tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

めがね

2008-06-14 23:50:40 | cinema

荻上直子監督の前作「かもめ食堂」は、愛情がたっぷりこめられた「おにぎり」がアイテムだった。
これが、「うどん」だったり、「やきそば」だったり、あるいは、ファーストフードとしての「ちまき」や「だんご」だったら、これほど評価を集めなかったのかもしれない。

「かもめ食堂」の次作「めがね」を観て、改めて「かもめ食堂」の原作者「群ようこ」の非凡さを知った。
結局、タエコ(小林聡美)は、たそがれることができたのだろうか。「はまだ」にリピートするってことは、そうなのだろうが・・・・・・。

映画の前半で、なかなか「たそがれること」ができないタエコと、生活リズムの合わない島の居住者たちとの感覚のギャップでイライラさせられる。
「たそがれること」これが人生の目的とでも言いたげで、「たそがれること」ができない人はばっさりと切り捨てられる。だからお前は駄目なんだよと。
でも、「たそがれる」ってことは、元気だった心が悲しみの底に落ちてくこと。
決して、楽しかった思い出を回想することではない。大切なものをひとつずつ諦めていくこと。
夕暮れ時に、子供たちが楽しんでいた仲間との遊びとお別れしていくように。
人生のたそがれ。それは決してよい意味でなんかないのだ。
この映画の人たちは、一時的に社会を回避しているだけで、人生を諦めつつあるわけじゃない。

「かもめ食堂」では、紆余曲折あった人生を脱出し、並々ならぬ意気込みと愛情をフィンランドの和食の店に注ぎ、儲け主義ではないこだわりを持ち、日々を過ごしていくことがサチエの願いだった。そんなサチエのがんばりや、人柄、店の雰囲気惹かれ、人生に嫌気がさした人々も、そこに行けばいつの間にか癒されて自分の場所へ帰っていくことができた。だが、残念ながら「はまだの主人」には、そうした人間としての魅力が乏しい。
せめて、客が来ないことを良しとするのではなく、それにもめげずにがんばっていて、協力者がちまちま現れる構図がほしい。観ている方も応援してしまうような。
南の島での「梅干」も「カキ氷」も癒しのアイテムとしてはパワーが弱い。ましてや、イセエビ。
どうしても、前作と比べられてしまうこの作品は、たそがれる運命なのかもしれない。

映画に対する批判的なことを生まれてはじめて書いた。でも、これは、荻上直子の次作を見たいからだ。
たそがれ教の教祖になるんじゃなく、「かもめ食堂」で「地道にやってりゃ、なんとかなる」とサチエに言わせたように、独りよがりを止めてほしい。
ぼくらは、サチエの言葉に共感し、「いつかはきっと」と夢を共有したのだから。


あとがきー追記

2008-06-13 22:47:09 | 日記

バリのホテルの客室には、ティーセットとしてインスタントのコーヒーとリプトンのティーパックが用意されていた。インスタント・コーヒーの方は、ネスカフェのアルミ・ラミネートのパックでインドネシア豆100%と書かれている。中身は、スプレードライした粉末状のもの。味は日本のエクセラとほとんど同じで、やや深煎りでしっかりした風味でなじみやすい。スーパーマーケットでも、インスタントネスカフェが手に入るが、コピ・バリより値段が高かかったりする。もちろん、スプレードライの加工費がかかるからだ。
一方、プナにお土産としてもらったコピ・バリ。チャップ・クプクプ・ボーラ・ドゥニア(蝶(クプクプ)と地球地図印)社のもので、このメーカーがバリのマーケットを独占しているようだ。200gの銀色をしたアルミパッケージ。
バリの街中や、ホテルの朝食、プナの家で飲んだのもこのメーカーのものなのだろう。強い苦味とコクが特徴で、ブラックで飲むと一段と味が引き立つ。

