tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

円覚寺 時計仕掛けの犬は、アンドロイドの夢を見るのだろうか(1) 

2009-12-08 22:27:42 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】(神奈川県鎌倉市山ノ内409(円覚寺)(2009.9月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
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「秋の日のヰ゛オロンのためいきのひたぶるに身にしみてうら悲し」秋の歌(落葉) ポール・ヴェルレーヌ
“ヰ゛オロン”はフランス語のバイオリンのことなのだが、1800年代のパリでも、そして現代の鎌倉でも、バイオリンの音は寂寞とした思いをつのらせる。
特に、寺井尚子の“アダージョ”は、何にもましてしっとりとして切なくぼくの胸を衝く。

さて、円覚寺。木立も門構えもすべてが大振りにできていて、人をホッとさせる雰囲気がある。

鎌倉時代に日本に伝えられた禅宗は2種類ある。一つは臨済宗。そしてもう一つが曹洞宗。ともに、6世紀頃のインドの皇子「達磨」を始祖とするものだ。
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、唐の臨済義玄(?-867年)を宗祖とするもので、鎌倉幕府が開かれる前年に中国の南宋から帰国した栄西らによって日本に伝えられ、武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。一方、曹洞宗は、栄西と同じ頃宋に渡った道元が曹山本寂から曹洞宗を学び日本に持ち帰ったもので、こちらは地方豪族や一般民衆に広まった。
禅宗が当時の人々に受け入れられた理由としては、いろいろな説があるものの、武家政権がそれまでのいろいろなしがらみのある宗派とは違う新しい宗派を選んだことによるものではないのだろうか。


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大平山 糸トンボ

2009-12-07 21:58:55 | 古都 鎌倉

 

 【撮影地】神奈川県鎌倉市今泉(六国峠)(2009.9月撮影)
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北鎌倉駅を降りて、線路沿いに明月院へ。さらに左に歩き、住宅地を入ると本格的なハイキングコースに入る。
半僧坊、十王岩、鷲峰山、大平山、天園、天台山、胡桃山などと名づけられた台地が、季節ごとの美しさを楽しませてくれる尾根歩きの天園ハイキングコースだ。
百八やぐらと貝吹き地蔵が見所。二度の元寇で疲弊した鎌倉幕府、新田義貞の鎌倉攻めに敗れた北条一族の滅びの遺跡である。
途中、天園(六国峠)からは鎌倉の町と海の眺めがすばらしい。
そして、鎌倉宮から、荏柄(えがら)天神、頼朝の墓を経て、鶴ヶ丘八幡宮に抜ける。
鎌倉アルプスとも呼ばれて、建長寺から瑞泉寺までの山々を連ねている。鎌倉にもこんなところがあるのかと驚くほど、豊かな森の中を歩くことになる。

天園という名前を付けたのは日本海海戦でロシア艦隊を破った海軍大将東郷平八郎らしい。
天園を歩いていて見かけたイトトンボ。羽を広げて止まっているので、アオイトトンボ科なのだろう。
5~6月頃羽化した成虫は、池の周辺の林に移動し、林内の草地で暮らしているらしい。そして、9月頃になると池に戻り、生殖活動を行うようだ。
こんな山の中で、君は一人で何をしているのだろう。早く、池にお帰り。きっと、みんなが君を待っているはず。

天園ハイキングコースを歩いて、すぐ足元にゴルフ場があり住宅地があることに気づく。世界遺産に登録しようとすることの意味は、実はイトトンボたちの住む歴史ある町を、これ以上、壊さないことにあるに違いない。


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今夜はHearty Party

2009-12-06 18:06:53 | プチ放浪 都会編

 
 
 
 

「プラチナ色に輝く 街の灯り 昔の仲間が待つ店へと急ぐ 積もった話聞かせたい」

今年の9月に、ある一人のダイビングインストラクターの話をブログに書いた。
沈み行く船から奇跡の生還を遂げた男だった。
彼の了解も得ずに、一方的にブログに彼の話を載せたことで、事情を知るダイバー仲間たちの顰蹙をかうことを覚悟してのことだった。吹っ切れたように、明るく振舞う彼ではあるが、まわりの皆はすごく気を使っていたのだった。立ち直らさせたいと・・・。

