された土地を開墾し、急造の住宅を建て復興に取り組んでいた島民を再度襲ったのは、さらなる基地拡大のための非情な土地強奪であった。島にもどった島民と土地強奪との長い闘いの始まりであった。しかし米軍は銃剣で脅しブルドーザーで有無を言わせず土地を奪っていった。1972年の本土復帰当時、島の実に2/3が基地とされてしまっていた。それからさらに半世紀、本土復帰50年が祝われようとしている2022年にいたっても、奪われた土地の1/3は未だに返還されず米軍の訓練場となっているのだ。

そんな土地強奪とのたたかいの先頭に立ってきた農民写真家、阿波根(あはごん)昌鴻氏がたたかいの拠点とし、2002年没後は闘いの記録を保存・公開する資料館ともなっている。

日本は戦後復興を遂げるにあたって沖縄に、とりわけ米軍基地建設のために土地を強奪された人たちに戦後も、復帰後でさえも、屈辱的な植民地扱いにもアメリカ言いなりで土地を返すこともできないばかりか、米軍による事故、犯罪と多大な犠牲と負担を強いてきたことに見て見ぬふりをしてはならない。まして辺野古へのさらなる基地増設など論外。「防衛力強化」「復帰50年」を言う前に、犠牲を強いてきた沖縄を、戦後77年も経つのにアメリカの占領下から未だに解放さえできていない。恥の上塗りもいい加減にしろと言いたい。そんな連中にロシアを非難する資格などない。




阿波根昌鴻氏の木彫像。




「やすらぎの家」の奥に土地強奪とのたたかいの資料館。






島の1/3を占拠する米軍訓練場のそばには「伊江島土地を守る会」の「団結道場」がある。