この土産にもらった銀色の袋のチャップ・クプクプ・ボーラ・ドゥニア。袋を空けると、極細挽き(エキストラ・ファイン・グラインド)とされる「エスプレッソ用」の挽き方よりも更に細かい粉が入っていた。だが、残念ながら、超極細挽きになっているからか、コーヒーの香りはすでに飛んでしまっていて、ほとんどしない。
コピ・バリの正しい飲み方は、まずコピを好みに応じてカップに入れる(1人分ティースプーン1杯程度が目安らしい)。次に、沸騰した湯をカップにそそぐ。そして、静かに混ぜる。その後は、まったりと粉が沈殿するのを待ち、上澄みを口にする。これがバリ式。
さて、日本に帰って来て、さっそく、バリ式の入れ方で飲んでみたが、どうも味気ない。なぜ、現地にいるとコピ・バリがおいしく感じられるのか、全く持ってわからない。いつか観た「かもめ食堂」に出てきた、コーヒーを美味しくするおまじないがあるのだろうか。バリのホワイトマジックは本当にあるぞみたいな。そんな気にさせられている。



あとがき

2008-06-12 20:39:43 | 日記

バリから帰ってきて、その2週間後に再入院して、脛骨と腓骨を固定していた足首のボルトの除去手術を受けた。ボルトはレントゲン写真ではかなり太く見え、医者が言っていた「体重をかけて歩けば折れる」は、「折れることもある」だろうぐらいに思っていた。ところが、足首から抜いたボルトを記念にもらったのだが、見たらぞっとした。チタン60E種合金のボルトは、直径が3mmφぐらい。全長45mmに渡ってねじ加工がしてあって、表面は黒っぽい皮膜が形成されている。手に持つと、その軽さと、チタン特有の低熱伝導性から、まるでプラスチックのような感触がするが、精密な機械加工の後を見れば金属製であることが実感できる。
おそらく、表面は生体親和性を上げるため、陽極酸化の黒っぽい皮膜が形成されているのだろう。ねじ加工とあわせて、そのどちらもが表面欠陥としての亀裂の開始点となりうるため、こうしたチタン製のボルトが衝撃で折れるのは無理もない。骨癒合が起こっていない状態で荷重がかかれば、少ない荷重でもその反復によって疲労破壊が起こりえる。さらに、生体内の特殊環境を考えれば、腐食疲労破壊も発生する可能性がある。つまり、骨が固まっていない早い時期に体重をかければボルトは折れて当たり前なのだ。
さすがにバリでは、足首にまともに体重をかけるようなことはしなかったが、それでも、何かの拍子に少しだけ体重がかかることがあった。特に、雨の日のホテルの吹き抜けの廊下は濡れていて滑りやすく、松葉杖が滑って足で踏みとどまったりした。
こんなことを考えると、いくら海外旅行保険があるとは言え、やはり、松葉杖をついての海外旅行はリスクが大きいと言わざるを得ない。

骨折手術後のリハビリのため、海外のプールで筋力トレーニングをという人の参考になればと思い、松葉杖で旅したバリについて書いてみようと思ったのだが、考えてみたら松葉杖で海外へ行こうとする人なんているはずはない。というのも、怪我した時こそ、大手を振って家族に甘えられる時だ。怪我の不幸を家族で乗り越えることで、家族のきずなは強くなっていく。また、怪我で会社を休んでいる間に海外で羽を伸ばしていたともなれば、仕事を代行してくれている人たちにとって気分の良いものではない。だから、普通の人なら、松葉杖をついてまで海外へは行かない。どうやらぼくは、また誰も読んでくれない文を書き上げてしまったようだ。

最後に。バリ島に滞在中、バリニーズたちに「松葉杖でよく来たね」と言われた。
「バリ人だったら、骨折したらおとなしく家で寝ているよ」
と彼らは言う。彼らの言葉にぼくは気がついた。片足が不自由なのにもかかわらず、海外くんだりまで愚かにも足を伸ばすのは、何かトラブルがあっても最悪、お金で解決できると傲慢にもぼくは考えていること。ハンディキャッパーとして、誰かに助けてもらえると世の中を甘く見ていること。人として当たり前の生き方をするバリの人々に、ぼくは自分の傲慢さを教えられた思いがした。
それでも、バリの人々は嫌な顔一つせずに、ぼくと付き合ってくれた。だからこそ、彼らに対する感謝の気持ちで一杯だ。また、いつの日か、恩返しの旅に出てみたい。今度は、もっと積極的に地球を救えるようなイベントのプランを持って。