ところが、昨日のパーティでとある女性ダイバーから言われた。
「あの記事を読んでて涙がでました」
泣かせる文章を書いたつもりはなかった。
書いた当時は、強迫性障害に悩む女性からのメールが途絶えていた時期だった。
彼女はそれまでぼくのブログを読んでくれて、思い出したように、ごくたまに
「勇気付けられました」とメールをくれていたのだった。

メールが途絶えて、会ったこともない彼女だったが、彼女を元気付けるつもりで、あの記事を書いたのだった。あの記事はそんな文章だと今も思っている。

「忘れかけた 笑顔とり戻すのよ ささやかなひととき」

パーティで声をかけてくれた女性。いつも彼女の言葉には心をドキンとさせられる。感受性の強い彼女のことだから、文章のいろんな背景を感じてくれたのだろう。ありがたかった。
今年も、いろんな思い出を残して時が過ぎていく。
みんなに会えるから
We're gonna have a hearty party tonight

「今夜はHearty Party」(竹内まりや)
作詞・作曲 竹内まりや



「みんなが集まれば We're gonna have a hearty party tonight」
「愛すべき友達 誰か歌い出せば 涙もどこかへ飛んでく あっというまに 立ち直れちゃうの」
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縁切り寺から明月院、そして高徳寺

2009-12-05 07:00:44 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

最近になって鎌倉を散策するようになり、自然の中で花や鳥を見るようになると、和歌に興味を覚えるようになってきた。

夫と離婚したい女性が、男子禁制のこの尼寺で3年間(のちに2年間)の修行をすれば離縁ができるという「縁切寺法」を定め、その勅許も得ていた東慶総持禅寺。
女性救済に後半生を捧げた豊臣秀吉の孫娘、20世の天秀尼を経て22世以降は無住、次いで明治4年(1873)の縁切寺法の廃止。明治36年(1903)以降は男僧寺になり現在に至っている。
右手に本堂を見ながら進むと、松ヶ岡宝蔵、その横にもみじの大木があり、薄く紅葉している。突き当りが山で、その山影が墓苑になっている。

東慶寺のあと、明月院を尋ねた。東慶寺の落ち着いた佇まいと明月院の華やかさは、程よい対比を感じさる。ともにぼくの中でもベストファイブのうちの二つ。
明月院の装飾を排した簡素な建築美。ここの丸窓のルーツを探したのだが、建築年代が定かではない。ひょっとしたら、昭和始めにドイツから亡命したブルーノ・タウトが、「泣きたくなるほど美しい」と絶賛した1600年代に建造された桂離宮の月波楼が手本となっているのかもしれない。
江戸のはじめに天下の名妓として一世を風靡した吉野太夫が好んだことから、吉野窓とも言われている。
丸窓といっても下は直線に切られている。

下が少し欠けているのは、自分はまだまだ未熟であるということを表したものなんだという。
いままでは、自分が美しいと感じるものを美しいと思えばいいと思っていた。でも、独りよがりの写真ではだれも感動を共有してくれない。
・・・なんてことを、この丸窓からの景色を見て反省したりする。

高徳院。ここを目指して日本人だけでなく、海外からも人もいっぱい来ている。裏手に回れば、
『 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな 』  与謝野晶子
と詠った与謝野晶子の歌碑がある。
秋木立なれど においたつかな?・・・。。


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明月院 秋の日のつるべ

2009-12-04 23:19:32 | 古都 鎌倉

 

【撮影地】神奈川県鎌倉市山ノ内189(明月院(めいげついん))(2009.9月撮影)
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秋の日はつるべ落としという。つるべとは、井戸で水を汲むための桶(おけ)のことだ。狭く薄暗い井戸の中へ落ちていくつるべは、あっという間に見えなくなるので、秋の日の短かさをぴったりと言い表している。
実際に、秋の日に鎌倉を探訪していると、日があっという間に暮れる。
しかも、夕方6時半ともなると 潮が引いたように観光客がいなくなり、7時半には人通りがなくなり店が閉まってジ・エンド。。
だから、鎌倉では秋の日の短さが特に実感される。

鎌倉十井の1つである明月院の「瓶(かめ)の井」には、鉄の輪をはめた木の桶が天井の滑車と通したロープにくくられて置いてある。
いまもなお、木の桶が使われ続けていることに一人感じ入るのだが、その当時は鉄の輪ではなく竹の箍(たが)だったのだろう。今では、竹の箍を編める人がいなくなったので、鉄の輪に変わらざるを得ないのだろう。


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