奈良県大和郡山市、DMG MORI やまと郡山城ホールで開催中(9月1日まで)の「日本少女歌劇座展」。
古本市で見つけられた1枚の案内絵葉書がきっかけで発掘されたナゾの「少女歌劇団」。今でいう「AKB48」みたいなもんかな?
こういう庶民の埋もれた文化史には大変興味をそそられます。
会場の「DMG MORI やまと郡山城ホール」。予想を裏切る立派な会館だった。コンサートホールや図書館も併設。
向かいには郡山城跡。
「日本少女歌劇団」発掘を伝える「宮崎日日新聞」の記事。
歌劇団の見つかっている最古の講演記録は1923年(大正12年)、大津市大黒座。その後、近鉄石切駅付近にあった「日下温泉」を拠点としたが温泉の経営不振で奈良県大和郡山へ拠点を移す。
1936年(昭和11年)、宮崎県に自前の劇場「孔雀劇場」(次の画像、下中央の写真)を確保し拠点を移す。
「♪うちら陽気なかしまし娘~」?。
発掘者の鵜飼正樹京都文教大学教授インタヴュー。
初期のトップスターは山路妙子(活動年代1923-1935ころ)
当時すでに宝塚歌劇、松竹歌劇もあった。「日本少女歌劇座」は先発が活躍する大都市圏を避けて地方でおもに公演していたという。ま、平たく言えば「どさ回り」。
山路妙子さん。失礼ながら、宝塚と比べるとやはりお顔も芸名?もイマイチあか抜けない。
こんな絵ハガキで集客していた。中世ヨーロッパの宗教画みたい。
ラインダンス絵葉書。なんか微笑ましい。
日本だけでなく、当時日本が進出(侵略?)していたアジア方面にも遠出していた。
このころはまだ、「レビュー」だの「PROGRAM」だの後の敵性語も使い、演目も明るい。
歌舞伎みたいな演目もやっていた。
専用貸し切り列車で全国行脚。なかなかの人気ぶりだったらしい。
北は北海道から南は九州まで全国行脚し公演。赤点が興行地。
太平洋戦争が厳しくなってきたころ。
桃太郎が子分どもを連れて米英をやっつけるというお話。犬、サル、キジは被り物。もはや「少女歌劇」ではないような…。
「レヴュー」という敵性語が「大舞踊劇」に置き換えられている。
「聖戦二年 大舞踊劇銃後の国民○○」「聞けよ米英!!亜細亜十億の雄叫び○○」の文字が躍る。
「負け犬の遠吠え」ってか。
北朝鮮駐留部隊を慰問。
敗戦。孔雀劇場は爆撃で焼失。
そして戦後の台本。その豹変ぶりにご注目!
台本、「歌劇」の歌の一部。
「 ♪俺達は朗らかな復員者。何が何だかわからずにオエライ方の命令で戦争に行ったけど...。
.......
死んでいった戦友にゃ済まないことじゃがこの通りピンピン達者で生きて来た。
戦争なんかつまらない。勝っても負けてもつまらない。ほんとにほんとにつまらない。」
1950年(昭和25年)、OSKトップスター秋月恵美子(前列中央サインの女性)と。やっぱりOSKはオーラが違う。芸名もあか抜けてるわ。
OSKと言えば、今は無き「あやめ池遊園地」でも公演していたそうな。
創立者にして団長の島幹雄。AKB、SKE、NGTその他の秋元康みたいなお方、らしいが結構謎多き人物。政財界、興行界に顔が利いて、地方のヤクザが絡んできても追い返すほどのお方だったらしい。
機関紙。発見されている最新のものは1952年版。これ以降は見つかった記録も少なく、1957年を最後に公演記録も途絶えているらしい。
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