そしてさよなら(スラマ ティンガル)

2008-06-11 21:07:28 | 日記

車は、ホテルに泊まっていた数人の日本人旅行客を乗せ、デンパサール国際空港に到着。
ずらーと並んだエコノミークラスのカウンターの中、比較的すいている奥の方の列で順番待している時だった。ぼくの前に並んでいた女性2人連れがチェックインしているのだが、なかなかチケットを発券してもらえない。彼女たちの預けるスーツケースが、重量制限の20kgを超過しているのが原因だった。カウンターのおねえさんは、「超過した分を機内持ち込み手荷物にまわしてください」と簡単な英語でお願いしているのだが、それに対して、2人は「超過料金を払うから、このままで」と言ってきかない。カウンターの向こうとこっちで、英語と日本語が行き来していた。
後ろで、松葉杖をついて辛抱強く待っていたのだが、見かねて素直にパッキングし直したらと声をかけたら、2人はその場でスーツケースを開けて重量調整を始めそうになった。
おねえさんが、彼女たちを放っておいて、ぼくを手招きしてくれたから、ようやく、カウンターへ。チケットを発券してもらって、預ける荷物はないことを申告。つまり、背負っていたバックパックを、持ち込み手荷物に申請。カウンターのおねえさんは、
「念のため、手荷物の重さを量らせて」と言ってきた。
恐る恐る軽量台に乗せるも、上限7kgのところを、残念ながら3kgオーバー。おねえさんから、ため息が漏れる。重そうなものと言えば、来る時、日本で着ていた防寒ジャケット、それから、プナに貰ったコピ1袋と、お土産のチョコレート、石鹸、文庫本。これらを全部、身にまとえば、3kgの減量はできるかもしれない・・・・・・。なんて、考えていたら、カウンターの向こうでおねえさんと、その上司が相談をしていて、重量オーバーのままで機内持ち込みOKに。
ルール無用の悪党ばかりでごめんな。でも、君達の努力のおかげで、ぼくらは安心して飛行機に乗り込むことができる。テリマカシ。

出国審査でも運悪く、並んだ列のぼくの目の前の国籍不明の男が出国審査官とやり合っていて、長い時間、手前の白線で待たされた。本当に国籍不明が原因だったのかわからないが、さんざんやりあった上、どうにかその男は放免され無事に出国。その間、ぼくは松葉杖をついたまま、白線の手前側で順番をひたすら待ち続けていた。ひょっとして、出国審査が厳しいのだろうかと恐るおそる書類を提出したのだが、ぼくの時はほとんど書類を見もせずに出国OKに。
ボーディングゲートまでの長い道のりを松葉杖で行く途中、あまったルピアを使うため、ゲート直線のショップの片隅でサンドイッチとビールを注文。イスに腰掛けまったりしていたら、ゲート前にあっという間に長蛇の列ができた。どうもアジア系(またはイスラム系)乗客が、機内持ち込み荷物と全身ボディチェックをされているために列が進まないらしい。

ビールを急いで飲み干し、列に並ぶため、列に沿って引き返し列の最後部へ。そして、無事にボーディング。今回は、アッパーデッキ(2階席)だ。CAに松葉杖とバックパックを預かってもらい、機内の通路をはでにケンケンで飛び跳ねて着座。他の乗客たちが何事かと、ぼくを見ていた。
空港に着いたのが遅かったせいで、ハンディキャッパーとしての座席の優遇はなし。席は通路側なのだが、真ん中辺りの席のため、前方、後方ともトイレも同じ距離だ。
それでも、CAは最大限の努力をしてくれた。2階席じゃあ不便だろうからと、空いていた1階席の一番後ろの席を勧めてくれたのだ。しかし、またケンケンで1階まで降りて席を変わるのが面倒くさかったので、そのままの席に。そうしたら、ジャワ島ジャカルタでの1時間のトランジットの際に、席をアレンジしてくれて、2階席の中央列最前席の通路側に席を変えてくれた。そこなら、トイレが目の前で、しかも、前の席なので痛めている足を伸ばしたままにすることができた。CAに感謝。
トランジット中、座席でおとなしく待っていると、女性から声をかけられた。見ると、バリに来る時の飛行機でお世話になったCAだった。
「また会ったわね」
こぼれるような笑顔で話しかけてくれる。覚えていてくれたんだ。すごく嬉しかった。彼女の笑顔に心がきゅんとなっていた。

