「巡礼お鶴の あの菅笠に いとし涙の 雨が降る」
巡礼お鶴は、阿波十郎兵衛(本名:板東十郎兵衛)の娘だ。
十郎兵衛は、徳島市川内町(板野郡宮島浦の庄屋。徳島藩の「他国米積入川口改裁判役」、つまり、今で言う税関の役目を命じられていた。
当時の徳島の農民は、藩の奨励により藍染め用の藍を作付けしていた。このため、米が不足。これを補うため、他国より米を輸入していたのだ。
米を運ぶ船頭には、運賃のほかに、「洩(も)れ米」として一俵につき三升二合の取り分を認めることが、暗黙のルールだった。だが、きまじめな十郎兵衛はこれを認めず、津田浦の船頭・彦助との間でいさかいとなる。
幕府は原則として他国米の輸入を認めていなかった。徳島藩は、十郎兵衛と船頭・彦助のトラブルを解決するため、「不届き」という名目で、二人を処刑してしまう。
元禄11年11月21日。十郎兵衛は息子とともに処刑。享年53歳。後に十郎兵衛の妻のお弓は病死。娘お鶴は消息不明となる。
人々は十郎兵衛に同情した。十郎兵衛が処刑されて70年の後、近松半二らによって「傾城阿波鳴門」の人形浄瑠璃が作られる。
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