tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

山手 クリスマス

2009-12-13 20:46:28 | 港町 YOKOHAMA

 
 
 
 

山手を散策していると、ミッションスクールの学舎から流れてくるクリスマスキャロル。
そして、元町のクリスマスツリー。

地元出身だった女性が、いつも12月が近くなると、音楽の授業でヘンデルのオラトリオ『メサイア』の中の「ハレルヤ・コーラス」や、讃美歌第二編219番 さやかに星はきらめき(聖らに星すむ今宵) (O Holy Night)を歌ってたと言っていた。

彼女は何年ぶりかに母校に行って、クリスマス礼拝に出席したらしい。
毎日歩いた廊下や階段。授業を受けた教室、窓から見える景色。
それぞれの箇所にいろんな思い出がこみ上げてきて、懐かしさで心がいっぱいになったとのこと。

そうなんだよね。チャペルが講堂。入学式、始業式、終業式、卒業式など、式事はすべてチャペルで行われる。
そして、キリスト教主義の学校だから、毎日の礼拝も行われる。チャペルに荘厳にひびくパイプオルガンの音。

ぼくの学生時代の思い出はロクなもんじゃない。高校の窓からは・・・はて?何が見えたか思い出すことすらできない。

Schooldays were the happiest days of your life. But we never appreciate the good times we have. Until it's too late.

変わらないものが、ひとつでもあったら安心する。時がたっても変わらない場所。
多くの人が日々の喧騒で振り返っていく。
今年もあとわずか。。


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山間の古刹 覚園寺

2009-12-12 08:44:33 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

時のまの 心の色ぞ しられける 秋の木の葉の 風にまかせて (藤原為家『為家集』)

鎌倉は三方が山に囲まれていて平地が少ない土地だ。多くの寺は狭い谷(谷戸(やと))の奥に建てられている。
執権北条泰時の時代に鎌倉では人口が急増し、このため墳墓堂としての法華堂を建てることが禁止されたらしい。このため、やわらかい凝灰質砂岩でできている陵山腹を穿って仏堂的横穴墳墓であるやぐら(谷戸倉(やとくら))が造られたのだという。
覚園寺は「薬師堂ヶ谷」という谷戸にある。山を隔てて1つ向こうの谷は「獅子舞」とよばれる紅葉の名所だ。
建保6(1218)年、二代執権北条義時が、この地に建立した大倉薬師堂が前身で、その後、永仁4(1296)年、時宗(八代執権)の子、貞時(九代執権)が、再度の蒙古襲来の難を逃れることを祈願して覚園寺を建立した。
その後火事で焼失したが文治3年(1354年)足利尊氏によって再建された。
北条氏、後醍醐天皇、足利氏と代々保護されてきた。

境内は鎌倉武士の凛とした厳しさと神秘さを漂わせ、鎌倉時代の景色を思わせる。茅葺の薬師堂を背景に落葉の絨毯・もみじ・銀杏・あけぼの杉(メタセコイア)の彩なす紅葉は息を呑む美しさだ。
元禄年間に再建された薬師堂には本尊の薬師三尊坐像、左右に日光・月光菩薩・周りに等身大の十二神将立像が取り囲んでいる。また、生前、川端康成が愛してやまなかったという阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)が本尊の右奥に祀られているほか、本堂天井梁牌には、足利尊氏直筆の字が書かれている。

鎌倉に足を向けると幾分感傷めいたものが湧く。自分の心に残っている若き日々の記憶があるからだろうか。ほの苦い、それでいて切なくなる思い出。。  


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明月院 円窓(えんそう)のルーツ

2009-12-11 22:14:45 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

先日の記事
縁切り寺から明月院、そして高徳寺」(
http://pub.ne.jp/tetujin/?daily_id=20091205)にて
明月院の円窓を
「1600年代に建造された桂離宮の月波楼が手本となっているのかもしれない」
と書いたのだが、それ以前に建てられたの円窓がある建物が見つかった。
長崎県長崎市にある黄檗宗崇福寺(おうばくしゅうそうふくじ)。黄檗宗では日本で最古の寺だ。
氷裂式組子の円窓が特徴のこの寺は、「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)のひとつで、元和6年(1620)中国人がキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建されたものだ。本堂は中国工匠による黄檗様建築物と呼ばれる純粋な中国建築で、円窓は「日」と「月」を表象したものと言われる。

一方、円窓の通称である「吉野窓」の由来の二代目吉野太夫(慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日))。 彼女は京都の六条三筋町(後に嶋原に移転)「七人衆」の筆頭の太夫だ。また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓と言われる。つまり、安土桃山の世、京の都にその名をはせた遊女。黄檗宗崇福寺の建築年代とぴたりと合致する。