夜間飛行のGA880便は、沖縄の西側あたりで夜明けを迎えた。地図で確かめると、早朝の豊海海岸サンライズ九十九里浜に沿って飛行し、片貝~本須加付近で左旋回し、晴天の成田空港に着陸。こうしてぼくの松葉杖の旅が終わった。  了


微笑みのスラマ ジャラン

2008-06-10 21:23:03 | 日記

雨の降る夜のサヌールの道を、松葉杖を小脇にかかえて、プナのバイクでタンデムになって送ってもらってホテルへ帰還。ロビーの脇のラウンジには、客は誰もいず、生ギターの演奏が響いていた。最後の夜ぐらいと思って、ラウンジのカウンターに座る。バーテンダーは、クシャナとゲデ。ともに30代後半。ライム小片を搾ったアラックをもらい、それが終わるとビンタンビールへ。カウンターの奥の棚には世界中の酒のボトルが飾ってあった。ワインやヴェルモット、そしてスピリッツ。日本の焼酎のボトルもある。みんな、はるばる海を越えてやってきたのだろう。
テーブル席に中年のコーリアンの男2人がやってきて声高に話をしていたのだが、そのうちに卒業旅行の日本人の若者グループが押し寄せてくると、彼らはどこかに退散してしまった。
ぼくは、初めてのバリの夜に、ロビーを通りかかった時に聞こえてきた「ティアーズ・イン・ヘブン」をリクエストした。最後のバリの夜、エリック・クラプトンのこの曲は、ぼくの心にしみいった。神々の島バリ。ぼくはここに留まることはできない。クシャナとゲデが、逢ったばかりの別れを惜しんでくれる。スラマ・ジャラン。そう、ぼくは明日、バリを離れる。
♪私の名前がわかるだろうか もし天国で君に会えたら。 これまでと同じだろうか もし天国で君に会えたら♪

そして、翌朝。バリ島最終日。朝から日が射して、プールでは水音が響いていた。ホテルはレイトチェックアウトが可能で、夕方6時まで部屋を使うことができる。旅行会社のピックアップは、夕方7時の約束だった。
ホテルの部屋の机の上のたくさんのサラック。例によって朝食をたくさん食べて、もうお腹には入らない。どう処理しようか迷って、おとといの晩にジャズバーで出会ったコーリアンの女の娘スクにプレゼントすることに。ホテルのフロントに持って行くと、なんとか、彼女に渡して貰えそうだった。
 
バリで過ごす最後の日、ぼくはホテルでのんびり過ごし、前にマッサージをして貰った女性を訪ねて再びマッサージをしてもらった以外は、ほとんど何もしなかった。飛行機がバリを離れるのは深夜だったから、海辺でのんびりと過ごすこともできたはずだ。でも、このホテルの庭をのんびり眺めながら、いろいろなことをゆっくり考えて見たかったのだ。バリは、実に馴染みやすく懐かしく、ゆったりと落ち着ける場所だった。穏やかに、ゆっくりと、けれども心の奥深くまでじわじわとしみこんで、しかも、自分の何かが少しずつ変わっていくような、そんな感じがあった。
そして、大事なことが一つ、ぼくにはある。日本に帰って、足を骨折して世話になった多くの人に、有形無形の恩返しをすること。

チェックアウトを済ませてから車が来るまでロビーで待っていた時、行きかう人々の笑顔など、なにげない光景に名残惜しさを感じ、愛おしく思えた。こうした名残惜しさが、次の旅に繋がっていくのかもしれない。