彼女は幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)と言った。14歳で太夫になるのだが、和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めた才色兼備の美少女だった。遊里という華やかな環境にありながら、彼女は万事に控えめで、化粧もわずかに唇に紅をひくのみ、それでも際立つ美貌だったと伝わる。
当時きっての文化人、本阿弥光悦や灰屋紹益などとも交流があり、『東に林羅山、西に吉野』とまで賞された。たしか、吉川英治の「宮本武蔵」にも彼女は登場する。。

彼女は女性としてのやさしさにもあふれている。七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身にほどを嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて思いをとげさせてやったらしい。

寛永8年(1631年)、26歳で都の豪商、灰屋紹益と結婚退廓。寛永20年に死去。享年38歳。
日本一の幸せ者の紹益は、吉野の遺灰を飲み干してしまうほど嘆き悲しんだ。

「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」

 という歌を、紹益は残している。

吉野太夫。今で言えば・・・。いや、やめておこう。芸能人をぼくは知らなすぎる


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円覚寺 まんじゅしゃか

2009-12-10 23:08:36 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市山ノ内409(円覚寺)(2009.9月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
all rights reserved.

「涙にならない悲しみのある事を知ったのは つい この頃」
毒々しい赤色の華を咲かせる曼珠沙華、その根の毒は、食らわば体を蝕む。 秋を告げる不吉な死人花。
曼珠沙華は、いわゆるヒガンバナのこと。秋になると、いろんな場所でこの赤い花を目にする。

「まんじゅしゃか 恋する女は まんじゅしゃか 罪つくり」
女性の人生は、両親の死、子への愛、そして、去った男への愛憎に集約されているのだろうか。その中で生きようとする時、それは、葛藤となって立ち現れて来るのかもしれない。
カッコばかり気にしているオトコどもと違って、カッコ悪くても、頑張ってなくても、生きてるだけでエライと常々思っている。所詮、女のほうが男よりも利口なのだ。

「あなたへの想い どこまで行ったら止まるのかしら」
曼珠沙華には、彼岸花の他にもうひとつの意味があって、仏教用語で、その花を見ると悪業から離れられるという白色の天界の花を言うらしい。
珠沙華(まんじゅしゃげ)(まんじゅさげ)(まんじゅしゃか)、 彼岸花(ひがんばな)、 死人花(しびとばな)、 幽霊花(ゆうれいばな)、 天蓋花(てんがいばな)
剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあ、三味花(さんまいばな)、したまがり、地獄花(じごくばな)、剃刀花(かみそりばな)

「あなたへの手紙 最後の1行 思いつかない」


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円覚寺 時計仕掛けの犬は、アンドロイドの夢を見るのだろうか(2) 

2009-12-09 23:11:03 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市山ノ内409(円覚寺)(2009.9月撮影)
Copyrights© 2005-2009 TETUJIN
all rights reserved.

・・・武家政権は、それまでのいろいろなしがらみのある宗派とは違う、新しい宗派である禅宗を選んだ。

源頼朝は鎌倉殿として武士の頂点に立ち、京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。
すなわち、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがったのだ。
幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立。したがって、公的な機関ではない鎌倉幕府は、全国の武士を統治したわけではない。
鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)を支配下においた。そして、元寇以降に全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上、全国を支配してゆくこととなる。新しい政治のシステムには新しい宗教のソフトウェアーを。。

当時の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われていた。当時のお勉強の内容は「宇宙の原理と運動の理解」。一方、鎌倉では、北条氏による政権が安定し始めた時代に、京の公家の文化に対抗して武家の宗教や文化の象徴として、禅宗の円覚寺や建長寺が建立されたのである。
無骨な武士の宗教とは言え、それまでの文化を踏襲する必要がある。禅宗でいうところの悟の境地は、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に、さらには、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。

・・・「電気仕掛けの犬にも仏性はあるんだろうか?」

雲水と呼ばれる禅の修行僧たちは、専門道場で修行している。朝は午前3時半頃に起床(開静 かいじょう)、本堂での読経(朝課 ちょうか)の後、禅堂での坐禅を組む。
坐禅の途中、雲水達は一人ずつ師僧(師家 しけ)の部屋に行き、師家より与えられた禅の問題(公案 こうあん)の回答をする。
「大疑無くんば、大悟無し」の立場から、自己に対する疑問によって自心を深めるらしい。

狗子仏性(くしぶっしょう)は、禅の代表的な公案のひとつだ。
 『従容録』第十八則では「趙州狗子」。「趙州無字」とも言う。
 「狗子に還って仏性有りや無しや」(大意:犬にも仏性があるでしょうか?)
 趙州和尚は答えた。 「無」
・・・絶対的な「無」
しからば、「心がないアイボには?」


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